14-9.始末
その日、勤務と夕飯を終えたフィルは自室に戻り、窓際のテーブルでお茶を囲んでアレックスと話をしていた。
日は長く、そのせいだろう、外はまだ明るく、街は賑やかだ。
開け放した窓からは、夕暮れの爽やかな風が吹き込んできて、一日の終わりを感じさせてくれる。
――そんな和やかな気分のところに、それはいきなりやってきた。
のんびりした室内の雰囲気を台無しにする乱暴なノックの音に続いたのは、「フィルっ、どういうことだっ!?」というヘンリックの怒鳴り声。
(つ、ついにきた……)
フィルはごくりと唾を飲み込むと、すくっと立ち上がり、傍らの窓枠に足をかけた。
「ヘンリック……? ……って、フィル?」
普段の彼からは想像もつかない振るまいのせいだろう、目を丸くしていたアレックスが、次にフィルを見て顔を引き攣らせたのは、この際無視。緊急事態だ。
「訊かれてもいないって言ってください」
念押しして、フィルは窓枠の外に身を躍らせ、外壁にぴたりと張り付いた。
アレックスが眉をひそめながらドアの方に歩いていくのを枠越しに見届けて、隠れようと首を引っ込める。
(ああ、空が赤くて奇麗だ……)
沈み行く夕日に現実逃避を図りながら。
「アレックス、フィルはっ!?」
「いない、が……」
「隠さないでくださいっ」
微かに響いてくるアレックスの声は戸惑い気味。ヘンリックのそれは涙まじり。
「一体どうしたんだ、今日はメアリーとデートだと言っていただろう」
「う、アレックス、余計な質問を……」
フィルは外壁にへばりついたまま、顔をしかめる。
「デートでした、デートでしたよ! それこそ、今日こそ朝までってつもりで……っ。なのに、あんの、馬鹿フィルのせいでっ」
「フィル? がそれに何の関係があ――」
戸惑いいっぱいに問い直したアレックスを、「大有りですっ!」と勢いよく遮ったものの、ヘンリックはそこで失速した。
「……フィル、フィルがメアリーに……『怖いんだったら、我慢してもらったら』って言ったらしいんです……」
掠れて「結婚、結婚するまで……」と消えていった語尾に、『うわ、泣いちゃった』と悟って、フィルは肩を竦めた。
そう、あの日、結局フィルはメアリーにから逃げ切れなかった。
『い、痛いって、言うじゃない? しかもものすごく……。その、それって、や、やっぱり本当、なの? ……痛かった?』
顔を真っ赤にしたフィルは、顔を背けつつ、やっとの思いで首だけ微かに動かした。でなきゃいつまでも解放してもらえそうになかった……。
『アレックスがフィルにしてそうなら、絶対そうなのね……』
どんな解釈なのだろう、それは、と思ったけれど、とにかく早く終わらせたかったので黙った。
『……どうしよう』
『?』
だが、メアリーは突然しゅんと落ち込んでしまう。
『……怖いの。ヘンリックのこと、好きだけど……』
あまりに不安そうに言われて、それに絆されてしまったのだ。
『……痛み、だけじゃなくて、より高いリスクを負うのは女性だから、』
そう祖母も言っていたし、と続ける。
『怖いなら、ちゃんとそう話して、大丈夫だと思えるまで待ってもらったら?』
面白くはないかもしれないけれど、ヘンリックのことだ。メアリーのためならきっと待ってくれるだろうと思ったから、そう言ったのだったけれど……。
「そうか、結婚までってなっちゃったか……」
ごめん、ヘンリックと思わなくもないが、こういうことはやはり女性の方が優先されるべきだと思う。
「冥福だけはこっそり祈ってやろうかな」
「――フィル」
「っ!!」
独り言を発した直後、頭上から気配もなく低い声が響いて、フィルは危うく三階から転落しかけた。
「っ、フィルっ」
「あ、ありがとうございま……す?」
咄嗟にアレックスが腕を掴んで部屋へと引き上げてくれて、事なきを得た。
と思ったのに、そこにいたのは、異常に暗い目をしたヘンリックだった。
(な、何でここに入ってきてるんだ……?)
疑問を覚えて彼の横にいるアレックスを見れば、さっと目を逸らされた。確信する。
「裏切りましたね、アレックス」
「…………さすがに、少し気の毒になってな」
(ヘンリックの味方する気だ……)
「気持ちが嫌というほどわかるし……」
アレックスはばつが悪そうに何かを呟いたけれど、フィルを助けてくれる気はないらしい。殺気を露わにこちらへとにじり寄って来るヘンリックを止めようともしてくれない。
「フィル、どうしてくれるのさ……?」
「い、や、どうと言われても……」
暗い声に、暗い目、暗い笑い――普段の印象が柔和で温かいから、こうなるとほんと、怖いのなんの。
じりじりと彼から距離を取りつつも、額に脂汗が滲んでくる。
「あの、ヘンリック、一応言っておくけれど、私は『大丈夫だと思えるまで待ってもらったら』と言っただけで、結婚までとは一言も……」
「うるさい」
言い訳も拒否されてフィルは残された選択肢を探る。
「じゃあ…………早く結婚できるように祈る。って、うわっ!!」
ついにキレたらしいヘンリックが殴りかかってきたのを、身をかがめて避けた。
「ちょっ、本当、心から祈るからっ」
「うるさいっ、祈るだけかっ!!」
もう一撃を加えようと振り下ろされた彼の腕を咄嗟に掴み、ヘンリックの体をベッドの上に転がす。その隙にフィルは入り口へと逃げ出した。
「何をやってるんだ……」
アレックスのもう何回目かわからない溜め息を後ろにして。
「やっと、やっとの思いで、ようやくここまで来たのに……」
扉を閉じる寸前、奥からヘンリックのすすり泣きが聞こえてきた。
「……気持ちはわからないでもないが……」
応じる、疲れたようなアレックスの声に、『また抱きついて泣いてるのか』と悟って、フィルは心の中でアレックスに謝った。
(まあ、大丈夫か。なんだかんだ言ってアレックスは面倒見がいいから、きっとなんとかしてくれるはず)
「……となると、私はメアリー……」
ヘンリックがあの調子なら、彼女の方も似たようになってるんだろうと思い至って、扉を閉じた後、フィルはフィルで溜め息をついた。
「アレックスと一緒にのんびりする予定だったのになあ……一体何が悪いんだろ」
そうがっくり肩を落とすと、フィルはメアリーに会うために、薄闇に被われつつある街に向けて足を踏み出した。
それにしてもさすが幼馴染。理不尽さ加減もいちいちそっくりだなあ、なんておかしな感心をしながら。