15-4.傷
「ちょっといいかしら?」
「こんにちは。ええと、確かカイトの……」
「生憎ともう彼女じゃなくなったけど、レミアよ」
夜の冷気がかすかに残る朝方、美術館前の通りでフィルを呼び止めたのは黒の巻き毛の、美人と評判の彼女だった。
空は高く澄んでいて、日中の暑さを避けるためだろう、朝のうちに餌を探す小鳥が街路樹の枝の間を忙しなく飛びまわっている。
休みの今日、一緒に出かける約束をしていたアレックスは、急に仕事が入ったとかで呼び出されて、慌しく出ていった。
仕方がないとは思うけれど、『せっかく休み、あわせて取ったのに……』とつい思ってしまって、それから今までずっと一緒だった分寂しくて、少し落ち込んでしまった。
アレックスが部屋を出ていく時、そんな自分をひどく気にしているのがわかったから、余計反省した。
祖父母は勝手な我がままで人を困らせてはいけないと言っていた。まして大事なアレックスだ。人のためにどこまでも無理をする人なのだから、絶対にしてはいけないことだった、と……。
このまま鬱々と部屋にいれば、きっとアレックスはもっと心配するだろう、無理するだろう、と思い立って、一人街に出たわけだが……。
――なぜかフィルは今、同期の元彼女とカフェのテラスでお茶をすることになっている。
(そうか、ここのところカイトに元気がなかったのは、彼女と別れてたからか。仲良さそうだったのにちょっと意外だ)
祖母に叩き込まれた通り、粗相のないように彼女をエスコートし、注文を終え、その配膳を受け……その間フィルの頭は疑問でいっぱいだった。
(いったい何の用事だろう……)
常に笑顔を保ち、会話と作法にも気を払っていたが、限界が来た。フィルはお茶のカップで顔を隠しつつ、焦りに顔をひきつらせる。
(復縁を、という相談なら私には荷が重い、重すぎる……)
そんな微妙で繊細な問題を扱えるだけの神経の細やかさを持ち合わせていない自覚なら、嫌というほどある。
「……」
ちらりと彼女を窺えば、やはり評判どおりの美人だ。カイトより一つ年上で二十一だと聞いた。口元のホクロが大人の女性の色気を感じさせる。木づくりのテーブルに置かれた華奢な手にも、午前の爽やかな風に舞った髪を邪魔にならないよう顔の横に流す仕草にも、時折こっちを見る目線にも、同性なのに赤面してしまいそうな艶やかさがあって、なんだかドキドキする。
(……アレックス以外の男の人にこんな風になることはないのに、女の人にはしょっちゅうこうなる私はやっぱり少し変なのかも)
唐突にそう思い当たって少し落ち込んだ。
大体、用件は何だろうと不審に思っていながら、にこやかに彼女をエスコートしてしまった自分の習性もかなりおかしいと今更気付く。
『女性には親切に、甘やかに。フィルなら完璧ね』
『そこはこうすると女の子は喜ぶの。優雅に理想の王子さまのように振る舞いなさい』
不意に祖母の言葉を思い出してフィルは目を眇めた。
(甘やか? フィルなら? 理想の王子さま……? ……孫『娘』だ、私は)
一応、と付け加えなくてはいけないのが微妙に切ないけれど。
(そういえば、ああいう時、祖母さまはすごく楽しそうで、それを祖父さまは……苦笑、そう、苦笑しながら見ていたような気がする……)
となると、やはり女の子が一度は憧れることがあるとかないとかいうあれだろうか? 男の子同士、ならぬ女の子同士……?
(そういえば、彼女、相当な男嫌いだったような……って、だからって孫娘にやらせるか、普通)
尊敬する祖母の新たなというか、非常識な一面を発見して、フィルは小さく頬を引くつかせる。
「ふふ、本当に『王子さま』ね。女の子だなんて信じられない。一緒にいるとお姫さまみたいな気分にしてもらえて、幸せになるわ」
「幸せにしていただいているのはむしろ私のほうです」
目の前の彼女に柔らかく微笑まれて、フィルは『言い当てられた』という動揺を押し隠して笑い返した。それすら祖母の陰謀だと気付いて、すぐ嘆息したのだけれど。
「お願いがあるのだけれど」
そうこうしながら、ひとしきり世間話をした後、レミアが物憂げにフィルに告げた。
「私にできることであれば」
一抹の緊張と共に返したフィルに、レミアは苦笑を向けてきた。寂しげなその顔になぜか胸を締め付けられて、フィルは思わず眉根を寄せる。
「というより……あなたにしかできないことなの」
彼女はそう呟いて視線を伏せ、何かから逃げるように顔をフィルから横の通りへと逸らした。
* * *
書類の束に目を通しながら、アレックスはイライラと髪をかき上げた。
防音処理を施され、密室と化している第二十小隊の部屋には紙をめくる音と、ペンを走らせる音が絶え間なく響いている。
第二十小隊に配属されて半月弱。慣れない内容と膨大な量に戸惑いつつ、なんとか仕事をこなし、ようやく休めると思った今日。
天気もいいようだし、今日は一日フィルを連れて郊外の林にまで足を伸ばそうと思っていたのに、朝方呼び出しがかかって計画は泡と消えた。
フィルのことだから街中をうろつくより絶対に喜ぶだろう、だから連れて行ってびっくりさせよう、と行き先を内緒にしていたのは不幸中の幸いと言うべきなのだろう。知っていたらきっとフィルは余計落ち込んでいた。
「まあまあ、そうカリカリすんなよ、アレックス」
「……睨んでる睨んでる」
「仕方ねえだろう、緊急なんだから」
「いくらフィルとのデートを邪魔されたからって、いいじゃねえか、いつも一緒なんだからさあ」
「それでも心配なんだよ。なんだかんだ言ってフィル、見た目は整ってるし、笑うとかわいいし、今頃一人で町に出てナンパでもされ――」
「その書類、あと十分で仕上げろ、アッシュ」
「げ」
「……鬼」
「……触れるな。とばっちりをくらうぞ」
嫌な想像をさせられた腹いせにアッシュに冷たく言い放ち、ついでにぎろっと室内を見渡せば、無駄口を叩いていた全員が一斉に手元の書類に目を落とした。
第一小隊は第一小隊ですごい場所だったと思うが、こっちは頭と口が回る分、別の意味で性質が悪い。
アレックスは手元の紙をまた一枚めくって、長く息を吐き出した。確かに急ぎの案件ではあるが、と眉根を寄せる。
『え……仕事、ですか……』
脳裏に浮んだのは、呼び出しが来たと告げた時にフィルが見せた顔。
『あ、いえ、その、急ぎなら仕方ないと……えと、いってらっしゃい』
アレックスが部屋を出て行く際に彼女が見せた寂しそうな表情を思い出すと、今も胸が痛む。
(が、あれは少し……)
「まあ、偶にはいいじゃねえか。約束をすっぽかされて拗ねる恋人ってのもかわいいもんだ。なあ、アレックス?」
「っ」
言い当てられて、その発言の主であるレンセム補佐を睨めば、ニヤリという形容がぴったりの笑みを返された。
(もうこんな時間か……)
机の前に座りっぱなしで夕刻を迎えたアレックスは、強張った体を解そうと立ち上がり、窓辺に寄った。空は茜色に染まり、落ちゆく太陽に照らされた雲の端が黄金色に輝いている。
「ロデルセンもそろそろ帰ったらどうだ」
「もう少しお手伝いします」
残る仕事は、責任者たるアレックスが処理すべきことばかりで、他の小隊員たちは既に帰ってしまった。そんな中、自分の持ち分は終わっているにもかかわらず、ロデルセンだけは雑用のために居残ってくれている。
横に並んで伸びをする彼を横目で見て、アレックスはくすっと笑った。彼がフィルやヘンリックと仲がいい理由がわかる気がする。
(あれはフィル。……とカイト?)
夕日によって生まれる影は濃く、表情どころか顔すら判別できないが、自分がフィルを見間違える訳はない。街からこちらに戻ってくるその彼女へと、彼が歩み寄っていく。門のところで立ち止まって何事かを話す二人は、傾いた日差しを受けて地に長い影を落としている。
アレックスの視線に当然気付くはずもなく、フィルは踵を返すと、再び敷地外に向かって歩き出した。横にカイトが並ぶ。
「……」
アレックスは息を殺してその光景を見つめた。
同様に外を見ているロデルセンの神経がこっちに向いているのがわかる。
気付かないふりをしてアレックスは席に戻ると、残る仕事を何事もなかったかのように片付け始めた。