1.勘定
カザック王国には、国に統制されている金融組合がいくつかある。商業取引のための手形や小切手を発行する他に、個人のお金を預かってくれたりもするそれは、手元に現金を置いておきたくない一般の人たちにとっても中々使い勝手がいい。
「えーと、私のが260,539キムリで、」
騎士の給料も望めば、そこにある個人の口座に振り込まれるのだが、休みの今日、フィルは組合の窓口で自分の口座と祖父が自分に残してくれた口座の残高を確認して考え込む。
月末の今日、周囲には人が一杯。今月お金を儲けた人と、逆に散財した人――その表情を見ていれば誰がどちらか如実にわかるけれど、フィルの場合はそれが問題な訳じゃない。
「爺さまが残してくれたのが、1,503,226キムリ……」
(そう言えば、初めて残高ってものを気にしているかも)
今まで口座から現金を引き出すことはあっても、いくら残ってるかなんて気にしたことなかった、と考えてフィルは溜め息をついた。
祖父が亡くなる時にフィルを心配してくれて、『あって困ることはないから持っておきなさい』と名義を変えてくれた口座の方も、今の今までいくらあるか見たこともなかった。
想像していたよりずっと多くてびっくりした。
(私と同じように何も考えてなさそうな人だったのに、実は爺さま、お金持ちだったのか……)
ちなみにそれが騎士団長まで勤めた、しかも有力な貴族だった者の個人口座の中身にしてはひどく少ないことに、フィルが気付くはずはもちろんない。
ついでに言うなら、そんな人がなぜ旅の途中で路銀が無くなって孫と二人、賞金稼ぎなどしていたのか? ……単純に計画性のなさと趣味の問題である。
「うーん、本当にあまり使わないんだけどなあ」
月給の中から宿舎に入れるのが、毎月10,000キムリ。あと使うのはお茶代とたまに外で食べたりする時の外食代くらい。
制服は支給。あまりに破りすぎているせいで、この間事務の人にこれ以上ひどくなれば給料から差っぴくと怒られたけれど、今のところは無料。
私服もほとんど買わないし、アクセサリーも化粧品も無縁。
本も読まない訳じゃないけど、アレックスが持っているのを借りられるし、毎日毎日課題に追われていて、買って読むほどの時間はない。
家族に、という同僚もいるけれど、フィルの場合祖父母は亡くなっているし、絶縁されている間柄では父はもちろん兄ともそんな機会はない。
じゃあ、恋人にプレゼントでも、となったって、アレックスはフィルに何かを買いたがるくせに、フィルには買わせたがらない。ご飯だってお茶だってなんだかんだいって、気付いたらアレックスがということが多い気がする。
見習い期間の試験合格祝いにアレックスが買ってくれた一人がけのソファも、先日街で見かけてその値段にびっくりした。給料二か月分……そりゃあ、触り心地も座り心地もいいはずだと思った。
お金、余ってるのかな?と思う。大きな貴族の実家を抜きにしても、フィルよりアレックスの方が圧倒的にお金持ちらしい。出世頭というので年齢の割にずば抜けた給料をもらっているとエドが言っていたし、なんとかという商取引をやっているのだそうだ。
(……使い途のないお金をそんなに貯めて、一体何をする気なんだろう? 時々アレックスは本当に謎だ)
「うーん……」
謎だけど、少しはそんなアレックスを見習っておけば良かったと思いながら、フィルは組合の建物を出る。
宿舎に向かってとぼとぼと歩き出しながら、大きな溜息をついた。
だって、無駄遣いをしない方のフィルでもまだ足りない。
「足して、1,763,765キムリ。あと二ヶ月あればなんとか1,800,000」
だけど、あと二ヶ月も時間はない。
「いっそ宿舎を出て野宿。そうすれば一ヶ月ですむ……? けど、一ヶ月……」
フィルは難しい顔をして眉間に皺を寄せる。
時間が経てばさらに値段が上がるだろうと店員さんが言っていたのも気にかかるけれど、何より、
「一ヶ月は洒落にならない、絶対に……」
となると、どうしても今1,800,000キムリいる。
「誰かに借りる……?」
でも、祖父母はそれはしてはいけないことだと。
ぶつぶつ呟きながら部屋に帰ってきて、自室で多くはない荷物をごそごそと漁る。
「あと36,235キムリ、36,235キムリ……」
売り払ってお金になりそうなもの、と思って探すも、持ってない。
一つだけあるとすれば、と先ほど床に置いた代物に目に留めてフィルは呻いた。
「剣、はいくらなんでもまずいよなあ……」
「なんのことだ?」
「さすがにこの剣を売る訳にはいかないと思って……でも、あと36,235キムリ……確実にっていうならさらにあと50,000キムリって言ってたっけ……うう」
「何か欲しいものでもあるのか、フィル?」
「あ」
そこでフィルは、アレックスが帰ってきたことにようやく気付いた。
「ただいま……フィル? いるのか?」
気配はするのに、呼びかけに対する彼女からの返事がない。
不思議に思って室内を覗き込んだアレックスへと、開け放された奥の窓から爽やかな風が吹いてきた。
フィルはその窓の手前、クローゼットの前で剣を見つめ、ぶつぶつと独り言を呟いていた。
「あと36,235キムリ……」
考え事をしていると如実にわかる彼女のその様子に、アレックスは思わず眉を跳ね上げた。
今日は午前中リアニ亭の娘のメイと約束があると言っていたが、それがなんだってあんなふうになって帰って来ているのだろう?
しかも、フィルには珍しく『キムリ』なんて単語を使っていて少し驚いた。
フィルには金銭感覚があまりない。正確に言えば、何かを『買う』という感覚が少ないようだ。
彼女が欲しいものは生きるのに最低限の食料。これも王都に来る前まではほとんど自前だったと言う。
今だって、宿舎に定額を入れる以外には、嗜好品のお茶とケーキにぐらいしか使っていないのではないかと思う。
服は動ければよし。防御力が高ければなおいいが、どうせすぐ駄目になると言う。
アクセサリーは勘が鈍って邪魔だから嫌だと言い、宝石を見ればアレックスの目の方が綺麗と言う。
指輪が欲しくないかと訊ねた時も素で一蹴された。本人に蹴ったつもりはまったくないのだろうが、正直なところ、かなり切なかった。「フィルはどこまでもフィルだったな……」とまたもや遠い目になった。
花は好きなようだが、花そのものよりその後で生る実に興味があるようだ。だから、切花や華やかな花より、地味な植木にフィルは引き寄せられる。王宮の庭師に真剣な顔でオレンジの育て方を聞いていた。
何か欲しくないかと聞くと、照れたように笑って抱きついてくる。それはそれでものすごく幸せだが、寂しいのも確かだ。
甘やかしたくて仕方なくて、食事でもお茶でも何でも奢るのだが、フィルはその度に真剣に遠慮する。だが、『そうしたいんだ』と押し切ると、照れたように笑ってお礼を言ってくる、その度に病みつきになる。
フィルが入団してきてしばらくして買ったソファ、あれも可愛かった。アレックスの私物のソファを、フィルがじっと見ていること。時々触っては嬉しそうにしていること。こっそり座ってはニコニコしていたこと。なんせフィルはわかりやすいから、その顔に『気に入った』と書いてあった。
それでフィル用にもう一つ注文したのだが、届いたそれを見て、フィルは首を傾げていた。二つもどうするんだろう?と顔に書いてあった。
『フィルのだ。どうせなら一緒にくつろぐ方がいい』と言えば、『そういうことなら、お金を払います』と彼女は財布を出そうとする。試験合格の祝いだと言えば、『自分のものは自分で揃えなさい、人に容易く物をもらってはいけないと祖父母が』と眉尻を落とした。
その後も遠慮する彼女に、結局『もらってくれると嬉しい』と言ってなんとか納得させた後――。
『あの、ありがとう、ございます。本当に、すごく、すごく、嬉しいです……』
そう笑った彼女は壮絶に可愛かった。
しかも、そのソファを前から後ろからペタペタ触った後、嬉しそうに笑いながら座り、猫がするようにそこに丸まっていた。その後もそれに座る度に、にこにこと笑いかけてくる。
あんなに喜ぶなら、しかも、それが好きで仕方のないフィルなのだから、なんだって買ってやりたくなる。
だから、少し、いや、かなり期待して訊ねたのだ。
初めて彼女自身が何かを望み、それをねだってくれるかもしれないと思って、「何か欲しいものでもあるのか、フィル?」と。
で、期待したその答え――
「魔物。1,800,000キムリ」
「……」
久々に頭が真っ白になった。
ちなみに、金額の問題じゃない。
※1キムリ=10円程度