8.”運命”(後)
数日後の朝、ニステイス伯爵邸への襲撃の報が我が家にもたらされて、事態は切迫する。
「……っ」
襲われたサンドラが意識を失っていると伝えてきた使者に、スペリオスは顔色を失った。らしくなく、話を聞き終える前にニステイス邸に向かおうとした彼を、使者が慌てて制止する。
「アレクサンドラさまは、ザルアナック伯爵邸で保護されておいでです」
「え?」
「ザルアナック……?」
疑問を感じるゆとりもなかったのか、取るものも取りあえず出ていったスペリオスを見送って、夫と顔を見合わせた。
その日の深夜、ようやく戻ってきたスペリオスの顔は、セフィアたちの予想に反して、晴れ晴れとしたものだった。ここ何年も見たことのない明るさが漂っている。
サンドラが五体無事なことだけは聞いていたから、その辺の心配はしていなかったのだけれど、昨今の陰惨な雰囲気が嘘のようなその様子に、夫と共に呆気に取られるしかなかった。
「な、何が起きたの……」
「……なあ、ついに壊れたと思うか?」
朗らかに「解決の目途が立ちました」とだけ言って部屋に引き上げていく彼を見、そんなセリフを吐いた夫の足を思わず蹴飛ばしてしまったのは、反省していない。
が、うちの息子たち、年が経つに連れてますます謎になっていくわ、とセフィアも嘆息した。
翌日以降の騎士団による捜索の結果、襲撃事件のみならず、義兄が行っていた事のすべても白日の元に晒されて、当然ニステイスには逆風が吹くようになる。
それでもスペリオスはなぜか明るいまま。頻繁にニステイス家に出入りして、これまたなぜかご機嫌であれやこれのごたごたを義兄に代わって処理しているらしい。
「やっぱり壊れたのかしら」
その日も上機嫌で出ていったスペリオスを見送って、セフィアは首を傾げた。夫が横で「僕がそう言った時は足を蹴ったくせに」と呻いたのはもちろん聞こえないふりをした。
「ご無沙汰しております、叔父さま、叔母さま。心配していただいたのに、お詫びもお礼も遅れてしまってごめんなさい」
年が明け、昔と同じようにスペリオスと仲睦まじく我が家へとやってきた姪のアレクサンドラは、やはり昔のように、気の強そうな、でもかわいらしい笑顔を見せて笑った。ここ数年、死んだような目しかしていなかったのが嘘みたいだった。
それから彼女は、今回の騒動とその前から続く色々を話してくれた。
セフィアたちが憂えていたとおり、ひどく追い詰められていたことがわかって、「もう少し早く介入すべきだった」と謝罪すれば、サンドラは「『運命』に囚われているのは私――そう私自身が気づく必要があったの」と首を横に振った。
「運命があったとして、それが良いものか悪いものかは、すべて自分次第なのですって、努力次第で変えられるのですって」
そして、ふっきったように明るく笑い、話の最後をそう締めくくった。
横を見れば、スペリオスも晴れ晴れとした顔で、隠すことなくその彼女を大事そうに見つめている。
「アレクサンダーがサンドラにそう言ったの?」
そう訊ねたセフィアにスペリオスは笑った、「さすが母親」と。アレクサンドラも「本当にその辺は似た者よね、あの二人」と笑う。
「アレックスに言われたのは僕の方だよ、母さん。これが最良、運命と言われても、本人がそう思えなければ意味はないんだってさ」
「私にアレックスと同じようなことを告げたのは、フィリシア・フェーナ・ザルアナック嬢ですよ、叔母さま」
そうしてセフィアとヒルディスは、ようやくフィルの所在を確信した。
「一年と三ヶ月と二十六日!」
「セフィア、今日で二十七日目だ」
「……?」
まだ風に冷たさの残る春先、本を取りにうちに寄ったアレクサンダーを夫と二人で取り囲んだ。
彼が困惑と怪訝を露わにしたのは、親不孝者への罰ということで当然無視。
「よくもフィルのことをここまで隠していたわね」
「っ」
一瞬で顔を引き攣らせて、くぐったばかりの入り口扉へと踵を返した彼を、身体を使って阻んだ。
(舐めないでほしいわ。これでもあなたの母親を二十年もしているのよ。あなたが次にどんな行動に出るかぐらいお見通しよ)
次男をジト目で睨めば、彼は頬を痙攣させつつ、心持ち身をのけぞらせる。
「上手くいっているそうじゃないか」
にやりと笑った夫の一言に、痛いぐらいに顔をあげなくては表情の見えなくなったアレクサンダーは顔を赤らめた。
(あら、これ、かなりかわいい……)
親ばか万歳、と思いながら、同じことを思っている様子の夫と目で会話する。
「見た、ヒルディス?」
「見たとも、セフィア」
「……」
「初恋が実って幸せだそうだ」
「幸せなようね、憧れのフィルだものね」
「……」
「隠したくもなるだろう、何年も何年も何年もしつこく想い続けた子なのだから」
「そうね、好きで好きで好きで仕方のなかった子だものね」
「……」
「そりゃあ仲がいいらしいな」
「目のやり場に困るくらいだって聞いたわ」
「……」
アレクサンダーが赤い顔のまま、嫌そうな顔で睨んできて、夫婦で涙を流しながら大笑いした。その隙に逃げられてしまったけれど。
泣いたのは嬉しかったからだとは、きっとあの子には伝わっていないだろう。
アレクサンダーが去ってしばらくして、ようやく笑いを収め、セフィアは横に並ぶ夫に向き直った。
あの日、あんなに泣いていた、シンディの忘れ形見のあの子だ。あの子がアレクサンダーとセフィアを救い、今度はスペリオスとサンドラを取り込もうとしていた『運命』まで、セフィアの怯えと一緒に拭い去ってくれた――。
「ねえ、味方してあげてね」
夫ははっきりとは言わないけれど知っている、ロンデール公爵家がザルアナック伯爵家に、そんなフィルを差し出すよう圧力を強めてきていること。
セフィアより二回り大きい彼の手を握って、その顔を覗き込んだ。
三十年経って、夫の顔には皺が刻まれ、頭には白いものが混ざるようになった。それでも相変わらず優しい目でセフィアを見てくれる、大切な、大切な人。
「大事な子供たちなの。大好きなあなたとの子たちで、彼らが愛する子たちで、親友の大事な子たちなの……」
夫は顔全体を緩め、「当然だろう」と言ってセフィアを引き寄せた。
「私は私のできることをする。そして、あの子たちのことだ。自分でできることは自分でする――」
「「そう信じてやらなくてはね」」
春を感じさせる窓越しの陽光の中で額をつき合わせて、夫と小さく笑い合う。
願わくは――あの子たちの未来が、こんな笑いに満ちた温かいものでありますように。