15-3.膿
「へえ。ほんとにアレックス異動になったんだ。って、第二十小隊!? ……うわ、悲惨。いや、アレックスならこなせるとは思うけど……」
「そうだよ、問題はお前だ、フィル。やってけんのか、アレックスのフォローなしでさあ」
「……どういう意味だ」
異動を知らせる掲示の前で、フィルがヘンリックとエドと会話をして、眉をひそめている。
「よっしゃ、うちだっ」
上機嫌に喜んでいるロデルセンを恨めしそうに、そして、拗ねたように見ているその顔には、はっきり寂しいと書いてあった。
自力で物事をこなそうとする彼女だが、時折少しだけ甘えを見せることがある。その相手はいつも彼――自分には決して向けられない感情だ。
「あ、おはよう、カイト」
最初に気付いたフィルがこちらを振り向き、にこりと笑う。
その声を耳にするだけで心臓が跳ねる。緑の収まる目を緩めて柔らかく笑う顔に気分が昂揚し、知らず表情が緩む。
――いい加減終わりにしたい、そう思っているのに。
「……はよ」
知らず声が硬くなる。鈍くてその理由がわからないくせに、フィルは一瞬怪訝そうな顔をした。自分の些細な変化に気付いてくれるその勘の良さが嬉しくて……疎ましい。
「フィル、ミルトさんが相方だって」
「あ、うん」
やはり勘のいいヘンリックがフィルの注意を逸らしてくれる。
「そういや、カイト、経済の課題終わったか? 俺、まだ半分もいってねえんだよ」
自分のフィルへの想いを知っている、同じ師に弟子入りしていたエドの存在。彼らの気遣いに、口には出せないながら感謝した。
去年末、フィルだけが第一小隊の就く任務から外された時、彼女が女だというそれまで公然だった秘密が、秘密ですらなくなった。
結果、フィルは一部を除いた者たちから敬遠され、まるで腫れ物に触るかのように扱われることになる。
アレックスの従妹のせいだったのに、落ち込むフィルの側にいないアレックスにもむかついて、そして……浅ましくも喜んだ。
そんな使えない男とは別れてしまえばいい、そう願った。
「気にすんなよ、フィル。お前は正々堂々騎士になって、今までだって今だって、ちゃんとやってるんだから」
期生別講義の教室で、落ち込んでいるフィルに声をかけた。彼女は目をみはり、硬い顔を少し緩ませる。
「そーそー、大体俺、フィルが女だって知ってたし」
「嘘、エドまで?」
「……ロデルセン、これだけ一緒にいたのに気付かなかったの?」
「う……」
「いくら頭よくってもなあ、お前……」
「ロデルセンに期待すんなよ、フィルの次に鈍いって評判だぞ」
「げ、それってひどすぎねえ?」
「……ロデルセンも大概ひどい気がするんだけど。慰めにきてくれたんじゃないのか……?」
フィルはいつもと同じようにふざけ合う同期たちを前に、ぎこちないながらも少しずつ浮上していく。
「そう、いつもどおりでいい。堂々としてろ」
思わず頭に手を伸ばし、金髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜると、掌の下でフィルは声を漏らして笑った。
(……アレックス、あんたがいなくったってフィルはちゃんと笑うんだ。フィル、そんな顔するくらいなら、別れたらいい。そうしたら……俺だってちゃんと大事にする)
その音と手に残る柔らかい髪の感触に胸を突かれた。
そうして幾分ましになったものの、それでもフィルはどこか所在なさげで、庇護欲を掻きたてられる空気をしていた。普段からは考えられない。
そう思っているのはカイトだけではなかったようで、他にも数名が彼女の様子を窺っていた。
幸い、アレックスもふざけた振りをしながらいつもフィルを庇護している第一小隊員たちもいない。色々と気をとられることがあるのだろう、フィル自身にもいつもの隙のなさがない。
想いを伝えて、口説く――実行しそうになるのを必死で抑えていたのは、フィルの信頼を失いたくなかったのと、ヘンリックがいつも以上に注意を払っていたから。
それでも、それが続くうちに、徐々に自制が効かなくなっていった。
「カイト……チャンス、じゃねえ? 俺、アレックスが相手なら仕方ないと思ってたけどさ、そのアレックスがあんなふうに放っておく気なら……フィル、最近全然笑わねえしさ」
らしくないフィルを見かねたのだろうエドの放ったその言葉にも背を押され、意を決した翌日、だが、当のフィルがその機会を与えてくれなかった。
『団長、質問があります。女性が騎士団に所属してはいけないという規則はありますか?』
『では、私の仕事に何か騎士に相応しくない落ち度がありましたか?』
フィルは皆が揃う前で、堂々と自分は女だと、だが、それが問題になるかと疑問を投げかけた。強い視線で顔を上げ、自分を見つめる無数の目を真っ直ぐ見つめ返す。
その姿に見惚れた。頼りなげな姿じゃない、自分が惚れたのはこんなフィルだ、そう思った。
あとは普段どおり。アレックスのことも気にしていないようだから、どうでもいいと思い始めたのかと淡い期待を抱いて……。
それが勘違いだと思い知ったのは、彼女が休暇を終えて戻ってきたのを偶然見かけた朝だった。
フィルはアレックスと共に戻ってきた。彼らが交わしていた目線に、あの間に入ることは不可能だと悟った。二人の間にある距離は以前と変わらず、手すらも触れていないというのに……。
講義室には、淡々とした講師の声と板書の音が響いている。開け放した窓からは、時折熱気を帯びた風に混ざって、鍛錬場の賑わいが流れ込んできた。
(いっそ見ない方が幸せだったのかな……)
ヘンリックの横で黒板を見つめてノートを取るフィルの横顔を、カイトは斜め後ろから見つめる。夏の日差しは直射でなくても十分明るい。金の髪と白い肌、緑の瞳が一層鮮やかに見える。
横のヘンリックから結び紙を投げられて、フィルはそれを開いて笑う。何かをこそこそと書き足して、それを背後のロデルセンへと投げた。
ロデルセンがそれを開いたところで、講師が目ざとく見つけ、彼に問いを飛ばす。涼しい顔で彼が質問に答え、講師が面白くない顔をして黒板に向き直ったところで、フィルとヘンリックは後ろを振り返り、仕草でロデルセンへと謝罪した。
アレックスと別れてしまえばいい――今でもそう思っている。
でも、絶対に別れない――今はそうわかる。
鍛錬場から響いてきた声にフィルが、一瞬窓の外へと視線を走らせた。そして、小さく、けれど幸せそうに微笑んで、再びノートへと目を落とす。
艶やかな微笑の視線の先に誰がいたのか、確かめなくてもわかってしまう。
『さようなら、カイト』
美しい黒髪の彼女の声が耳から離れない。
向こうから言われて付き合い始めたけど嫌いじゃなかったし、むしろかなりの好意を持っていた。だけど……一緒にいたって、抱いていたって、いつだってフィルのことが頭から離れなかった。
『不毛な恋はやめることにしたの。私は私を見てくれる男を捜すわ。幸せになりたいのよ』
彼女の言葉が耳に突き刺さる。
泣いていたのに、こちらに向けてきた目線はとても強いものだった。自分が憧れ続けてきたものと同種――前を向いていく人のもの。
それに引き換え、ずっと立ち止まったままの自分。
「……」
(いい加減けりをつけよう。そして……前に進もう。もう置いていかれるわけにはいかないんだ)
カイトは視線を手元に落とし、机の上の両手をぐっと握りしめた。