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「檻に戻って。嫌? えー、いや、そりゃ私だって嫌だけど……ちょ、ちょっと」
あの後、子レメントは檻に戻ることを拒否。フィルの頭をがっちり前足でつかみ、そこを居場所に決めたようだ。
その光景を妙にかわいいと思ってしまったが、先ほどレメントが見せた異常な殺気と、『一種指定』と繰り返していた師の言葉を思い出し、慌てて首を振った。
(あれは危険生物だ)
なお、そこにフィルは含まれていない……と思う。……時々自信がなくなるが。
「重いから嫌だってば。はあ、見下ろされるのが嫌? そんなこと言ったって、まだ小さいんだから仕方ない……いだっ」
子レメントは気に入らないことがあるたびに、フィルの顔やら頭やらを尻尾でべしべし叩いている。
(間違いなくメルとネルと同種……)
あんなふうでいながら、彼女を気に入っているのだろう。なんとなく嬉しそうに見える。
「尻尾癖が悪い! やめろ!」
レメントに向かって一人騒いでいる(ようにしか見えない)フィルへと、皆が呆れた目を向けていることに、彼女自身は間違いなく気付いていない。
「変わっているとは思っていたが……」
「直感で生きているから、言葉などいらないのだろう。今更ディランが何をしても驚かん」
「そもそも人より魔物に近いんじゃない?」
それが呆れで済んでいるのもフィルならではだ。
(あれは直感による会話じゃないし、表情から内心を読んで応答している訳でもない)
フィルの頭上の白い豹そっくりの生物を見つつ、アレックスは目を眇める。
人以上の知能を持つ――言葉を発している様子もないのに、何故そのように言われるのだろうと思っていたが、あの子レメントを目の前にして納得した。
レメントは意思を疎通したいと思う人間に、思考を流し込むことが出来るらしい。さらに恐ろしいことにその逆も。
『あの娘の言うメルとネルとやらに、お前も会ったことがあるようだな』
フィルに呼ばれてレメントの前に行った後、しばらく彼か彼女だかと(フィルに言わせると、レメントは大きくなってみないと性別がわからないらしい)見つめ合っていると、突然頭の中にそう響いてきた。
仕組みを思うと背筋が寒くなるが、深く考えるのはやめておこうと思う。
ついでに言えば、アレックスが何も言わないうち、しかも考えることすらしないうちに、なぜネルとメルに面識があるとわかったのか、と頭をよぎったが、それ以上の思考も放棄した。……やはり大分フィルに毒されてきている気がする。
「あ、おなか空いてたんだっけ? 食堂は多分もう無理だし、じゃあ、何か買ってくるよ。メルやネルは鳥肉と焼き菓子と鱒のパイが好きだったけど……ん? 私の好きなもの? 鳥肉と焼き菓子と鱒のパイと、あとケーキはもちろん外せなくて……じゃあ、それがいいって?」
頭の上のレメントと一人戦っているフィルは間違いなく、言葉なしで意思疎通が可能なことの異常さと恐ろしさに気付いていない。
「……はっ、あ、あれ、ひょひょひょっとして嫌がらせだったってこと!? てことは今のも!? さ、最悪な性格……いだっ、だって本当のことじゃないか……い゛っ、と咬むのは反則っ」
(……いや、違うか、そもそも気にしないのだろうな、フィルのことだから)
先ほど動物商の檻の前で彼もしくは彼女とアレックスが交わした話にしても、フィルならきっと顔を引きつらせて終わりだ。
『魔物の取引を禁じるルールが人の世界にはあるはずだ。あれは知らなさそうだが、お前は知っているか?』
『この豹の子も共に、ここから出して元の場所に戻せ』
『どの道、もうすぐ私はこの檻から出られるようになる。この街の人間を皆殺しにされたくなかったら、大人しく協力することだ』
『ちなみに今の時点でも、他の人間はもちろん、お前やあの娘程度ならなんとでもなる』
フィルはメルとネルの性格が悪いと言っていたが、そのレベルではもはやない気がする――危険、しかも極めて。
だが、親恋しさ故か、彼(彼女?)に擦り寄っていく銀豹の子どもを邪険にしないあたり、そしてフィルが警戒していないあたりに、(究極のところで)大丈夫だろうと楽観することにした。
(……フィルに偉そうに言えなくなってきた)
本気で考えなしになっていっている気がしないでもない。少し落ち込む。
「なんせフィル、そのレメント、これ以上面倒なことにならないうちに、元の場所に帰してこい」
「なんで私!? ……い、いちいち尻尾で叩くなっ」
「どうせ君が連れてきたんだろう。こんな騒動起こすのはこの世に君しかいない。責任は取れ」
「う」
「ついでに、その銀豹も」
「……あの世も含めていいなら、同じような騒動を引き起こす人がいたがな……」
フェルドリックに断罪され、頭にレメントを載せたまま半泣きで沈黙したフィルの向こうで、ポトマック副団長が遠い目で愚痴を呟いた。
そのリックは、去り際わざわざ檻に寄り、身を屈めた。気絶している横のジェイスラン子爵には一瞥も与えないくせに。
「……これの親は?」
「へ? ……あ、探すの? 見つからなければ育てる? うわ、性格悪くなりそ……い、痛いってば!」
「なら大丈夫だな」
「いや、だから性格が大丈夫じゃなくな……いだっ」
「……本当に懲りないな」
フィルに白い目を向けた後、リックは腕を伸ばし、本物の銀豹の子を繰り返し撫でる。いつになく柔らかい表情に、アレックスは昔彼が飼っていた犬のオルスを思い出した。
湖西地方で野犬として恐れられていたオルスを、リックがどうやって手懐けたのかはアレックスもよく知らない。ただ、彼らの関係は大親友としか形容できないもので、人に不審を抱いていた彼の拠り所だった。彼が死んでしまってからは別の生き物を手に入れようとはしないが、フェルドリックは基本的に人以外の動物(恒温動物限定)好きだ。
「あー、うん、ちょっと意外。でも……人ってそうなんだ、悪い人ばっかり、悪いとこばっかりじゃないんだよ」
それを見たフィルが目をみはってから嬉しそうに断言したこと、そして彼女の頭の上のレメントが髭を震わせて、かすかに笑ったこと。危険だが、結構いい拾い物をしたのかもしれない、そんなふうに思う。
「うん? そりゃ、アレックスの方が背は高いけど……うわ、に、似合わない……」
「……」
より高いところを好んだ子レメントがアレックスの頭に上ってきたこと。
それを見たフィルに幻滅されたこと。
リックが国民に見られれば、一気に支持を失うというような顔で大笑いしたこと。
師でもあるポトマック副団長に形容し難い顔で見られたこと。
――この心境をどう表現すればいいか、それは本当にわからなかったが。
* * *
翌朝、レメントに怯えていた団長と早い方がいいという副団長の命令で、アレックスとフィルはレメントと銀豹の子を伴って、河南山脈へと旅立った。
いきなりのことに驚いた小隊の皆に、「お前、またなんかやらかしたんだな」と言われたフィルは「何で私ばっかり……」と半泣きだったが、馬車に揺られること六日間、山を登ること一日。七日目の午後に、河南地方の山奥深くに子レメントと銀豹を放した。
そこに着くまでの間、銀豹の子の世話をする以外(これが驚くほど甲斐甲斐しかった……)、子レメントはなぜかアレックスとフィルにべったりだった。
昼間の移動中は、子レメントはずっとアレックスの頭の上か肩の上。曰く、『お前の方が背が高い。見下ろされるのは気に入らない』
そうでない時は、フィルの頭か膝の上。曰く、『軽い頭をしているんだから、少しぐらい負荷をつけてやる』
だが、銀豹の子が起きて鳴くと、慌てて檻に戻っていき、食事を自ら与え、遊び相手をしている。道端で人間の子供が寄ってきても大人しく触られている。本当におかしな生き物だった。
夜は夜で、日中フィルを顎で使い、喧嘩ばかりしているくせに、子レメントは銀豹の子とフィルと並んで仲良く寝る。ひどく可愛いのだが、そうなると大抵の場合アレックスの場所はなくなる。
「ちょっと場所とりすぎだってば、私が寝られない……あ、人の腕、枕にするな」
そうでない時はわざわざフィルとアレックスの間に入ってくる。
「ふふふ、こうしてると可愛いですね」
「…………まあな」
除けてやろうにも、フィルはなんだかんだ言って嬉しそうだし、罪のない銀豹の子もそこにいる。
しかも寝ていると、子レメントはアレックスへと転がってきてくっついてくる。それは起きている時には考えられないくらい可愛い。
総じて、彼(彼女?)の思うままの七日間だったと言っていいだろう。
そして人以上に賢いと言われる生き物には、それが少し面白くなかったことがばれていたらしい。
『子どもや動物相手に妬くようだと嫌われるという話だったんだが、お前が行動に出てこなくてつまらなかった。まあ、あれの用は済んだし、返してやろう』
小鳥のさえずりと、息苦しいほどの木々の息吹に満ちた深い、深い山の中。穏やかな風に揺られて踊る木漏れ日を銀の瞳に受けた魔物の子は、そうにやりと笑った。
『せいぜいこの先も頑張れ。そのつもりのようだが、子供に子供はまだ早いし、ちょうどよかろう』
「……」
(なんだって生後四ヶ月にそこまで言われなくてはならないんだ……)
脱力するしかなかったアレックスの反応にだろう、レメントは上機嫌に美しい銀の毛皮をさざめかせる。
昔神とまで呼ばれた魔物の子――。
『赤くなったぞ』
……の性格は本当に、どこまでも、救いようがないくらい悪かった。フィルの言った通りだった。
そんなアレックスとレメントを不思議そうに見比べていたフィルは、次にフィルを向いた彼(彼女?)に柔らかく微笑むと、腕を差し伸べ、その身を抱え上げた。
「あ、抵抗するな、ちょっとだけなんだから……――元気で、幸せに。あと、いつかメルとネルに会ったら、よろしく伝えといて」
傍目にわかるくらいの力で、彼女は銀色の塊に顔を埋め、ぎゅっと抱きしめる。
「それから――いつか私が間抜けなことして売られるような目に遭ってたら、タダでうまく買ってね……って、痛いってば! 本当のこと言っただけ……う、も、もう言わない」
そんなやり取りをして彼女は最後に笑ったが、少し目が潤んでいる気がする。
「はい」
前脚の脇に手を入れられてアレックスへと差し出されたレメントもどこか神妙な顔をしていて、なんだか笑ってしまった。結果アレックスも尻尾で叩かれたが。
「……元気で」
アレックスにも大人しく抱きしめられた魔物の子は、その銀の瞳をじっとアレックスに向けてきた。おもむろに人が解せない何かを呟くと、アレックスの胸を前脚で押し、落ち葉の降り積もる森床に着地する。
そうして踵を返し、久しぶりの森に戸惑う銀豹の子を伴って、先の見えない森の奥へと消えていった。ゆっくりと、だが一度も振り返ることなく。
奇妙な物寂しさを抱えて、カザレナに引き返す旅の途中。
「……」
言葉少なだったフィルは、その日とった山の麓の古い宿の一室で、ベッドにどさりと身を投げた。微妙に眉尻を下げ、そのままゴロゴロと転がる。
心境がわかるだけに、苦笑しながら上着を脱げば、フィルがばっと起き上がった。目を見開き、アレックスの左腕の内側を凝視する。
「アレックス、それ……」
「ん、ああ、一回引っかかれた」
アレックスの返答に、フィルはくすくすと笑い出した。
「フィル?」
袖を捲り上げ、彼女が差し出して見せたのは、左腕の内側についた十字の傷跡――アレックスの物と同じ場所、同じ形、同じ深さだ。
「おまじないらしいですよ。これがあると、森での危険が減るんですって」
「?」
「ロギア爺、冗談で言ってるのかなあって思ってたんですけど……あの子、私が最初に話しかけた時、左腕を見せろって言ったんです」
何かレメントには意味があるんでしょうね、とフィルは傷跡を撫でながら、どこか懐かしそうに笑った。
「……」
思わず自分の腕の内側にあるまだ新しい傷跡を見つめた。そしてフィルの腕の古い傷も。
「あの子も、メルもネルも元気だといいなあ。元気でやるといいなあ」
「……きっと向こうもそう思ってくれているんだろうな」
「うん。タダだったけど、そんなに高くなかった」
相変わらずフィルは不思議な表現を使って喜んでいるが、アレックスもつられて笑ってしまった。
遠くにいて、もう会うこともないだろう相手。だが、その人を自分は時折思い返し、その幸せを祈る。そしてその人も、何かの機会にそうして自分を想ってくれる。
そんな相手が今日もこの世のどこかに存在していると思える――それは不思議な幸福を運んでくる。
アレックスがフィルから離れられないと実感するのはこういう時だ。彼女は意図もしないまま、アレックスに色々なものを見つけさせてくれる。幸せだと感じさせてくれる――。
「それにしても、あの子の言っていたとおり、南の山は珍しいもので一杯でした……。ふふふふ、見てください、この紫と赤と黒のシマシマきのこ!」
――正直、少々困る時がないでもないが。