3.足元
アレックスは動物商のお店の飾りガラスの前、レメントの子と目線を合わせて、顔を引きつらせている。
フィルに向けてあんな顔をすることは珍しくないけれど、他の人(この場合は人じゃないけど)に向けていることは珍しいので、横顔を眺められる機会は貴重だ。
ちなみに、そんな表情をしていても、彼は変わらず美人だと思う。明るい日の下で、余計鮮やかに見える青の瞳はもちろん、初夏の風にまっすぐな黒髪がさらりと揺れるのを見るも好き。一瞬立ち止まって惚けたように彼を見る周囲の人たちの気持ちがよくわかる。
(……なるほど、こういうのを現実逃避っていうのかもしれない)
フィルはフィルで頬を痙攣させつつ、視線を泳がせる。
そう、今向き合うべき現実は……――あの子、アレックスを呼びつけて、何をする気なんだろう??
「あ、あの、ディランさま」
戸惑ったような声に振り向けば、恐ろしくぎこちない笑顔の店主がいた。
「……はっ」
そもそもそれもこれも私のせいじゃないか、アレックスに迷惑をかけるばかりじゃダメだ、少しは名誉挽回しなくては! とその顔に思い起こす。
「少しよろしいでしょうか。お伺いしたいことがあ……」
質問を口にしようとして思い出したのは、祖母の言葉――。
(待て、ここはあれだ。婆さまは誰かから情報を引き出したい時は、にっこり笑えと言っていたじゃないか)
それで微笑を顔に浮かべてみた。相手が男性なので、一応女の子仕様で柔らかく。
「あの子の月齢はわかりますか? どんな経緯でここに来たんですか?」
だが、店主は口をぱっくり開け、なぜか真っ赤になってそのまま停止した。
何かやましいことでもあるのかとフィルが目を眇めた瞬間、彼は慌てながらも質問に答えてくれた。
「あ、と、生後三ヶ月ほどの頃に河南地方の山中で捕獲されたと」
「河南地方の山脈」
(……は、カザレナから見て南南西、西に行けばザルア山脈に繋がっている。生後三ヶ月でということは、今四ヶ月くらいだろう)
店主の言葉を繰り返し、フィルは眉間に皺を寄せた。
確かロギア爺は、と様々なことを教えてくれた恩師であり親友でもある故郷の老人とのやりとりを辿る。
彼はネルとメルは歩き出して数か月後には自分たちだけで鹿を捕らえていた、と言っていた。メルは半年後には熊を狩っていた、一年経つ頃にはネルが頭部に一撃加えただけでグリフィスを仕留めていた、とも。
あの時はただただすごい、格好いい、見習おう、追いつこうと感嘆していたけれど、よくよく考えればものすごく恐ろしい話かもしれない。だって鹿が狩れるなら、あの子がその気になったら?
「……人だって危ない……」
衝撃の発見に愕然とする。
「ずっとあの鉄格子の檻の中……?」
頷いた店主にフィルは血の気を失っていく。
メルは槍の訓練用にフィルが持っていた鉄製の棒を、尻尾と前足を器用に使って、飴のように捻じ曲げて結び、鉄塊にしたことがあった。
その後、何とか元に戻そうとフィルが頑張ってもびくとも動かなくて困っていたら、ロギア爺に言われたネルがひょいと直してくれた。あっさりと、力を込めている様子もなく……ああなるのは一体いつなのだろう……?
フィルはごくりと音を立てて唾を飲み込んだ。
確かなことは少ないけれど、ただ一つはっきり言えること――あの子も近いうちに人の手には負えなくなる、カザレナのど真ん中で。
しかも、あの子は人に激しい敵意を抱いている。無理に捕らえられたのだから当たり前かもしれないけれど、最初ガラス越しにフィルと目が合った時だって、ぞくりとするような殺気を向けてきた。
だからこそ、ネルとメルの仲間だ!と思って、「ネルとメルって知っている?」と声をかけてしまったのだけど。
(……それもどうなんだという話か、ひょっとして?)
なんせわからないがゆえに怖いこと――そんな人嫌いなあの子は自由になった後、街の中で何をするだろう?
フィルは身を震わせる。
「つ、つかぬ事をお伺いしますが、あの子たちの舌の色、確認しました?」
「? いえ」
「緑色していると思うんですけど」
この世で魔物と分類される生き物に特徴的な血液の色だ。
動物商だけあって、その意味は理解しているらしい。店主の顔は一気に青ざめた。
「ま、まさか……」
ぎこちなく笑った彼が檻へと顔を向けると同時に、その生き物はこちらへと視線を向けた。そして檻の向こうでぺろっと舌を出す。
それは案の定の色をしていた。
「ひっ」
息をのんで後退さった店主に、彼(彼女?)は低い唸り声を上げた。店主の顔から一気に赤みが失われる。
ネルやメルがああいう音を出していたことはないから、あれはわざとだろう、脅すためだけの。
「……性格悪」
唸り声を漏らしたフィルと、それらすべてに溜め息をついたアレックス。
その向こうであの子が笑っているように見えるのは、きっと気のせいじゃない。
「……イセリト。銀豹に似た魔物のことは聞いたことがあるか?」
アレックスが店主にそう話しかけた。直後、フィルは眉を跳ね上げる。
(だって、イセリトは見た目だけは似てるけど、空気から何からまったく違う。大体レメントだってさっき……)
「う」
だが、一人と一匹から同時に睨まれて、フィルは開きかけていた口を瞬間的につぐんだ。まずいと思った。本能だ。
「魔物を販売することは、第二級犯罪。相手に被害が出れば一級、死罪だな」
真っ青になったまま喘ぐように口を動かす店主の目の前で、「フィル、このあたりだと第七小隊の管轄だな、詰め所に連絡を。店主を拘束する」とアレックスは淡々と続けた。
「お、お待ちください。し、知らなかったんですっ」
「生憎と動物商という商いの性質上、それこそが問題となる」
「で、ですが、本当に私は仲卸から購入しただけで……」
視線を感じて檻の中を見れば、その生き物は二人のやり取りを見て、というより店主の慌てぶりを見て笑っている。
絶対的に性格が悪い。ますますメルとネルの仲間決定だ。
「その申し開きはなんの役にも立たない。おそらくあれはもう人の手には負えないところまで成長している。檻から出した瞬間に店主であるあなたはもちろん、下手をすれば周囲の者たちの命も潰えるだろう」
「え、あ……」
店主の顔はいっそ哀れなくらい白くなった。
(ああ、あの子、本当に楽しそう……)
髭をぴくぴく動かし、尻尾をふわふわと動かしている子レメントを見て、フィルは関わったことを後悔し始める。
なんというか、今気付いたのだ――この後、私はどうなってしまうんだろう……?
人に敵意を持つ最強の魔物、子供では既になくなりつつあるあの子に、しかもフィルはさっき余計なことを言ってしまった。「豹の子と一緒にって事は、ネコヨイ草に引っかかったの? 私が間違えて採ってきたせいでネルが酔っちゃったの、見たことあるけど、それってかなり間抜……う゛っ、も、もう言わない」と。
(ま、まずいかも……)
冷や汗が出てきた。
「檻の中に閉じ込め、距離をおいたところで意味もない。おそらくあと数週間もあれば、あの檻も簡単に破る」
「ひぃぃっ」
図ったようにあの子が鉄格子に体当たりした。檻が大きく揺らいでガラスが割れ、店主が情けない悲鳴を上げる。
盛大な破壊音と、頑丈な鉄の檻が揺れる様の視覚効果は絶大だった。人々が何事かというようにこちらを見る中、店主は腰が抜けたようにその場にへたり込む。
出られないと言いつつ、脅すためだけにあんなことをする――フィルは関わったことを本気で後悔する。
(あ、の子を引き取ったら、間違いなく『私が』ひどい目に遭う……)
額に嫌な汗を滲ませて固まるフィルと、泣き言のようなことを口にしながら頭を抱え始めた店主の周囲に、人が集まってくる。お金持ち御用達のお店というだけあって、身なりのいい者ばかり。
「罪になろうがなるまいが、信用がなくなれば、この先商売にならないだろうな」
「っ」
そんな中アレックスが発した独り言のような呟きに、店主が弾かれるように顔を上げたのはある意味当然のこととして……。
(あ、あの子だけじゃなく、ア、アレックスも今ちょっと笑ったような……)
意味深かつおそろしい発見をしている気がした。
――結局、店主の懇願もあって、魔物は騎士団本営へと引き渡されることとなった。
魔物を入れた檻を乗せた荷車を押しながら、フィルは口?やかましい魔物に応じる。
「仕方ないんだってば。魔物だと言って引き取ったんだから、街の中で出すわけには行かないの」
「あれ? は凧。欲しい? ……凧揚げするの? その体で? う……じゃ、じゃあ、後で買ってくるけど……青? ……色まで指定するのか」
「ん? おなか空いた? ええと、後で食堂行ってご飯もらってくるよ。残り物は嫌って……文句ばっかり言うな!」
手続きの間も運ばれている間もあーだこーだ文句ばっかり言って?くるあたり、やっぱりいい神経をしていると思う。
店主の方は、この区域を担当する騎士たちに事情聴取されることになって、とりあえず騎士団の詰め所に連れていかれた。
縋るような目を向けてきた店主に、「正直に話せば厄介なことにはならないだろう」と、アレックスは諭すように優しく、親切に助言を与えていた。
けれど、フィルは聞いてしまった。
「少し厄介な性質のものなんだ。口を封じるために、悪いが、脅すだけ脅しておいてくれ。ただ故意ではないようだから、最後には罪にしないという方向でいい」
アレックスがそうその騎士たちと話しているのを。
黒い、怖い、と思ってしまった。
ちなみに、もう片方は本物の銀豹らしい。
「俺は両方とも魔物だなんて一言も言っていない。店主が自主的に所有を放棄したんだ」
アレックスの淡々とした発言に引くフィルの横で、檻の中の魔物は満足そうに笑った。
実はいい組み合わせなのでは、と真剣に思う。
そう、『お金が足りない』とフィルが告げた後、彼(彼女?)は、フィルが連れて行ったアレックスに目をつけた。
あっちの方がうまく事を運べそうだ、替われと酷いことを言われて、アレックスを呼んだものの、果たしてその通り、無料で銀豹の子まで手に入れてしまった。
少しだけ店主を気の毒に思わないわけではないけれど、お金がなくても世の中済む事もあるらしいと勉強した。
そうして、頭いいってやっぱり得かもしれない、なんて感心していて、フィルは忘れていたのだ――『甘い話には裏があるのよ?』という祖母の言葉と、何より、人の世にも魔物なんて目じゃない悪魔がいるという事実を。