3.我がまま
ザルアに旅立つアレクサンダーを不安でいっぱいになりながら、でも平気なふりをして見送ったセフィアは、それから半年、毎日毎日夫ともう一人の息子に呆れられながら、彼の無事を祈って過ごした。
風が冷たくなり、街路樹の葉が赤く染まる頃、少し背が伸び、日焼けしたその彼が無事に帰ってきた。
出迎えて、再会に大喜びした翌日――。
「剣を習います」
ザルアでの出来事を詳しく聞こうと、執事にお茶と菓子の準備を言いつけ、夫とスペリオスと共に、アレクサンダーを居間に呼んだ直後のことだった。
「……なんですって?」
「……なんだって?」
淡々と話したアレクサンダーを前に、セフィアは夫と声をそろえた。驚きに気付いていないはずはないのに、彼は一切の補足なく、もう一度「剣を習います」と宣言する。
(……そ、りゃあ、元気になって欲しい、我がままになって欲しいと願ったけど……)
瞬きすることも忘れて彼を見つめる。
「紹介状ももらってきました。今から行ってきます」
(そりゃあ、自分の望むことをして欲しいと祈ったけど……)
こちらの顔色をうかがうことも、許可を求める素振りもない様子に、セフィアは呆然とする。
「……ちょっと待って」
「……ちょっと待て」
ケホケホと咳き込んで、それでも歩いて出て行こうとするアレクサンダーを、夫と共に慌てて呼び止めた。
「な、んというか、その……そ、そうだ、せめて馬車で……」
「そ、そうよ、ホーラン、手配を……」
「不要です。自分で歩いていきます」
(そりゃあ、いい子に笑う以外の色々な表情を見せて欲しいと思った、けど……)
執事を呼ぼうとしたセフィアをむっとした顔で遮り、アレクサンダーは扉を閉めて出て行く。その華奢な背を、夫と長男と一緒に呆気にとられたまま見送った。
「な、何が起きた……」
大抵のことに泰然と笑っている夫が顔を引きつらせている。
「あれ、アレクサンダーだよね……? 入れ替わったりしていないよね……?」
口をぱっくり開けていた兄のスペリオスが、繰り返し目を瞬かせながら呟いた。
それはない、と母の直感で思ったけれど、アレクサンダーとの約半年振りの再会は実に衝撃的だった。
「ええと、その、あちらに悪ガ……じゃなくて、すこしおかしな子がいて、それに毒され……いえ、影響を受けられたのかと……」
ザルアへの休養に同行してもらったアレクサンダーの侍女、シェリーを呼び出して訊ね、彼女から返ってきた言葉に思わず夫と顔を見合わせた。
続きを促すと、話しにくそうに彼女は続ける。
「その、あちらの、ザルアナック老伯爵さまが好きにさせるようにと仰って……」
確かにアル小父さまとエレン小母さまにアレクサンダーのことを一任したのだけれど、と目を瞬かせれば、夫も同じことをした。
「私、ええと、差し出がましいと思いながらも、老伯爵さまにお願い申し上げたのですが、その、楽しそうだから良かろう、と仰って……。それならばせめて私もご一緒にとお願いしたのですが、子供の特別な時間に大人が入るものではないと笑って取り合ってくださらなくて……」
その後、怒られるのではないかと怯えるシェリーを「絶対に叱ったり咎めたりしないから」と宥めすかして、詳しいことを聞き出した。
「その子は八つらしいのですが、大人顔負けに馬を扱って、大人の持つような剣を持っていまして……」
「玄関からお入りになればいいのに、びっくりさせたかったのだと二階のバルコニーからアレクサンダーさまを遊びに誘いにいらしたり……その、アレクサンダーさまも真似してそのうちそこから出入りを……」
「アレクサンダーさまに湖で水遊びさせるわ、泉に引きずり込むわ」
「アレクサンダーさまもその子と木登りをご一緒なさるようになって、枝で傷だらけになって帰っていらっしゃることも珍しくなくなって」
「熱が出ているのに出ていないふりをして、遊びに行こうとなさることもしょっちゅうで」
彼女の話はこれまで考えても見なかったことばかり。
目を丸くするしかなくて、言葉が出てこない。ちなみに、セフィアだけじゃなく、夫もスペリオスも傍に控えている執事のホーランも同じ様子だった。
「アレクサンダーさまが話しかけることもできないくらいひどく不機嫌になられたことがあって、少し経ってからお訊ねしたら、その子と喧嘩をなさったのだと」
「……喧嘩、あの子が?」
ようやく出た声に、シェリーは我が意を得たとばかりに大きく頷き、「あのアレクサンダーさまが、です。私も伯父もびっくりしてしまって」と言って、そこで幸せそうに微笑んだ。「でも、翌日仲直りなさってご機嫌で帰っていらしたんです」と。
そこから、彼女は彼女らしい明るさを見せて、ザルアでの日々を語り始める。
「何度か泊りがけで山登りに行って、ウィル・ロギアの話を聞いていらしたそうです。あのウィル・ロギアですよ! あ……で、でも、それ以上のことはお許しください。遭難対策をする理由や焼き菓子を持っていく理由が怖くて……じゃなかった、ええと、その、そ、そうです、ロギアさまが畏れ多くて、それ以上お訊きできませんでした」
「雨の日には一緒に屋敷の中で追いかけっこを始めて、それだけでは飽きてしまわれたのか、最後には階段をソリで一緒に駆け下りていらっしゃいました。怪我はなかったけれど、壁に大きな穴を開けてしまわれて……。翌日、その子は板と大工道具を持ってきまして、自分のしたことの責任は取れ、と老伯爵夫人に言われたからと言って、アレクサンダーさまと一緒になってせっせとその穴を塞いでいました」
「洞窟探検にも行かれました。その日の夜には、アレクサンダーさまはうなされていらっしゃいまして、あまりにひどいのでお起こししたら、卵を盗んで魔物に追いかけられる夢を見た、と…………うん、あの子のことだもん、多分実際持って帰ろうとし……な、なんでもありません」
「星を見に行くと、夜お出かけになって深夜までお戻りにならなかったこともありましたし、『お泊り』とおっしゃって、二人で夜中まで騒いでいらした翌日の台所のお菓子は毎回からっぽ。あの手この手で隠しておいたのに……」
彼女の話は他にも一杯。
言葉だけ聞いていれば、ろくでもないことばかりだと思うのに、話をするうちに侍女の顔に思い出し笑いが浮かんでいく。優しくも楽しくて仕方がないという笑顔。
「あのアレクサンダーが……」
最後にそう呟いた夫の台詞は、きっと聞いていた皆の共通の感想だろう。
「……楽しんでいた、のかしら」
シェリーにお礼を言い、「な、なんでお礼……? 怒られるんじゃなく……?」と顔を引きつらせた彼女を見送り、再び家族三人になった時。
「のようだな」
「あのアレクサンダーが木登りに水遊び、探検……しかも笑って、怒って、いたずら……」
夫は呆れたように笑い、スペリオスは相変わらず首をひねっている。
見てもいないのに、セフィアはなぜか想像できた。きっとアレクサンダーは、ザルアでこの夏、年相応の子供みたいに笑っていたのだ、と。
「……っ」
じわりと温かいものが胸に広がっていく。涙がこみ上げてくる。
心配していた分だけ感慨はひとしおだった。夫が苦笑して背を撫でてくれて、それで本当に大泣きしてしまった。