1.渦
「それがあなたの運命よ」
事ある毎にそう言って、人の思いや努力が既定のものであるかのように振る舞う姉が苦手だった。彼女をまさに生き神のように崇める両親にも親戚にも馴染めなかった。
他の貴族とも一線を画した、古くから続く『巫女』の家系に生まれたというのに、そこはセフィアにとって、息苦しく奇妙な――包み隠さず言えば、異常な場所以外の何物でもなかった。
そんなセフィアに転機が訪れたのは十七の時。父に命じられて、面倒くさいと思いながら、当時の斎姫であった姉と共に出席したカザック王城での夜会でのことだった。
迎賓宮の広大な空間で、セフィアは人々から自分に寄せられる関心に、早々に倦厭を覚えた。
黒く真っ直ぐな髪も白い肌もそこに映えるという赤い唇もたおやかな四肢も、褒められれば褒められるほど嫌気が差す。ニステイス家に生まれた女なら皆似たような容貌になるのに、と。セフィアにはそのこと自体ぞっとするものだった。
運命神ニステイスの巫女の家系、正確には、当代の斎姫である姉への興味で寄ってくる人達も気色悪かった。
『運命』を知りたがる気持ちがわからなかった。『運命』と言われた瞬間に、自分が抱えている思いと共に、努力も生きている意味さえも蔑ろにされ、思考をも奪われる――そんな奇怪かつ恐ろしいものになぜそうも興味を持つのか、さっぱりわからない。
「姉上とご一緒されると、古の夜露の妖精たちが舞い降――」
「少し空気に酔ってしまって。失礼いたします」
会場に入ってさほど経っていないというのに、セフィアの鬱屈は我慢ならない所にまで達してしまった。
高い天井から降り注ぐ、ガラスに反射してキラキラと煌く明かりも、周りの人の美しい衣服も宝飾品も、整った笑顔も意味のない会話も、そして、そんな中にいる自分自身も何もかもが嘘臭い。
「では、私がご案内い――」
「テラスに出るのに案内がいるほど愚鈍に見えて?」
しつこく言い寄ってくる男性をぴしゃりと遮り、姉を含む集団からすっと抜け出す。そして、人影を縫って掃き出し窓を押し開き、庭園へと忍び出た。
人造の光が不意になくなり、視界が闇に染まる。ガラスを隔てて人の話し声と音楽が小さくなったことで、セフィアはほっと息を吐き出した。
頬と首筋をふわりと撫でる夜風の冷たさに、思わず顔をほころばせる。
「……あ」
だが、やっと息がつけると思ったのも束の間。闇に慣れた目に映ったのは先客の姿だった。
背の高い男性が二人、三日月の頼りない明かりの下、セフィアへと驚いたような目を向けている。
茶色の髪に青い瞳の柔らかい感じの人と、鮮やかな金色の髪に明るい茶色の瞳の、どこか鋭い空気の人だった。二人とも見た目が良くて、共に二十代前半くらい。
(せっかく一人になれたのに)
落胆しそうになるのをぐっと堪える。最低限の礼儀だもの、と自分に言い聞かせながら、どう声をかけようかと頭を悩ませた刹那、金髪の男性の方に露骨に嫌そうな表情が浮かんだ。それでセフィアも隠し切れなくなって、むっとし返す。
(この人たち、別の人だかりの中心にいた人たちだ)
それから目を眇めた。私と同じように嫌になって逃げたところに、『私が追いかけてきた』と思ったのだ、と悟る――屈辱以外の何物でもなかった。
内心のまま、キッと目の前の茶の瞳を睨みつけた。
「……人が寛いでいるところにいきなりやってきて挨拶もなし。その上、睥睨とは恐れ入る」
「あら? すべての女性が自分に好意を持っているとお思いになって、初対面の人間に露骨に嫌そうな顔を向ける方に、恐れなどあって?」
(なんて嫌みったらしいのかしら)
その人はとても威圧的な雰囲気だったけれど、カチンと来て言い返す。
剣呑な空気を和らげたのはその場にいたもう一人――睨み合うセフィアたちに構わず、いきなり笑い出した茶色の髪の男性だった。
心底楽しそうにからからと笑う彼に毒気を抜かれて、セフィアは呆然と彼を眺める。
「ステファン、お前が悪いよ。彼女の言うとおりだ」
「ヒルディス……」
「シンディがいないからって、僕や彼女に当たるなんて最低だよ」
彼は金髪の人の仏頂面に構わずくすくす笑い、それからセフィアへと綺麗な、深い青色の瞳を向けた。
「失礼いたしました。面倒くさがりな夜会嫌い同士、仲良く時間を潰しませんか」
そう言って彼は手を差し出し、ヒルディス・ロッド・フォルデリークと名乗った――それが出会い。
* * *
ヒルディスと一緒にいると楽しくて、穏やかな気持ちになれた。
若くして自身は公爵、その双子の妹は王太子妃。建国王や英雄アル・ド・ザルアナック伯爵に息子同然に可愛がられている当代随一の名門貴族で、社交界の花形。しかも、七つも年上。
それなのに、驚くぐらい冗談をたくさん言い、時には子供のようないたずらを仕掛けてきて、なんとかセフィアを笑わそうとしてくる。子供だと思われたくなくて、最初は絶対に乗ってやらないとお高くとまろうと頑張っていたけれど、結局無駄だった。一緒にいると、嫌なことも忘れていつの間にか笑っていた。
「そう? でも僕は君を綺麗だと思う」
「……でも私は嫌い」
「それはそれでいいんじゃない? ただ僕の目には美しい」
彼はなんの気負いも虚飾の言葉もなく、あっさりとセフィアを美しいという。それでニステイスの血を嫌いつつ、一番囚われていたのは自分だと気付いた。
最初は感じが悪いと思っていた、彼の親友で、アル・ド・ザルアナックの息子のステファン。彼も少し気難しいだけで、一旦馴染んでみればとても温かい人だった。
「人見知りするんだよ、そういうところ、子供の頃のまま」
「だまれ、ヒルディス」
どこにも似たところがないと思うのに、彼ら二人は本当に仲良し。いい大人なのに、事ある毎に子供のようにじゃれあっている。
「ちなみに、これは照れてるの。だって本当のことだろう? ねえ、シンディ?」
「ふふふ、そうね、私も最初すごい扱いをされたもの」
「君まで……あれは、その……」
ステファンの恋人のシンディも優しい子だった。セフィアなど目じゃないくらいに美人で、その上性格もいいから引く手あまたなのに、本人は全然自覚がないらしい。陽だまりみたいな柔らかい空気に、セフィアは彼女が大好きになる。
同じ年ということも手伝って、すぐに仲良しになって、案外大人気なかったステファンに文句を言われながらも、しょっちゅう二人で遊ぶようになった。
あのステファンが彼女には頭が上がらないのが、ここだけの話、面白くて仕方がなくて、よく影でヒルディスと笑っていた。
そんな四人で夜会や茶会で時間を共にしたり、色々な所へ出かけたりするうちに、ますます楽しくなって……気付いた時には、セフィアは抜き差しならないくらいヒルディスを好きになっていた。
そのくせそんなそぶりを彼に見せることができなくて、友達か兄妹のようにふざけ合うばかり。苦しくなってはシンディによく泣きついていた。
「セフィア、その、俺と……結婚、してくれないか」
だから出会ってから三年後、いつになく真面目な顔で彼がそう口にした時、幸せで涙が出た。
「セフィアの運命の相手よ」
その時ばかりは、斎姫たる姉の声が嬉しく聞こえた。
翌年には姉の言葉どおり、セフィアとヒルディスは家族や夫となる彼の恩人たち、友人に祝福されながら、結婚式を挙げる。その翌年には親友たちの結婚も決まって、今度は自分がお祝いする番と張り切って祝った。
それからしばらく夫婦だけで楽しんで、四年後に長男のスペリオスに恵まれる。
先に生まれていたステファンとシンディの子のラーナックをスペリオスと一緒に遊ばせて、四人でその子たちを見て笑い合った。きっと私たちの子供たちもやはり親友となって、そのうち女の子が生まれてきたりしたら、彼らの間に恋でも芽生えたりするかもしれない、などと勝手に未来を語っていた。
とても幸せで、こうしてみんなで穏やかに老いていくのだと思っていた。それがずっと続くのだと信じていた。
それなのに……少しずつ、何かが翳り始めたのはなぜだったのだろう。
四歳を過ぎたくらいから、ラーナックの身体の調子が悪くなって、シンディの顔に心配の色が付きまとうようになった。つられてステファンのそれにも。
ちょうど同じぐらいの時に予定より早く生まれてきた、セフィアとヒルディスの二人目の息子、アレクサンダーも身体が弱かった。
呼吸に困難があって、すぐに熱を出すその子に付きっ切りになることも少なくなくて、親友たちとの付き合いも自然と減っていった。
その二年後――。
それでも二人目の子を宿して幸せそうにしていたシンディが、その出産で女の子と引き換えに亡くなってしまう。
「……嘘でしょう?」
沈痛な顔で知らせてきた夫を、セフィアは咄嗟に信じることができなかった。数週間前にスペリオスとその時調子の良かったアレクサンダーを連れて彼女を訪ねた時は、あんなに元気だったのに、と。
家族四人連れ立ってザルアナック邸に駆けつけて見た光景は、悪夢そのものだった。
「……あれのせいだ」
「……ステファン?」
棺に寝かされたシンディの前、青白い顔と空ろな瞳のまま、ラーナックの手を握って立ち尽くしていたステファンが、乳児の泣き声に不意に呟いた。
シンディに取り縋って泣いていたセフィアは、振り返って音源を確認すると同時に、全身から血の気を失った。
「何を言っている……?」
「あれがシンディを殺した」
困惑する夫を見るステファンの瞳には、静かな狂気が宿っていた。
「あれのせいだ、あれが生まれてこなければよかったんだ」
「あの子の咎ではないだろう……?」
「ラーナックは何事もなく生まれてきた、あれのせいだ」
「ステファン、いい加減にしないかっ」
「……ああ、そうだ、私だ。あれだけじゃない、私のせいだ、私とあれがシンディを殺した」
「やめろ、ステファンっ」
「あれが母殺しなら、私は妻殺しだ――死ぬべきは私たち、私だ」
「っ、やめろと言っているっ」
「っ、指図するなっ」
宥めようとしても頑なに無力な赤ん坊を責め、次いで自身を責め始めたステファンに、夫は焦りを、続いて怒りを募らせていく。最後には、二人はこれまで想像したこともない形相と勢いで言い合いを始めた。
(……どんな悪夢、なの……)
寝ているとしか思えない、相変わらず美しいシンディの目の前で、判り難いだけで優しいはずのステファンが生まれたばかりの我が子と自分を呪っている。
あんなに信頼しあっていた彼と夫が怒鳴りあい、そのすべてを真っ青な顔をしたラーナックが聞いている。
その後お戻りになったアル小父さまの怒りも、エレン小母さまの嗚咽も、シンディの言葉を何とか代弁しようとしたセフィアの言葉も、ステファンに届くことはなく――。
「悲しみのあまりに、だ。しばらくすればきっと……」
自分に言い聞かせているかのような夫の呟きを耳にしながら、セフィアは息子たちと共にザルアナック邸を呆然と後にした。
不幸なことに、夫の予想は外れた。
別人になってしまったとしか思えないほど、ステファンの消耗は凄まじかった。
彼の父であるアル小父さまの叱責も、母のエレン小母さまの訴えも、幼馴染であり親友でもある夫の諌めも聞こえない様子で、彼は生まれてきた子と自分自身を憎んだ。同時にラーナックに執着するようになった。
「……そうせねば自分を保てないのかもしれん」
彼を宥めようと話をした建国王さまがそう仰った、と夫がある日悲しそうに言った。
それが結論だったのだろう。その後間もなくして、その子、フィリシアは、アル小父さまたちに引き取られ、ザルアナック伯爵家の領地であるザルアへと旅発ってしまう。
そして、死と狂気の淵にいたステファンは、残されたラーナックによって、かろうじで生と正気に繋ぎとめられているだけの状態になった。
「思い出してつらいのだ、と……」
ステファンがそう言った、と夫は悲しげに呟き、そうしてセフィアたちはステファンとも疎遠になった。
「ザルアナック家は先の内戦で、多くの人の恨みをかったのだもの。フォルデリーク家も同じよ。その証拠にエイリールさまの第一姫も亡くなられたでしょう」
(じゃあ、毎日体調を崩して寝込む、私たちのアレクサンダーもいつか……?)
不変と信じていたものが一気に失われた恐怖にセフィアは我を失い、怯えに取り憑かれた。そして、あれほど嫌っていた姉と、彼女が出す『運命の神託』に縋るようになる。
姉に言われるまま、彼女のところに生まれたばかりであった姪と、アレクサンダーの婚約を受け入れた。姪とアレクサンダーが運命の相手であると言うのなら、アレクサンダーは無事に生きることができるのだと、物心も付かない子と乳飲み子の婚約を喜んだ。
夫のヒルディスはそんなセフィアの心情を慮ってか、何も言わずに、ただセフィアを抱きしめてくれていた。
そのまま、五年、六年と月日は流れていく。
兄のスペリオスは、明るくて社交的な、弟思いのいい子。将来の公爵に相応しい度量があると皆に褒められて、セフィアたちの自慢の息子となった。
身体が弱いなりに命を繋ぎ続けたアレクサンダーもやはり優しい子だった。大人の読むような本を片端から読んでいって、偶に来る家庭教師たちが舌を巻くような頭のよさもセフィアたちの自慢だった。
そのアレクサンダーは、夫方の従兄でもあるフェルドリック殿下の遊び相手となって、彼のお気に入りとなる。
セフィアはヒルディスと相変わらず冗談を言ってふざけ合っていて、でも他の貴族の知人たちから奇妙がられるほど仲が良くて……。
何かもが順調で、私たち家族は大丈夫、とセフィアは思っていた。そう思い込もうとしていた。