16-2.懸念
第二十小隊の部屋、窓際の席に陣取ったアレックスは、不機嫌を露わに眉をしかめた。やさぐれた気分に任せ、手にしていた資料を放り投げれば、使い込まれた机に落ちた紙の束が乾いた音を立てる。
報告に来たついでに、室内で資料を探っていた第十七小隊長のアイザックがあくびをしつつ、呆れたような笑いを零した。
「ご機嫌斜めだな」
「厄介な件になりそうですから」
「まあ、おかしな薬がからんだ案件は、いつもそうだけどなあ」
今回のはその中でもかなりな、とアイザックも苦々しく呟く。
探し当てた資料をめくり出したアイザックを横目に、アレックスは椅子の背に深くもたれた。
ここ数日、アレックスが自室にもまともに戻れず、短い仮眠をここでとるだけという生活を送っているのは、一週間ほど前に報告された薬物の調査のためだ。
循環器系と呼吸器系をやられて急死する者が増えている、奇妙な病気が流行っているのではないかという噂が出たのが半年ほど前、なんとか回復した者から話を聞いた街の医師たちが薬物によるものでないかと疑って騎士団に通知してきてのことだ。
情報収集を専門とする小隊が中心となって、死者の足取りを追い、最近ようやく末端の売人が『天使の息吹』と呼ぶ新種の麻薬に行きあたった。
従来の麻薬より高値で取引されているそれは、使用者に変わった至福感を与えるらしい。
目の前の人物に対して献身的になり、ひたすら従順になる。中毒性が高く、循環器系と呼吸器系の神経をやられて末期には死に至るが、そこに至るまで使用者は一見して普通の生活を送ることが可能。しかも幻覚や凶暴性の発現など、反社会的行動はあまり観察されない。
(この麻薬の名は皮肉としか思えない)
アレックスはおぞましさに、顔を歪めた。
普通の麻薬は、往々にして逃避を求める使用者本人の需要に基づく。だが、この麻薬は、他者を思いのままに支配したいという新たな、けれど確実に存在するだろう需要を掘り起こしてしまう。
さらに言えば、反社会的行動が発現しない、症状が出た時には死まで秒読みという点も犯罪の発覚を遅らせることにつながる。隠蔽するにはもってこいの性質だ。
アレックスは窓の外へと顔を向けた。
先ほど朝日を受けて、下部を朱金色に輝かせていた小さな雲の数々は、強くなった日差しを受けていつの間にか霧消してしまった。
上から明るく澄んだ青空が刻々と広がっていき、東の地平に残っていたオレンジを散らしていく。どうやら、今日は初秋らしい爽やかな日になるらしいと思ったが、それが今の王都の状況に比べてひどく皮肉に思われた。
この空の下、一見普通に過ごしている誰かが麻薬に侵されて、死に近づきつつある。早急に止めなくては、犠牲者はさらに増え、街、いや国全体が蝕まれる。
(そういえば……似たような薬があった。あれは医療用だったが)
責任の重さに息を吐き出したアレックスの脳裏に、ふと昔世話になったかかりつけの老医師の生真面目な顔が浮かんできた。目を瞬かせる。
幼い頃一日の大半をベッドで過ごすアレックスに頻繁に付き合ってくれた彼は、合間合間に医術を始めとする自分の興味を話してくれた。
ずっと臥せっていたアレックスの退屈しのぎになればと思ってくれたのだろうが、今思えば病気の子供に話すことではない。
なるほど、不器用な人だったのかと今更思い至って小さく笑ってから、アレックスは思考を元に戻す。
(確かアビスアという名の薬だった)
強力な痛み止めだが、副作用として服用者の創造な行動や感情表現が抑制されてしまうという話だった。わずかながら中毒性があって、重症患者がある程度回復するまでの短期間に限って投与される、高価な薬だと言っていた。
「おはようございます」
「よー、アレックス、今日も早いな」
椅子ごと窓へと体を向け、空を睨むアレックスの背後に、第二十小隊の面々が姿を顕す。
最年少はフィルと同期のロデルセン。剣の腕はあまりよく無いが、すばらしい記憶力を誇って初年からこの小隊に配属された。本人はその扱いが不服なようだが、彼が『騎士』に憧れていなければ、高級官僚として王宮に採用されること請け合いの器だ。で、今頃はフェルドリックあたりに見つかって、フォースンと一緒にひどい目に遭っていただろう。
最年長は四十五歳のレンセム。戦闘で左腕が利かなくなってから十五年にわたってここに所属するベテランだが……極度の面倒がりで、極めて横暴。彼が小隊長になるのを嫌がったせいでアレックスはここに移された。
他に七名。いずれも第一小隊に負けずとも劣らない個性的な面子で、アレックスはこの仕事を『押し付けられた』と日々実感しているところだ。
「朝早いというか、また徹夜したんじゃないか?」
「アレックスの不在をいいことに、誰かがフィルのところに忍び込んで言い寄ってたりして」
「いや待て。実は帰りたくないのかもしれない」
「まさか……仕事と私とどっちが大事なの? とか言われてたり?」
「もしくは、本当に仕事なのに浮気を疑われて、逃げまどってたり?」
「おお、将来、恐妻家ってコース!」
「えー、そんなフィルもアレックスも嫌だなあ」
勝手に、しかもさらさらと無駄話を捏造されて、アレックスはひくりと口元を引きつらせる。
「見ろ、そのフィルだ」
「あ、笑った。あれはかわいい」
「そこは同意。自分の三倍近くある男を、笑いながらぶっ飛ばせる奴だけどな」
「お? ミックがまたフィルに付きまとってるぞ。懲りないよなあ」
アレックスの背後の窓に全員が並んで立ち、眼下の鍛錬場を眺めて口々にしゃべり始める。
朝の静穏と事態の深刻さへの憂慮に満ちていた室内の空気が、一気に軽くなった。
対称的にアレックスの空気は重くなったが、頭の切れで勝っても勘の鋭さで第一小隊に劣るこの部屋の面々は、それに気付かないらしい。
「それにしてもアレックスが帰ってないってのに、フィルのやつ、普通そうじゃねえ?」
「そこが健気でいいんじゃないですか」
「案外本当にどうでもよかったりして」
「マジ? 実はアレックス、未だに片思い?」
「いやあ、アレックスが仕事にかまけてるせいで、フィルのほうももうどうでもよくなってきてるのかも」
「あ、あの、その辺にしておかないと……」
ロデルセンが蒼褪めた顔でこちらをうかがっているのがわかったが、アレックスの中で何かが切れる音がした。
(鍛錬場にいるフィルの姿を見る、それだけのことで昨今俺がどれだけ癒されていると……それを……)
「さむい……」
そう呟いてアイザック第十七小隊長が、そそとアレックスから遠ざかる。
「アッシュ、ワズ」
アレックスは目線を向けることなく、傍らの二人に低い声を投げた。自分より年長、入団時期から言っても先輩ではあるが、それを気にかける気分でもない。
「この一年間に南方交易に携わった者の名と取引種目、手段、金額、量を調べろ。貴族などの場合、自身が表に出てきていないことが多い。抜かるな」
「オーリー、トーマスは痛み止めのアビスアの原料植物について洗い出し。近縁種で中毒性の高いものがないかどうかには特に注意を払え」
「ゾーコックとフレッチェンは納税者リストを吟味して、昨年の納税状況と現状に相違のある人物を拾い出せ。裏付けを怠るな」
「ロデルセン、過去の麻薬密売事件の経緯と今回の相似点をまとめてくれ。組織的だった案件に限っていい」
「中和剤の手配はバステク。オーリーたち、それから医師たちと連携をとることだ」
「レンセム補佐はカザックとオーセリン海洋国、アルマナック、それからメーベルド国との関係に何か変わった点がないかを。フォースン王太子執務補佐官……いや、いっそフェルドリック王太子殿下に直接会ってくれば話は早いな」
せいぜい苦労するがいい――私怨一杯に一気に言い切って全員の引きつった顔を確認すると、アレックスはその上でにこやかに笑ってみせた。
「以上、本日午後二時まで」
一斉に「げ」という声が上がったのを、打って変わって冷ややかな目で見返し、「厳守。一秒たりとも遅れるな」と止めを刺して、椅子から立ち上がった。
「二時って鬼すぎ……」とか、「ひどい、あれってフィルを見るなってことですよ」とか、「俺までとばっちり……」とか、「ちょっと待て! こっちの用件だけでそうですかって解放してくれる人じゃねえだろうが、あの殿下は!」などという声を背に、アレックスは遅い朝食をとりに食堂へと向かう。
彼らのそんな恨み言など、もちろん知った話ではない。もし遅れたり、内容に不足があったりするようなら、それをネタにさらにこき使ってやると密かに決意を固める。
音を立てて分厚い木扉を閉めれば、室内の雑言が消えた。
戻ってきた静穏と、窓から廊下に吹き込んでくる朝の冷涼な空気に気を取り直す。
(夏の盛りを過ぎたとはいえ、まだ日差しは強いな)
もう朝日とは呼べないまでに昇った太陽の光の強さに、アレックスは目を細めた。
廊下の十字路に差し掛かり、直進すべきところを思い直して右に曲がる。いくつかの階段をおりていくと、徐々に賑わいが大きくなっていく。
(いた……)
着いた先の鍛錬場で、ウェズ小隊長相手に剣を振るっているフィルを見つけて、アレックスは知らず表情を緩めた。
日差しに金の髪をさらに煌かせ、中段からウェズの喉を鋭く狙う。鋭利な目線と空気、しなやかな動きはいつものことながら豹を連想させる。
ウェズはわずかに後退ってギリギリのところでその切っ先をやり過ごす。半身を捻って間合いを詰めた。彼に応じて、フィルは体を低く落とす。
動きに応じて舞ったウェズの赤髪の向こう、緑の瞳と一瞬目線が交わった。
澄んだその色に魅入られた瞬間、彼女は彼女で剣を握る時特有の冷厳な顔を少し綻ばせた。そんな隙をウェズが逃すはずもなく、フィルは直後に上腕に一撃食らった。
剣を下ろしたウェズが片眉をしかめながら、こちらを振り向く。そして、「なるほどな。感心はできないが」とにやりと笑い、フィルが真っ赤になった。
「おい、アレックス、久しぶりにどうだ?」
誘われて気分が高揚した。剣を握って神経を研ぎ澄ますあの感覚が、机に座りっぱなしで凝り固まった身体に蘇る。
「では、お言葉に甘えます」
腕が鈍らないよう、仕事の合間を縫って鍛錬しているけれど、またフィルと差が開くのではないか。そう恐れている身には、願ってもないことだった。
「えー……私もアレックスとしたかったのに」
「油断するようなやつにそんなことを言う権利はねえ」
「む。確かに剣士失格」
ぶつぶつと呟きながら、刃を潰した模擬剣を自分に渡し、脇へと下がっていくフィルにアレックスはつい笑いを零した。
その自分と再び目を合わせ、嬉しそうに、照れたように彼女が笑う。その顔に殺伐とした話ばかりでささくれだっていた気分が和いだ。
考えてみれば、こうしてまともに顔を直接合わせることすら数日ぶりだ。
(今晩は何があっても部屋に戻って、フィルの横で眠るとしよう)
「お願いします」
剣をウェズに対して正眼に構えながら、そんなことをのんきに決めて――フィルにまともに構っていないことの意味に、アレックスはこの時まったく気付いていなかった。