15-6.切開
「おーい、ロデルセン、出れる、か……」
「あ……」
第二十小隊の部屋を訪れたエドワードに、他の面子が帰ってしまった後でも律儀に手伝いを申し出てくれていたロデルセンが顔を強張らせた。
気まずそうにちらっとアレックスを見る。エドワードのほうも部屋の奥にアレックスを認めたのか、硬い表情をしていた。
「もうここはいいから行ってこい」
「……ですが」
気遣いを見せる一つ半年下の彼に、アレックスは苦笑を零した。彼が気にしているのは、仕事のことじゃない。フィルが彼を気に入っているのは、この辺も理由なのだろう。
彼の頭に手をおいて髪をぐしゃぐしゃにする。
「気のいい奴らの集まりだな、五十二期生は」
小さく笑って部屋から彼を追い出すと、アレックスは閉めた扉の内側でゆっくりと息を吐き出した。
椅子の背もたれに身体を投げ出してのけぞる。背後の窓越しに、既に真っ暗になった夜空が見えた。雲間に細い月と星が頼りなげに瞬いている。
夕方、並んで街に向かったフィルとカイトに思いを馳せる。
フィルはこれまで自分に気のありそうな相手と二人で行動することはなかった。意識している訳ではないようなのに、その辺を嗅ぎ分ける才能に、アレックスは呆れつつも安堵していたのだが、では、なぜ今日は……?
夕飯を取りに降りた食堂で、五十二期生のうちフィルとカイトに近い者ばかり固まって、沈んだ雰囲気で食事をつついていたこと。その彼らがアレックスを視界に入れて、微妙に緊張感を漂わせたこと。決定打は先ほどのエドワードとロデルセンだ。
カイトは多分フィルに告白するつもりでいるのだろう――そう察してしまった。
(いらない才能だ)
自嘲を零す。幼いころ他人の顔色をうかがっていた名残だろう。こんな時、自分の持つ察しの良さを恨めしいと思ってしまう。知らない、気付かないほうが幸せなこともあるというのに。
(フィルはあの性格だから、誰かの真剣な話を我が身かわいさに回避したりしない。だから、今日は彼を避けなかった……)
彼女の誠実さを愛しいと思う一方で、なじりたいとも思ってしまう。
「……」
アレックスは重い息を吐きながら、右腕を目の上におき、視界を遮った。
だが、本当にひどいのは一体誰だろう?
アレックスの気持ちを知りながら、カイトの気持ちにも出来る限り付き合おうとするフィル?
アレックスとフィルが付き合っていることを知りながら、それでも自分の気持ちをぶつけようとするカイト?
それともおそらく大丈夫だろうという余裕にすがって、それを知りながら止めなかった自分――。
「……余裕、ね」
自分で思いついた言葉を口に出し、苦く笑った。こんなに不安になっているのに、こんなに妬いているのに、余裕も何もあったものじゃない。
何も起きない。フィルはもちろん、カイトだってそんな奴じゃない。そう知っているのに、と重ねて自嘲する。
「……」
腕を顔からどかし、天井近くの壁に据えられた灯りから注ぐ光に目を細める。
気を落ち着けるようにもう一度ゆっくりと長く息を吐き出し、思考を敢えて別の場所に持っていく。
後でオッズの部屋でものぞいてみようか、いれば飲みにでも誘うか、そんなことを考えた。
コンコン、とノックの音が小さく響いた。
「……」
だが、返事をする気になれなくて、無視を決め込む。休日出勤でしかも時間外。いちいち付き合う義理はないだろう、とやさぐれる。
椅子に身を預けたまま、扉が目に入らないよう、机から半身を逸らした。左手で机上の書類を取り上げて、鬱屈から逃げるようにそこに記された文字を目で追い始めた。
* * *
(……居ない? でも、部屋には居なかった。じゃあ、ノックが弱かった? 聞こえなかったとか……)
第二十小隊の居室の分厚い扉を前に、フィルは沈み込む。
あれからカイトと別れて重い足を引きずって宿舎へと戻ったら、門のところにヘンリックとエドが待っていた。よほど情けない顔をしていたのだろう。二人はこっちの顔を見て苦笑した。
(ああ、そうか、みんなは察してたんだ……)
自分はどうしようもなく鈍いとまた突きつけられて、さらに凹んだ。
それでも彼らは何も言わずにいてくれた。でも心配はしてくれていて、助けようともしてくれている、カイトのこともフィルのことも――。
「……二番通りとエッセル通りの公園」
フィルの言葉を受けてヘンリックが駆け出し、すれ違いざまに『お疲れ』とでもいうようにフィルの肩を叩いていく。
「おまえは仲間外れ、今日だけな!」
目の前のエドがそう言って笑って、宿舎へと踵を返していった。
フィルは第二十小隊の扉の前で視線を伏せる。
アレックスに会って、何をしようという訳じゃない。
カイトが真剣であったのならあったほど、それがたとえアレックスであっても話していいことなのかと迷う。
それに、アレックスの立場ならどうだろう? そういう話を聞きたいと彼は思うだろうか? フィルが彼の立場なら? 聞きたいけど、聞きたくない。聞きたくないけど、聞いておきたい気もする。
考えても答えが出ない。
なら、落ち着くまでむしろアレックスに会うべきではない。絶対に何かあったとばれてしまうのだから。
(わかっているけど……でも、顔、見たい)
もっと上手くやれたのではないか、何か余計なことをしたのではないか、知らず傷つけていたのではないか。もっと違うやり方があったのではないか、今日だってあの対応で本当によかったのだろうか。
考えても仕方がないことだと思うのに、次から次へと考えてしまう。カイトだけじゃない。ミックもロンデールもそうだ。
情けなくて、そんな資格などないと思うのに泣けてくる。
いつか誰かが言っていたみたいに、好きになってくれて嬉しい、そんなふうに思えない。
苦しい。気持ちがわかるようになればなるほど、苦しい。だって、もし自分が同じようにアレックスに拒絶されたら、絶対に耐えられない。
その人が真剣であればあるほど苦しい。その人がいい人であればあるほど苦しい。
だって応えられない。どれだけ相手がいい人でも、一生懸命になってくれても、その気持ちがわかっても、それでもフィルはアレックスがいい。
誰の想いもうまく、なんて無理だ。どうしても傷つける。それが苦しい。
でも、苦しいなんて知られてしまえば、余計傷付けるかもしれない。フィルが相手の立場なら、自分ではどうにもできない感情が相手にとって負担になると突きつけられれば、泣きたくなる。
だから、絶対に知られてはいけない。これはきっと受けるべき痛みだ。寄せてくれた好意に応えられない以上、そうしなくてはいけないと思う。
でも……――苦しい。
こういう時に思い浮かぶのはアレックスだった。
いつも苦しくて仕方ない時はそうしてしまうように、それで今もフラフラとここまで来てしまったけれど、これは許されない甘えな気がする。
「……」
扉を前に、フィルはもう一度ノックすべきか逡巡する。
(もう一度、もう一度だけ……それで駄目だったら帰ろう)
そう意を決して、再度扉を叩く。
「っ」
返事がないまま、いきなり目の前の扉が開いてフィルは硬直した。
目の前で自分を見下ろしているのは、見たいと切望していた青色の瞳だ。だが、本当にいないのかもしれないと九割がた思っていたから、彼を目の当たりにして頭が真っ白になった。
* * *
一度目からかなり間を開けてなされた、遠慮するような二度目のノックに、アレックスは眉を寄せた。
(……フィルだ)
すぐに思い当たって立ち上がる。逸る気持ちを顔に出さないようにしつつ、扉へと急ぎ、ノブを勢いよく手前に引いた。
その先にいたのは、廊下の明かりにほのかに照らされて赤みを増した金髪と、丸く見開かれた鮮烈な緑の瞳――予想通りの姿だった。
「……」
だが、言葉が出てこない。
口を開いたら、どんな言葉が飛び出すか、自分でもわからない。自分の苛立ちのせいでフィルを傷付けるかもしれない、それが本当に怖かった。
心臓の音だけが鮮明に耳に響いてきて、上手く思考がまとまらない。どう笑うのだったか思い出せない。焦りが募っていく。
視界の先では、フィルが変わらずに目をみはっていて、それから……笑った。幸せそうに、アレックスをまっすぐ見て。
「……」
その顔に、自分でもおかしくなるほどの安堵が生まれた。知らず詰めていた息を吐き出す。
(大丈夫)
自然にそう思えて、アレックスはようやく口を開いた。
「どうした、フィル……?」
「え? あ、その、どうした、という訳ではなくて……」
フィルがはっとしたような表情になって、顔を蒼褪めさせる。
「ああああ、すみません、仕事の邪魔を……」
「いや、大丈夫だ」
立ち去ろうとするフィルの腕をとっさに取って室内に引き入れ、戸を閉めた。頻繁に密談の行われるこの部屋に備えられた鍵を、音を殺しながらかける。誰にも邪魔されたくなかった。
「あ」
そのままフィルを抱え込んで抱きしめ、横髪に唇を寄せる。鼻腔に届く甘い匂いと、全身に触れている柔らかい体の感触に、体の芯が痺れていく気がする。
「フィル……」
硬直していたフィルが、しばらくしてアレックスの背におずおずと腕を回した。伝わってくる温かみと緩い拘束に知らず顔を綻ばせる。
「あの、ごめんなさい、邪魔して……その、ちょっと、」
シャツの背がぎゅっと握られる感触がする。
「ちょっとだけ、顔、が見たくなって……」
「……見たなら、帰るか?」
彼女が甘える時に見せる癖とそんな言葉、たったそれだけのことでこれまでの不安が嘘のように嬉しくなった。
なんだか悔しくなってきて思わず出してしまった意地の悪い言葉に、フィルはさらに強くシャツを握り、アレックスの胸へときゅっと顔を寄せてくる。
「……冗談」
胸が詰まって声が震えたことに、彼女が気付かないといい。
「……ひどいです」
腕の中で脱力するフィルが本当に愛しい――そう実感すると、抱きしめる腕におのずと力が篭った。