14-8.仇
結局、足掛け十六年とヘンリックが力説していた恋――ヘンリック曰く、赤ん坊のメアリーに恋をしたと言っていた。さすがに嘘だろうと言い切れないのが、ヘンリックの怖いところだ――は見事に実り、彼はメアリーとめでたく付き合えることになったそうだ。
これまで、メアリーに振り向いてもらうのだと頑張ってきたヘンリックは、今度はさっさと出世して彼女にプロポーズするのだ、とさらに張り切り出している。
フィルと同じように、これまで散々彼のメアリー絡みの愚痴やら惚気やらに付き合わされてきた彼の相方のフォトンさんは、今度は惚気に加えて、鬱陶しいまでに熱血になったヘンリックの稽古にも付き合う羽目になった。最近彼がげっそりしてきているのは、間違いなくヘンリックのせいだと思う。
「ん、いい天気」
そんな中迎えた休日の今日、フィルはカフェのオープンテラスで、見るともなしに街を眺めている。
もうしばらくしたら現れる予定の待ち合わせの相手は、その親友の彼女となったメアリーだ。あの日から初めて、ということになる。というのも、結構気にしていたのに、ヘンリックがメアリーとイチャイチャイチャイチャ(以下略)するのに忙しいからと、彼女の身を空けてくれなかったのだ。
もっとも話だけはいつもいつもいつもいつも(以下略)、気の長い方のフィルが「……もう勘弁して……」と呻いてしまうくらいヘンリックから聞かされているから、メアリーとも久しぶりという気はしないけれど。
昇りきった初夏の日が、道行く人たちの頭上へと眩いばかりに光を注ぎ、街路の照葉樹の葉をきらきらと煌かせる。
「フィル、ごめんね、待たせちゃった?」
木漏れ日の落ちる通りを、メアリーが白いスカートの裾を軽やかにひるがえして、小走りに駆けてきた。名を呼ばれ、微笑みながら手を振る。
すぐ近くにやってきた彼女の顔をじっと見つめた。
「フィル?」
「綺麗になったね、メアリー。前からかわいかったけど、ますます」
花屋のリンが言っていた、『恋する女の子が綺麗になるってのはよく言う話だけど、手に入れた恋を大切にする女の子は、さらに綺麗になるの』という言葉を実感する。
「……だ、から、その顔で、いきなりそういうことを真剣に言わないでってば……嬉しいけど。本当、フィルって男だったら、絶対タラシだったと思う」
真っ赤になったメアリーに睨まれ、フィルは「また言われた」と笑う。
「でもフィルだって綺麗になったじゃない」
そんなふうにやり返されるとは思っていなくて、口にしていたお茶を吹き零してしまったけれど。
それからメアリーは、先日からのことを一通り話してくれた。
実はヘンリックから、それこそ気が遠くなるくらい聞いているけれど、女の子が幸せそうに、時々照れたように好きな人について話すのを聞くのは、また雰囲気が違っていて楽しい。
彼女が嬉しそうなのはもちろん、ヘンリックが彼女に大事に思われていることも伝わってきて、なんだかフィルまで嬉しくなってしまう。
そうして話を終えたメアリーは、注文したまま手をつけていなかったお茶でようやく喉を潤し、カップを皿の上に戻すとにっこりと笑った。
「フィル、それでね。今日は相談があって」
「……」
ふわふわした幸せいっぱいな空気とはまた種類の違う微笑み――なんだろう、嫌な予感がする。
フィルは知らず顔を引きつらせる。
「ええと、そのね」
相手の気配を読むことと、それに対処できるよう全身に気をめぐらすこと――それが剣士の心得だと教えてくれたのは祖父だったけれど、不幸なことに、危険を予知しても逃げられない場合も世の中にはあるわけで……。
自分へとじっと向けられている薄く緑がかった茶の瞳に、ありがたくない予感が強まった。
「ねえ、フィルはアレックスと……その、結構進んでる、んでしょ?」
「すすん、で……」
(って、それって……)
呆気に取られてメアリーを凝視すれば、彼女は彼女で徐々に頬を赤らめていく。
あ、赤くなるくらいなら言わなきゃいいんだ!と内心で呻きながら、フィルは同じように赤くなった顔を全力で彼女から背けた。
「フィル、お願い。困ってるのよ」
「……」
メアリーの上目使いのお願いから殊更に目を逸らし、フィルは貝になる。
「フィルー」
「……」
いくら友達とはいえ、いや、友達だからこそその辺の事情は知りたくないし、知られたくもない。
「フィル、ねえ、お願い、ちょっとだけ相談に乗って?」
「……うー」
頬を染め、両手を胸の前で合わせ、困ったように自分を見上げてくるメアリーは、そりゃあもうめちゃくちゃ可愛い。なんて破壊力だろう、戦斧も大剣もメイスも目じゃない。
「ねえ、フィルは女の子の味方でしょう?」
「味方、だけど……」
そう祖母にも言われたけど、さすがにこういう話題は想定外だ。
一瞬の逡巡の後、フィルは彼女の見た目に惑わされないよう、ぎゅっと目を瞑って、メアリーから体全体を背けた。
(婆さま、孫は言い付けを破ります、恥ずかしいんです……っ)
心の中で、祖母に謝罪する。
先ほどまでの賑やかな会話が嘘のように静まり返ったテーブルには、周囲から雑音が響いてくる。そこにメアリーの切なげな吐息が交ざった。諦めてくれたのかと思わず胸を撫で下ろす。
だが、その瞬間――。
「……そう」
そう低く呟いたのは、目の前の親友の彼女。
その声音に、自分が上手く渡れるほど世の中は簡単にできていない――その大原則をフィルは再び身に沁みて実感することになる。
「フィル、ちょっと小耳に挟んだんだけど」
とメアリーはにっこり。
「……う、ん?」
「おととしの冬だったかしら? 六人の盗賊をフィル一人で生け捕りにしたんですって? しかもものの数秒で」
「う」
不意打ちにフィルは呻き声を漏らした。
「素手で、武器を持った強盗殺人犯六人を相手に」
「ぐ」
「何でも色んな急所を知ってて、一瞬で人を失神させられるんですって?」
「うぐ」
「この間は素人八人……誰も失神してなかったわよね」
「ぐふ」
「なんでかしら」
「……」
ば、ばれちゃった……と冷や汗を流すフィルに向かって「ふふふふ」と笑うメアリーの顔は、可愛い声音に反してものすごく怖い。
「怖かったなあ」
「……け、結局、ヘンリックが助けに来たんだから、それでよしとしない?」
騙したことへの罪悪感と、それとは別の身の危険を感じつつ、フィルは儚く抵抗を試みる。
「怖かったなあ、本当に」
「……」
「だからね、フィル。お願い。ちょっとだけ。参考までに。何がどうなってどんななのか、ちょっと、ちょっとだけ知りたいの」
「……」
(なんか……り、理不尽じゃない……?)