2.”最善”
「ヒルディス……」
「セフィア? ……真っ暗じゃないか」
夫が室内に入ってきた気配に、セフィアは寝台に埋めていた顔を上げた。部屋は闇に包まれていて、夫はセフィアが起きていることに驚いたようだった。
寝台脇のランプに火を灯し、ゆっくりと近づいてくる。
「君が気分が悪いと言っているとホーランが心配していたが……どうしたんだい、セフィア? そんなに青い顔をして……目も真っ赤じゃないか」
横に座り、彼は優しい手つきでセフィアの目元に触れた。
寝室は夫婦で共にしようとこの部屋を指定した時、義母や当時の執事に非常識だと叱責された。それを「私が可能な限りセフィアの側にいたいんです、大事な人だから」と笑って押し切った人。
(そんな人との間に生まれたあの子を私は……)
「ヒルディス、私、母親失格だわ……」
心配そうにこっちを見ている彼の青い瞳を見つめていたら、治まったはずの涙がまた溢れ出した。
いつも穏やかに微笑んでいるアレクサンダー。賢くて分別があって聞き分けがよく、わがままを言うことも無茶をすることも言いつけを破ることもない。
セフィアたち両親や兄のみならず、使用人にまで気をまわし、婚約者でもある従妹のアレクサンドラのわがままにも優しく付き合う。
いい子だと皆が口をそろえて言うし、セフィアもずっとそう思ってきた。
――八つの子のその異常さに、なぜこれまで気付かなかったのだろう。
その日、セフィアの姪でもあるアレクサンドラが遊びに来て、フォルデリーク家の長男スペリオスと一緒にアレクサンダーの部屋を訪れた。特に珍しくない光景だった。
「無理をしては駄目よ、アレクサンダー。スペリオス、彼とサンドラをよろしくね」
そう言って、ベッドの中のアレクサンダーと、その傍らのスペリオスに声をかけ、大人の自分は邪魔になるからとセフィアが部屋を出たのも。
その後しばらくして偶々その部屋の前を通りかかった際に、セフィアはサンドラの可愛らしい誘いを聞いた。
「アレクも行きましょう。今日は調子いいんでしょう?」
「……そうだね」
「っ」
(だめ、無理をしたら死んでしまう――)
ほとんど反射のようなものだった。子供たちを止めようと即口を開いた瞬間、古参の侍女の声に言葉をのみ込んだ。
「いけません。アレクサンダーさまは今日既に運動をなさったのですから」
「えー、でも、アレクは大丈夫だって……」
「……やっぱりやめておくよ」
「そう?」
(やはりアレクサンダーは賢い子だ、自分のことを、そして人の心配をよく知っている)
セフィアはほっと胸を撫で下ろしながら、スペリオスがサンドラとともに部屋から出ていくのを見送った。そして、アレクサンダーを褒めようと開け放されたままの扉の向こうを覗き込む。
「アレクサ……」
視界に入ったのは、茶器を片付ける侍女と、その横で大人が時々するような暗い笑いを口元に浮かべて窓の外を眺めるアレクサンダーだった。
(……なに、あの顔……)
息が止まった。
「お母さま?」
次の瞬間、ベッドに半身を起こしたままのアレクサンダーはセフィアに目を留め、いつもと同じ笑顔を浮かべた。
先ほど見た、自虐を含んだような暗さは、既に消えていた。必死に目を凝らしてみたけれど、演技と思われる気配もどこにもない。
「……っ」
それで逆にわかってしまった。聡くて、優しい子――それゆえに無意識に人に合わせ、自分を押し殺す術を身につけたのだ、と。
(その歪みがさっきの顔なんだわ……)
全身から血の気が引き、指先が震え出した。
失いたくなくて、死なせたくなくて、良かれと思うものをすべて押し付けた。そうすれば、大丈夫だと思っていた――この子の望みにも意思にも一切気を払わずに。
「お母さま? どうかなさったのですか?」
心配そうにこちらを見ているアレクサンダーの顔に、全身が凍りついていくかのような錯覚を覚えた。
(なん、てことをしてきたの、私……)
すべてを完璧に用意して庇護してやることが、母親のすべきことなのだと、愛情なのだと思っていた。
そうじゃなかった。反発してこないアレクサンダーの賢さと優しさにつけ込んで、自分の不安を拭っていた。
(アレクサンダーのためと言いながら、全部自分のためだ……)
だから、この子は諦めてしまったのだ、望むことを、意識すらしないまま――。
相手を本当に思っているのは、私じゃない、むしろ彼のほうだ……。
「私のせいだわ、私があの子にあんな顔をさせた、あんなふうにした」
「セフィア、大丈夫だ」
夫は泣きじゃくるセフィアの背を撫でて、「取り返しならまだつく」とそう慰めてくれた。
「幸いあの子はここまで生きることができた。この先変わっていける」
「ヒルディス……」
強い母親に生まれ変わろう、あの子が安心して自分の望みを口に出せるだけの母親になろうと決意したのはその日、月もない、風の強い晩のことだった。
* * *
けれどというか、やはりというべきか、自分の都合を生まれたばかりの子に押し付けてきた八年のつけは、大きかった。
セフィアとヒルディスの後悔と思いをよそに、アレクサンダーは年不相応の諦念を抱えたまま、月日を過ごしていく。
「あの子、一度だって我がままを言ったことがあったかしら? 何か欲しいってことすら、ほとんど言わないの」
「欲しい物したいことを訊けば答えてくれるけれど、全部『我がまま』じゃないの。私が気を使っていることを知っていて、『我がままに見えるようなこと』を言うのよ、あの子……」
「笑いたいから笑うんじゃないの。笑ったら相手が喜ぶと知っているから笑うの」
世間一般から見れば、おかしなことなのだろうけれど、セフィアはアレクサンダーに我がままを言わせようと必死だった。人の都合に合わせて自分の表情を操ることだけでも、せめてやめて欲しかった。
それなのに、まったくうまくいかなくて、毎夜毎夜呻いてはヒルディスに慰められる日々が続いていく。
「アレクサンダーにつけた新しい侍女はどうだい? ホーランやマルガリータに聞いたら楽しい子だと言うじゃないか」
「シェリーというのよ。そうなの、思わず笑っちゃうくらい裏表がなくて、明るくて楽しい子なの。おかげで随分自然に笑うようになったわ」
夫のために主に裏向きの仕事を請け負ってくれているカダルという者。彼の人を見る目と伝手を頼って、半ば無理に押し切る形で招いたアレクサンダーの新しい侍女は、農家出身の素朴で純粋な子だった。勉強熱心で明るくて、一生懸命で機転も利く。
無意識にいい子でいようとするアレクサンダーを、それを期待する堅苦しい者たちや裏のある者たちから解放する。シェリーはその試みにうってつけの子に見えた。しかも、あの子ほど気さくな子であれば、アレクサンダーもつられて子供らしさを取り戻すかもしれない。そんな目論見はある意味上手くいって、ある意味失敗した。
「でも、しっかりしているのだけれど、変なところでおっちょこちょいで……どっちが年上かわからないの」
「……六歳差だろう?」
「六歳差でも、なの……。そのせいかアレクサンダー、最近余計しっかりしてきた気がするのよ……」
「……我が息子ながら手強いなあ」
そうしてセフィアが焦ったまま、アレクサンダーは十歳を迎えた。
「ステファンが?」
冬の終わりのある日、寝室のベッドで向かい合った夫の口から久しぶりに出た親友の名に目を丸くした。
「王城で出会って、ラーナックのことを訊ねたら、今年はあまり調子がよくなくて、療養にすら行けそうにないと」
シンディの忘れ形見、彼女によく似たあの綺麗な子を思って顔を曇らせる。
それでな、と夫はそのセフィアの様子を窺うように話を続けた。
「ラーナックの話に続いてアレクサンダーの話をしたら、ザルアなら空気もいいからそれならアレクサンダーの療養にどうだろう、アル小父たちもあの子も向こうにいるし、と」
「ザルア……あの子ってフィリシア?」
「シェリーはもちろん、なんならカダルにも休暇がてら付き合ってもらうことにして……」
頭が真っ白になってしまって、セフィアは唖然と夫を見つめるしかなかった。
王都とザルアだ。馬車で一月近くかかる、そんな所へ病弱な息子を一人で……?
(過保護をやめると言っても、いくらなんでもむちゃくちゃだわ)
確かにそう思ったのに、生まれたばかりの時に一度見ただけの、シンディのもう一人の忘れ形見の姿が脳裏に浮かんできて、セフィアは咄嗟に断りの言葉を口にできなかった。
今思ってもなぜ反対しなかったのか不思議に思う。
もし、理由があるとしたら、その夜、久しぶりにシンディが夢に出てきたせいかもしれない。小さな女の子の手を引き、昔とまったく変わらない姿で、「セフィア! 久しぶり!」と明るく笑いかけてきた。直後に若い頃の姿のステファンが現れて、その子を優しく抱え上げる。
夢の中で彼らと一緒に笑いながら、現実のセフィアは泣いていたようだ。翌朝、ヒルディスにひどく心配されてしまった。
(ザルアにはあの子がいる、ステファンがそう言っていた……)
彼はあの子のことを気にかけていないわけではない――彼も前に進もうとしているのではないかという思いは、セフィアに思わぬ影響を与えた。
翌日、アレクサンダーを見るなり言葉が口を突いて出た。
「アレクサンダー、ザルアナック伯爵がザルアの別荘に療養に行ってはどうかと勧めてくれているのだけれど」
「ザルア?」
下の息子が驚いた顔を初めて見た気がした。『正気か、何を考えている?』という素の表情。
この子はザルアがどんなところか知っていて、そこに自分が行くこと、母親がそんなことを言い出すことの異常さに気付いた。その辺はやはり子供らしくなかったけれど、初めて感情のままの表情を見せた。
そんな顔すら見たことがなかった今までの自分を嘆き、それから分別だらけの幼い息子にそんな顔をさせられたことに少し笑って、気分を良くした。
次いで、こちらが我がままになってみよう、と思いつく。我がままを言えと言ったって言わないのだから、そのうち嫌になって『もう母さまになんて付き合っていられない』とこの子が言い出すまで。
「ね、いってらっしゃい。侍女も従者もそんなにつけないから」
「……」
「さて、準備を始めなさい。冬の終わりに発って、滞在は夏の終わりぐらいまで、カザレナに帰るのは大体半年後ね」
そう言ってセフィアは立ち上がる。
ベッドに身を起こしたまま、相変わらず唖然としている息子の顔を見て笑い、部屋の扉を閉めた。そして、息を吐き出しながら本気で祈った。
「無事に行って帰ってきますように」と。
背にした木製の扉の感触が、セフィアの不安を宥めるかのように温かいのが、ひどく不思議な気がした。