15-8.ヘンリック観察記9
「それでお母さんが、その注文をくれたお客さ……」
「メアリー? どうしたの?」
夏の暑い日差しを避け、涼しい夕風の吹く運河沿いの街をデートしていたところ、楽しげにおしゃべりしていた隣のメアリーがいきなり黙り込んだ。
ヘンリックは今や頭ひとつ下になった彼女の顔をのぞきこむ。
(ああ、真剣な顔もやっぱり可愛い……って、問題はそこじゃなかった)
そう、いつもおしゃべりな彼女の沈黙は、経験上恐ろしいのだ。周囲に残っていた昼の暑気が、一気に消えたように感じる。
ヘンリックは緊張を露わに問いを重ねる。
「ど、どうかした?」
「あの人、ヘンリックを見てる」
微妙に細められた彼女の視線を辿れば、薄闇が降りつつある通りの中で一際目立つ、黒髪の大人っぽい美人。
「……げ」
「『げ』? ――そう、知り合い」
笑っているけど、声が怖い。ああ、俺ってほんと弱いと冷や汗を流しつつ、ヘンリックは慌てて言葉を足す。
「いや、俺のというより、カイトの元彼女」
「ふうん、『元』? ってことは、今フリー、ね?」
(これって……やきもち?)
棘のある言い様に目を瞬かせた後、ヘンリックは顔を綻ばせた。今フィルはいないし、間違いなくヘンリックを想って妬いてくれているのだろう。
「いっ」
感動のままメアリーを抱き寄せようとしたが、腕をぺしっと叩き落とされた。
「酷いよ、メアリー、付き合ってない時と変わんないじゃないか……」と呻くも、幼馴染みでもある彼女には通じない。カイトの元彼女を観察するように見つめ続けている。
「あら」
メアリーの呟きに視線を移せば、背後からやってきた男性が黒髪の彼女に話しかけているところ。振り返った彼女はその人に向けて感じよく笑い、会話している。
「結構いい感じ?」
「……ねえ」
(俺が見ていた限りで、彼女はカイトにベタ惚れだったと思ったんだけど……)
カイトが彼女と別れて既に二月近く経っているはずだ。あれだけ美人なら、好意を寄せてくる男には事欠かなさそうだけれど、なんとなく驚いてしまった。
「こっちにくるわよ」
彼女は男性に何事か告げた後、確かにヘンリックたちのほうへと歩いてきた。
長い黒髪が歩みにあわせて後方へと流れるのを、すれ違う男たちが目で追っている。何人かが、横の彼女につつかれたり腕を引っ張られたりしている。
「こんばんは。確かヘンリック、だったわよね」
目の前まで来て、彼女はにこりと微笑んだ。確かに美人だ。エドとロデルセンが勿体ながっていた気分が少しだけ理解できた。まあ、メアリーとは比較にならないんだけど。
「ごめんなさいね、デートの邪魔をしてしまって」
横のメアリーに丁寧に謝ることも好ましく思えた。
メアリーの空気がそれで和らいだことも好感度上昇の理由だけど、騎士と付き合っているというだけで彼女たちに辛くあたる人は少なくないから、こういう常識的な人を見るとなんだかほっとする。エドやロデルセンとは別の意味で、カイトはすごくもったいないことをしたんじゃないかと思ってしまった。
「少し伝言をお願いしたいのだけれど、いいかしら」
ヘンリックは咄嗟にその理由に思い当たった。困ってしまって思わず眉根を寄せれば、黒髪の彼女は苦笑した。
「カイトに、じゃないから安心して。フィル・ディランさんによ」
今度は眉間に露骨に皺を寄せた。さっき抱いた好感を取り消すべきかもしれない、そう思ってしまったから。
「やだ、二人してそんな顔することないでしょう?」
だが、目の前の彼女は目をまん丸くした後吹き出し、けらけらと明るい声を立てて笑った。見れば、横でメアリーも同じ顔をしている。ちょっと、いやかなり嬉しい。
(って違った、今の問題は親友だった)
ヘンリックは背筋を伸ばして姿勢を整えると、警戒しながら、だが、礼を失しないように声を発した。
「ディランは私の大切な友人ですので、内容によってはお断りし」
「ありがとうって伝えて頂戴」
「ます……は?」
「あと、元気よって。新しい男も見つかりそうだし、心配しないでって」
戸惑うヘンリックに、「そう言えばきっと彼女はわかるわ」と艶やかな笑みを残して、彼女は踵を返す。
そして不満そうな面持ちで、向こうで待っていた男性に緩やかに腕を絡めると、並んで歩き出してしまった。
それを呆然と見送った。
「なんだったのかしら」
「……さあ」
彼女たちの姿が黄昏の雑踏に紛れてしまってから、メアリーが首を傾げた。ヘンリックも同じ方向に同じことをする。
夜風には、脇の運河の水面で冷やされた冷涼な空気が混ざっていて、襟元に心地よい。
「カイトってフィルのこと、好きなんでしょう?」
「っ!?」
(な、なんで知ってるの?)
顔を盛大に引きつらせて、ヘンリックは斜め下の彼女を見つめた。
そう、そんな話はしていない――騎士は良くも悪くも噂になりやすい。
だから、騎士たちの間で誰が誰を好きとか、付き合っているとかいうのを外に漏らすのはタブーだ。しかもフィルとカイトだ。俺たちの同期の誰かが面白半分に噂を流すなんてありえない。
カイト自身、フィルへの想いについて自分から誰かに話すことはなかった。彼ともフィルとも仲のいいエドとヘンリック、ロデルセンが、今回の告白も含めてなんとなく察していただけだ。この三人については、絶対に他言していないと特に確信を持って言える。
「なんでまた」
動揺を堪えて、なんでもないふうに訊ねれば、物心ついた時には既に追いかけていた茶色の瞳が、いたずらっけを帯びて弧を描いた。もちろんめちゃくちゃかわいい。
「前、フィルも一緒に会った時に何となく」
(……質問を声にしなくてもわかってくれる、これが愛でなくてなんだというんだ、本当に幸せ、恋人感いっぱい……)
感動のままメアリーを抱き寄せようとして、今度は手の甲をつねられた。
やっぱり付き合ってない時と変わんないじゃん、と涙目になるも、ヘンリックは慌てて首を振った。今の問題はそこじゃない――カイトとフィルだ。
「ええと、一応言っておくけど、過去形だと思うよ」
カイトがフィルに告白して既に半月、彼は結構元気になってきた。フィルとも普通に話をして笑っている。
フィルの方はずっと普通だ。エドなんかは「いやあ、ほんっと欠片の容赦もねえなあ」とフィルを笑い、ロデルセンは「フィルらしいよね。気まずくならなくていいけど」と言っているけど、ヘンリックは知っている。
あれは多分演技だ。彼女は細心の注意を払って普通に見えるようにしている。
避けたりするのは論外。逆に気を使って下手に優しくするのもダメだ。以前どおりに振舞って、意識もしません、本気で脈なしですとはっきり示す方が、長い目で見れば優しい。多分そう知ってのことだ。
避けることもなく、かと言って期待も持たせない――すごく難しいことだと思うけど、普段考えなしなフィルは、誰かが関わる時は細心の注意を払ってそういうことをする。
以前フィルを男だと思っている女性たちを前にした時もそうだった、また胃を傷めているかも、とヘンリックは顔を曇らせた。
エドたちがそうであるように、彼女のそういう気遣いに気付く人間は少ないだろう。
でもカイトは多分それを知っている。知っていてフィルの演技に騙されたふりをしている――。
(それが意味するのは……)
「……」
これで何度目だろう。また、ほろ苦い感情が広がっていく。
フィルもカイトも大事な仲間だ。そして、きっと二人も相手のことをそう思っている。誰が悪いわけじゃないけれど、切なくて苦しい。両方の気持ちがわかってしまうから、なお辛い。
顔をメアリーから逸らし、ヘンリックはメアリーに気付かれないよう長く息を吐き出した。
「つまり告白してあえなくふられたってわけね」
「っ!?」
「わかるわよ」
あいにくと、そんな感傷は横から響いた容赦この上ない事実の指摘で、木っ端微塵になったけれど。
(い、や、それはそうなんだけど、そう言っちゃうと身も蓋もないというか……って、それより何よりなんで知ってるのさ、メアリー?)
肯定も否定も返せず、再び顔を引きつらせるヘンリックと目が合ったメアリーは、「お見通しなの」とまたにっこり笑う。その顔は今日もめちゃくちゃ可愛い……けど、ちょっと怖い。
なんとか気を取り直し、歩き始めようとメアリーの手を取った。これが拒絶されないあたりは、付き合っているって感じでいい。
(もう本当に幸せ……)
しかも、今はキス止まりでも、近いうちにとの言質はとっているのだ。アレックスに泣きつき、フィルを脅したかいがあったと言うものだ。
風に乗って横から甘い香りが届いた。同じ風に舞い上がったメアリーの柔らかい髪が、ヘンリックの腕をくすぐる。
(……触れたい)
彼女を自分のものにしたい。抱きしめたまま、朝まで離したくない。自分だけを感じさせたい――。
「そ、そういえば、さっきの彼女、カイトのことすっごく好きだったはずなんだけど」
邪な方向に思考が走りそうになって、無理やり会話の糸口を探して言葉にした。
(……危なかった。ただでさえメアリーは怖がっているんだ。そんなこと考えているってばれたら、余計念願の成就が遠のく。ここは紳士的に害がないふりを……けど、そんなんしてたら本当、いつになるんだろう?)
ヘンリックは本音のため息をつきそうになるのを必死に抑える。
「吹っ切るのが早いって?」
「え? あ、そう、カイトはなんだかんだ言って、吹っ切るの、もう少し時間かかりそうだからさ」
そう、カイトも普通にしているけれど、完全にフィルへの思いが無くなった訳じゃないのは知っている。ただ、以前より苦しそうじゃなくなっただけましだとは思う。
「女の人の方が失恋からの立ち直りは早いって言わない? 切り替える時はすぱっといくし」
「そういえば……」
「何があったかは知らないけど、フィルに笑ってお礼を言えるような人なんだからなおさらじゃないかしら」
少し考え込んでいたメアリーは目の端を緩ませ、意味深な微笑と共にヘンリックを見上げてきた。見慣れない、大人びた表情に心臓が跳ねた。
「対する男の人は、いつまでもどこかで付き合った人を気にかけているって」
「……」
(え、ええと、それはともかく、なんだか、空気、が……)
にこやかに「つまりはね、ヘンリック」と笑うその顔も可愛い。が、なぜだろう、怖い、気がする……?
ヘンリックは生唾を飲み込んだ。
「ヘンリックが浮気したら、私は思いを切り替えやすい方の生き物なの。だけど、ヘンリックはどうなのかしら? っていう話なの」
「……メアリー?」
何だろう、すごく雲行きが怪しくなってきた。
ヘンリックは助けを求められるものがないかと、視線を左右に走らせるが、生憎と周囲は夕飯や自分の相手とのおしゃべりで忙しいようだ。
「告白、されたんですってね。青空館の給仕の子に」
「げ」
「泣かれたんですって?」
「ちょ、ちょっと」
「それで彼女が泣き止むまで、『ごく近くで』『優しく』宥めていたそうじゃない? 抱きしめてるようにも見えたって話」
「い、いや、そ、それはその……」
(くっ、フィルっ、裏切ったなっ)
「言っておくけど、情報源はフィルじゃないわ。フィルは中途半端に優しくするなって後で怒ってたでしょ?」
「……な、なななんで知っ」
「わかるわよ」
お見通しなの、とメアリーは笑う。その顔はやっぱり可愛い。
「だから、ヘンリックもよくよく注意して行動したほうがいいんじゃないかしら? 切り替え、難しいんでしょ?」
同時に危険極まりないことも判明した。
冷や汗を流したまま固まるヘンリックと、彼に白い目を向けているメアリー――じっと無言のまま見つめあう二人を、子連れの家族の母親らしき人がチラッとうかがって通り過ぎていく。
辺りは濃くなりつつある闇に覆われて、通りに沿って並ぶ店々には煌々とした明かりが灯り始めた。
「ええと、その、ごめん、メアリーに嫌な思いをさせるとか、深く考えてなくて、本当にごめん。でも……」
「でも?」
「好きなのは、昔も今も、それからこの先もずっとメアリーだけなんだ」
「……」
必死のヘンリックの言葉を聞いているのか聞いていないのか、メアリーは無言のまま。
小柄な彼女は踵を返すと歩き出す。焦って追いかけようとヘンリックが足を踏み出した瞬間、追いかけ続けてきた瞳が振り返った。頭の動きにあわせて揺れた赤茶の髪の合間から、ヘンリックを見つめてくる。
「じゃあ、許してあげる、今回は」
「……」
次の瞬間に顔全体で柔らかく微笑まれて、ヘンリックは不覚にも魅入られた。
(……まいった、敵う気がまったくしない)
今回は、と警告がさりげなくついているところといい、先はまだまだ長そうだ。そう悟って、ヘンリックは苦笑する。
とりあえずこれ以上機嫌を損ねないように、今日のデートを乗り切ろう。
そう固く決意して、ヘンリックは彼女の手を握った。振り払われなかったことにちょっとほっとする。
それから、メアリーを送り届けた後でフィルを捕まえて、愚痴吐きと八つ当たりがてら飲みに連れ出すことも勝手に決定する。「全部自業自得じゃないか」などと文句を言いながらも、彼女はきっと付き合ってくれるはずだから。