7.”運命”(前)
「お義兄さま、が……」
「ああ」
厳しい表情で夫が頷く一方、長男のスペリオスは感情の見えない顔で、秋の終わりの寂しさが漂う中庭を見ている。
セフィアの義兄ロドルグ・ブレーク・ニステイスが、持ち込まれた相談事を運命神の神託と偽り、政争の道具としてニステイス家に都合よく利用しているようだ、とその二人に教えられて、セフィアは怒りに目尻を吊り上げた。
(元々私とはそりの合わない人ではあったけれど、まさかそんなことまでするなんて……)
「お姉さまは……知っているわね」
あの人はそういう人だ。ニステイスに生まれたことと斎姫であったことで、自分は特別な存在だと無邪気に信じている。こんなふうに何をしても許されるといつか勘違いをするようになってもまったく不思議ではない人。
「それが原因でかなりまずい状況に陥っているようです。最近サンドラとアレックスの婚約を頻繁に言ってくるようになったのは、我が家の後ろ盾が欲しいからでしょう」
弟と従妹に囲まれて、柔らかく笑う子だったのに、今のスペリオスにその面影はまったくない。皮肉な調子で夫の後を受けた長男をセフィアは悲痛な思いで眺めた。
「アレクサンドラは……」
「気付いていない。あの子をやたらと社交から遠ざけると思っていたが、あの子のためというよりこのためだったんだろう」
怒りを滲ませ、「親のすることか」と吐き捨てた夫に、セフィアはひとまず息を吐き出した。けれど、スペリオスの表情に変化はない。
「まずいことに一部でニステイス家、斎姫の存在そのものを疎む声があがっている」
「それは……」
斎姫の存在を疑う気持ちはセフィア自身よく理解できた。でも今の斎姫は、昔からよく知っている、気の強いかわいらしい姪だ。
ちらりともう一度目を走らせた先。その娘を想っているはずの息子の顔からは、やはり内心が窺えなかった。
それからしばらく経った、息まで凍らせるような冷たい北風が王都カザレナを訪れるようになった真冬のことだった。
夫と二人、海岸地方の領地を訪ねていた間に事態は急展開した。不穏な気配があると知らされて、慌ててカザレナに戻ったセフィアたちを待ち受けていたのは、サンドラが実際に反ニステイスの者たちによる襲撃を受けたという報告だった。
幸いその時は無事だったものの、犯人が捕まっていないため、騎士団から護衛が差し向けられたという。
耳を疑ったのは、姉夫妻が騎士団長でもあるコレクト侯爵に特に働きかけて、アレクサンダーをサンドラの護衛にさせているということ、それからサンドラにアレクサンダーに付きまとうよう、しつこく命令しているということだった。
「スペリオスっ、どういうこと!?」
そして、それをスペリオスは黙認、それどころか影で糸を引いているらしい。
「どういうことも何も本人がそれを『運命』だと言うのですから、神託とでもなんとでも言って周囲を操り、アレックスを縛りつければいいとサンドラに告げました。彼女は同意しましたよ」
「スペリオス……」
旅装も解かないまま詰め寄ったセフィアに、息子は暗く笑った。自分の生んだ子だというのに彼の真意がまったくわからず、目眩を起こしそうになる。
(何が起きているの? 私は本当に何もできないの? だから『運命』なの……? そんなセリフをこの子から聞いたサンドラはなにを思ったのかしら? アレックスは? 兄が自分を裏切っていると知ったら……?)
混乱と嘆きのあまり涙を滲ませたセフィアに、ずっと無表情だったスペリオスは一瞬だけ困ったような顔をした。
「『神託』によれば、フィリシア・フェーナ・ザルアナックは、アレックスに混沌をもたらすそうです。ザルアナック伯爵ともひどい仲違いをしているようですしね。対照的に『運命』の相手であるサンドラと結婚すれば、爵位も繁栄も転がり込む――アレックスにとってもいいこと尽くめでしょう」
「スペリオス……」
淡々と話すスペリオスの物言いは、動揺するセフィアを慰めようとしているようにも、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
「――何を考えている?」
それまで黙ってスペリオスの話を聞いていた夫の静かな問いに、大人になった息子の顔が歪んだ。
「……さあ?」
「お願い、スペリオス、」
あきらめないで、できることはするから、と言い募ろうとしたセフィアを、だが夫が視線で制した。
「スペリオス、お前、最近ラーナックと会っているな」
「ヒルディス? え、ラーナックって……」
夫の言葉はセフィアには意味をもたらさなかったけれど、父と息子の間で意志は通じたらしい。
「……」
スペリオスはなんとも言えない顔を見せると、王城での越年祭に出席すると言って部屋を出て行った。
「……っ」
彼を呆然と見送り、はたと我に返った。音を立てて振り返ると、セフィアやスペリオスとは対照的に、顔を緩めている夫に詰め寄る。
「どういうこと!? 返答によっては出ていくわっ。これだけ心配しているのに除け者! 二人の息子は肝心なことどころか会話すら減らしていくし、夫はその息子たちと何か内緒話をしているしっ」
苛立ちに任せてあたり散らせば、彼は苦笑を見せる。余計腹が立って、憤然と踵を返したところで後ろから抱きとめられた。
これだけ怒っているというのに、「私自身が実際に確かめた訳ではまだないのだが……」と言う夫の声は少し笑っている。
「騎士団に金髪に緑の瞳の、おそろしく綺麗で強い騎士が現れた、という噂を聞いたことは無いか?」
「?」
脈絡のない会話に、誤魔化す気?と思ってしまって露骨に眉をひそめた。夫は目の端を緩ませ、そんなセフィアの眉間の皺を指先で突ついてくる。
「今年の春の剣技大会で優勝した子で、アレックスと組んでいるらしい」
「……アレクサンダー?」
「そう。色々なところで派手にやっているそうだよ。大衆の眼前で、ナシュアナ王女に忠誠を捧げたというのもその騎士なら、フェルドリック殿下を刺客から救ったりもしているし、チラパ峠の要塞を粉微塵にしたのもどうやらその子らしい」
それが何?とばかりに夫を睨むと、彼は笑いを深めた。
「その子が姿といい、性格といい、やることといい――かのアル・ド・ザルアナックにそっくりなのだそうだ」
「……小父、さま?」
思わぬ名が出てきて、ただただ目を丸くした。目の前で夫は、幸せそうに青い瞳を綻ばせている。
「入団は去年の秋」
「去年……」
「そう、アル小父が亡くなって、数ヵ月後のことだ」
「というと、アレクサンダーが帰ってこなくなった頃……」
「誕生日を祝うから帰って来いと言ってあったのに、アレックスが急に予定ができたと断ってきたのは、年が明けた今年一月」
「……」
「彼に余裕ができてきたようだと、セフィアが言ったのが今年の春。好きな子、恋人ができたのかも、と騒いでいただろう?」
「……ええ、と」
目を白黒させているセフィアがおもしろいのかもしれない。夫は笑いながら、額にキスを落としてきた。
「剣を握って、馬に乗って、木登りをして、冒険大好きな大層なお転婆で、『アレク』を魔物から守れるような強い子で……」
「だから、アレクサンダー、は、自分も強くなりたい、と言い出した……」
呆然と呟けば、目の前の宝石より美しい青の瞳が、セフィアを真正面から見返し、ゆっくりと頷く。
夫を見つめるしか思いつかないセフィアに、彼は「もうひとつ、とっておきの話もある」と顔全体を優しく緩めた。
「副騎士団長のポトマック氏は、最近登城する度に『偶然』どこか落ち着かない様子のステファンと出くわして、『騎士団の』最近の様子を尋ねられるらしい。それで、なぜかステファンはその騎士の話を聞き終えると、消えるそうだ」
「……っ」
頭にかかっていた靄が晴れた。暗澹としていた気分に光が差し込んでくる。
「つ、まり、フィル、フィリシアは今、騎士団、にいるのね……アレクサンダーと一緒に」
口にした瞬間、全身の肌が粟立った。
安堵のせいなのか嬉しさのせいか感動のせいかさっぱりわからなかったけれど、ボロボロと涙が溢れ出した。
「ステファンの馬鹿。何がどうでもいい、よ、好きにすればいいって、そういうことなんじゃない……」
苦笑を零した夫が、顔をぐしゃぐしゃにして泣くセフィアの目尻を、節の目立つようになった長い指で拭ってくれた。
「ステファンが言っていた通り、本当に好きにできる子だったんだなあ。最初にアル・ド・ザルアナックそっくりの騎士がいると聞いた時はまさかと思っていたんだが」
楽しそうに笑い出した夫につられてセフィアも笑った。
「こっちはどこでどうしているのかとずっと心配していたというのに、さすがと言うかなんと言うか」
「本当、アレクサンダーもステファンもフィルも皆ひどいわ」
「それだけじゃない。スペリオスもラーナックから聞いて知っているのだと思うぞ」
「ますますひどいじゃないっ」
ひどい、除け者にされた――そう思うのに、なぜか笑ってしまった。
(ねえ、シンディ、知っているかしら? あなたの娘が騎士団にいるんですって。あの綺麗で華奢で、穏やかなあなたの娘が! しかも、それをみんなして私たちに隠していたのよ、ひどいでしょう?)
笑いながら、思い出の中にいる彼女にそう話しかければ、美しいままの彼女が本当に幸せそうに微笑んだ。それでますます笑って――最後には声を上げて泣いた。
「きっとなんとかしようとそれぞれ頑張っているのだろう、スペリオスも、アレックスも、それからフィルも」
「じゃあ……なんとかするって信じてやらなくては駄目なのね」
アル小父さまもそう仰っていたし、と洟をすすりながら夫と改めて確認し合う。
が、それは一から十まで整えてやるよりもずっと難しいことだった――その夜、スペリオスが顔を腫らして夜会から帰ってきたからなおのこと。
理由を聞いても頑として言わないし、アレクサンダーからもなしのつぶて。ヤキモキとだけさせられて、親なんて本当にろくなものじゃない、と思ってしまった。