4.主張
それからアレクサンダーは、朝方一人で騎士団のポトマック氏の家に出かけて行くようになった。
案の定と言うべきか、最初のうちは、氏や夫人に伴われて帰ってきて、そのまま二、三日寝込むような有り様だった。
やめさせようと何度も思い、その度になんとか思いとどまる。
心配を口に出さないことがこんなにつらいことだと初めて知って、親になるとはこういうことか、と夫に愚痴を零しては笑われていたけれど、当のアレクサンダーは人の心配をよそに、諦める気配を欠片も見せなかった。その強い執着に、こんな子だったのかと初めて知って驚いたのも同じ頃だ。
そのうち、寝込むのが二日になり、一日になり、半日になった。
そう告げると、アレクサンダーは目をみはってから照れたように笑った。その顔が『少年』のもので、少し寂しさを感じると同時に誇らしく思った。
朝の訓練を三時間こなして帰って来て、その後一人庭で練習できるまでの体力が付いた時には、その肌はすっかり日に焼けていた。
そのうちに夕方二時間の稽古も加わるようになり、貧弱だった身体が、段々筋肉で覆われていった。
その頃になると、アレクサンダーはまたもう一つ自己主張を始めた。
「婚約破棄?」
頷いたアレクサンダーにその理由を訊ねると、顔を赤らめてから、「騎士になるから」と言った。
その時は騎士になるなんて大胆なことを言って照れたせいだと思った。
自分の犯した過ちが訂正される気もして、実家が渋るのを必死に説き伏せ、彼とアレクサンドラの婚約を白紙に戻した。実家は『どの道運命どおりになる、だから気の済むようにしたらいい』と嫌な言葉を投げてきたけれど。
ちなみに、スペリオスとアレクサンドラがお互いをそういう意味で気にしていることもなんとなくわかっていたから、渡りに船だと夫が笑ったのは夫婦だけの秘密。
「絶対に嫌だ」
成長を喜ぶと同時に、『可愛いアレクサンダー』が失われることを嘆いたのは母心。
半年ちょっと経った辺りで、似合わなくなる前に思い出を、と思って夫と長男と一緒になって彼を捕まえ、ドレスを着せようとしたところ、頑として拒否された。
「前は嫌がったって、結局着てくれたのに……」
「前は前」
「髪だって伸ばしてくれなくなったし……」
「稽古の邪魔なんだ」
「かわいいのに」
「嬉しくない」
むっとした顔を隠そうともしなくなって、表情から愛想が失われてしまった。
「女の子に間違われるほど綺麗な顔って貴重だよ」
「……間違われたことがないから、そんな事を言えるんだ」
兄のからかいに不機嫌そのものの顔をみせた次男にピンと来た。これは、と。
ザルアでこれだけ変わり、帰ってきてからは『強くなりたい』と剣を取って、可愛がっていた従妹との婚約も破棄したいと言い出した息子――女の子だ。
(話ではわからなかったけれど、シェリーの言っていたあの子は、女の子なんだわ。ザルアの知っている女の子なんて、一人だけど……)
「……フィリシア?」
「っ!」
ドキドキしながら、直感に任せてかけてみたカマは当たった。一瞬で真っ赤になったアレクサンダーは、信じられないものを見る目つきでこちらを見た。
嬉しくて思わず笑い出し、そして少しだけ泣いた。
(ねえ、私の大事な、懐かしいシンディ、あなたは知っているかしら? あなたが命を引き換えにこの世に生み落としたあの子が、私の息子と私を救ってくれたのよ……)
心の中で親友に語りかけながら笑い続けるセフィアに続き、呆然としていた夫も「つまり」と言いながら笑い出した。
「お前のザルアのあの子は、彼女だったわけか」
見れば夫の顔も泣き笑いとなっていて、二人で壊れたように笑い続けた。
フィリシアを知らないスペリオスが不思議そうな顔をする横で、アレクサンダーは輪をかけて不機嫌になっていく。
「「婚約破棄もそのせいだったのね(だな)」」
いい子だったアレクサンダーが、家族としばらく口をきかなくなるなんてことをしたのも、その時が初めてだった。
「ねえ、アレクサンダー、ラーナックがザルアに療養に行くのに、フィルへのお土産を託けようと思うのだけれど」
「……」
フィルの名が出るたびに、顔が赤らむのを必死で止めようとするアレクサンダーの表情にも、じきに慣れた。
「どうせなら、あなたが選びたいのではないかと思って」
「……」
「ほお、返事もしたくないほど彼女が嫌いなら、私たちが」
「っ、嫌いな訳ないっ」
「でしょうね」
「だろうな」
「……」
「いやあねえ、人間素直が一番よ?」
「そうそう、そんなふうだと嫌われるぞ、誰にとは言わないが」
「……」
それが面白くていつしか彼をからかうのが習慣になる。
(甘いわね、いくら睨まれたって母親だもの、怖くもなんともないわ)
小さく舌を出せば、整った顔が歪んだ。いい子で笑う顔しか見たことのなかった昔を想うと、そんな顔すら愛おしい。
「それで、何がいいのかしら? 人形とか……でも、もう九つよね。となると、宝石? アクセサリー? ドレス? 化粧品とか、あと香水は?」
「……植物図鑑」
「「……は?」」
「なんだそれ」
むっとした顔のまま(とは言っても照れ隠しなのだけれど)の返事に、またもや呆気にとられる。
食卓を共に囲む家族のそんな様子を物ともせず、アレクサンダーは続けた。
「毒キノコとか毒草の解説が載ったものがいい」
「……それ、喜ぶ、の?」
(ず、ずかん? って図鑑よね? 毒キノコ?)
頭を疑問で一杯にするセフィアに、アレクサンダーは真面目な顔で頷くと、控えていた執事見習いのローリーにペンと紙を持ってこさせ、そこにお薦めの本を書きつける。
「真面目な話、会いに行く前に死なれたら困るんだ……」
溜め息をつきながら独り言を呟いた後、何かを思い出したらしく、楽しそうに顔を綻ばせた。
一体どんな子なの?と訊いてみたかったけれど、これまでの経験で息子が答えてくれないことは明らかなのでその場は諦めつつ、彼が指定した図鑑を取り寄せてザルアナック邸へ届けた。
その後も女の子への贈り物としては、首を傾げたくなるようなものばかりが続いた。
その翌年は、ザルア地方とカザック国内の詳細な地図と、西方から伝わってきた方位磁石なるもの。
その翌年は、盤上ゲームのオテレット一式と、何に使うのか、ロープ。
その翌年は、北方から伝わってきた素材でできた軽量の寝袋と雪靴なるもの。
子供だからかしら?と思っていたのだけれど、あれから四年経ってさすがにおかしいと思い始め、夫に訊ねた。私が十二の時には既に大人の女性の真似事をしたくて仕方がなくなっていた。宝石に憧れ、ドレスに目を輝かせ、化粧の仕方に興味を持った。フィリシアだってそうではないのか、そこにあんな贈り物はどうなのだろう。十四の男の子はそんなのものなの?と。
「まだ子供なのかしら、それで女心がわからないのかしら?」
ヒョロヒョロで吹けば飛びそうな、娘のようだったアレクサンダーは十四でありながら、既に男性の平均身長に並んだ。日にも焼け、体つきもちゃんと鍛えた子のものとなって、母のセフィアでさえ惚れ惚れとするくらいの美少年になっていた。口数はぐっと減り、元々落ち着いていた物腰はさらに落ち着いてきた。
それに伴って女の子の目を惹くことも増えたようで、アレクサンダーの婿入りを願っての婚約の話も頻繁に舞い込むようになる。
それなのに本人は相変わらず。何かに憑かれたように剣の上達に執着し、寄ってくる少女たちにもなんら関心を見せない。唯一の女っ気といえば、フィリシアの話が出た時に見せる表情の変化ぐらい。
「でなきゃ、あんな変わった物を意中の女の子の贈り物には選ばないわよねえ」
「それが原因でふられたりしないよなあ」
そう言い合って、夫婦で嘆いたり密かに心配したりもした。
(こんなふうにしてる間に、彼女の気が他に行っちゃったらどうするのかしら?)
そう思いつくと居ても立っても居られなくなり、一度、庭で稽古をしているアレクサンダーに直接訊ねた。
「ねえ、本当に強くなるまでフィルに会いに行かないの?」
「……」
いつものように赤くなって、それを必死で隠そうとすると思ったのに、予想に反して、アレクサンダーは複雑そうな顔でこちらを見る。もうすっかり少年の顔と体つきだった。
「……」
そのまま黙って再び剣を振り始めた息子に、かける言葉が見つからなかった。
「ねえ、どう思う?」
その夜、夫にその話をすると、彼はとても嬉そうに笑った。男になっていっているのだ、と。
父という生き物と母という生き物の違いを感じた瞬間だった。
アレクサンダーがザルアから帰ってきてからというもの、彼についてだけじゃない、夫に対しても、自分自身に対しても発見ばかりしている気分だった。
その後間もなく――アレクサンダーは以前宣言したとおり、騎士団に入団して家を出て行った。夫もセフィアも文句を言ったけれど、意に介する様子もなく、あっさりと。
そりゃあ、我がままになって欲しいとは思ったけれど、とむくれたのも事実。でも、最低限の物だけを持って、家を出て行くあの子を見送って誇らしいと思った。
あの夏からちょうど四年後。夏の名残のきつい太陽のせいで、石畳の上に陽炎が躍っていて、あの子の背をすぐに隠してしまった、ある日の午後のことだった。