14-7.対価
場にヘンリックとメアリーを一旦残し、フィルとアレックスは暴行犯八名を縄に繋いで、この地区の騎士団の詰め所へと連行した。もっとも縄は必要なかったように思う。彼らは完全に逃げ出す気力も力も失っていたから。
「じゃ、後はよろしくお願いします」
担当の騎士たちに経緯を説明し、後でヘンリックが被害者であるメアリーを連れてくると告げて、二人は詰め所を出る。
そして、通りの賑わいに紛れ込みながら、息を吐き出した。
「やりすぎって怒られるかと思ったら、そうでもありませんでしたね」
「騎士の目を掻い潜って、好き放題やっていた連中だからな」
捕まえた者たちは、徒党を組んでこの界隈で人に迷惑ばかりかけていたらしい。
実際、縄で繋がれた行列に気付いて最初ぎょっとしていた人々は、連行される者たちに目を留めた瞬間、納得顔や溜飲を下げたような顔をし、中には罵りを口にする者や石を投げようとする者もいた。
「でも、まあ、始末書は書かなきゃいけないかもしれませんよ?」
街の人々から向けられたそんな敵意に、だが、連中はやり返すどころか、顔を上げることすらなかった。骨が折れたり、歯が欠けたり、関節が外れていたり、鼻血まみれだったりで、ボッロボロだったせいだろう。
ちなみに、今回それをやったのはフィルじゃない。潔白も潔白だとポトマック副団長に胸を張って言える。なんせ手どころか口を挟む隙すらなかったのだから。
そう、ヘンリックとアレックス――彼らの様子に顔を引きつらせている間に、全部終わっていた。怒ったアレックスは言うまでもないが、ヘンリックだ、ヘンリックこそが怖かった。
「まあいいさ。フィルのおかげで書き慣れてきたし」
「……最近アレックス、意地悪ですよね」
フィルが漏らした呻きに、彼は声を殺して笑った。
爽やかさと熱気の両方を含んだ初夏の風が、カザレナの通りを流れてくる。
向こうから、小さな赤毛の男の子と同じく小さな黒髪の女の子が、手をつないで走ってきて、フィルたちとすれ違っていく。にこにこと笑って、嬉しそうにお互いを見つめて。
「……うまくいっているでしょうか?」
「さあな」
穏やかに微笑んだアレックスに、フィルは片眉を跳ね上げる。
「……」
その横顔をじっと見つめた。
彼の背後に見える空は晴れ渡り、所々に白い雲が薄く浮かんでいる。また風が吹いて、街路樹の梢が優しい歌を奏でた。
ザルアでアレクに出会ったのと同じような季節、同じような色の空、同じような空気――横にいる、同じなのに違う、違うのに同じその人が口にしていた言葉を反芻する。
『俺にも覚えのある感情だから、気付いてくれると嬉しいが』
(アレックスはあの日、彼もヘンリックと同じ感情を抱えていたと言った。なら、あの言葉は……)
「あの……」
人気のない静かな昼下がりの路地で意を決し、フィルは疑問を口にする。
「アレックスは……いつから知っていました?」
「……何を」
アレックスの返事には、何か含みがあるような気がした。
(何を言っているのか、知っている気がするんだけど……)
「っ」
視線を揺らし、最後にアレックスの顔を掠め見ると、彼と視線が絡んだ。その目に全身が熱くなってくる。速まっていく心臓の音が彼に聞こえてしまうんじゃないかと焦って、フィルは慌てて口を開いた。
「そ、その、私が……」
(声、上擦ってる)
そう気づくと、さらに恥ずかしくなった。優しいのに、こっちの心を見透かすそうとするような目で見つめ続けられて、呼吸まで苦しくなっていく。
「アレックスを……好き、と言うことを、です」
言ってしまってから羞恥に耐え切れず、目線を下に落とした。
誰もいない裏通りの地面に、自分と彼の影が短く落ちている。
彼は立ち止まり、そのまま動かない。口も開かない。自分の心臓の音だけが、鮮明に聞こえてくる。
「……かなり早くから」
「っ」
広がった沈黙の後、静かに響いた声に心臓をぎゅっと握られた。
直後に空気が動く。自分を包み込むように迫ってくる、彼の匂いに肌がざわりと粟立った。
「でも、誰かさんはひどく鈍いから、まったく自覚がなくて、しかも変なところで無防備だから……」
目の前で少し意地悪に笑う顔に息が止まる。
「誰かに掻っ攫われるんじゃないかと思って……気が気じゃなかった」
アレックスの手が伸びてきた。長い指が頬に触れたと感じた瞬間、びくりと体が震えた。低く笑って彼は逆の手を背へと回す。
「そ、んなことには……。だって私、は、」
あの頃からいつもアレックスを目で追っていて……と続けようとした唇は、頬から伸びてきた親指の動きに封じられた。
「可能性すら見逃したくなかった。奪われれば狂うとわかっていたから」
重い腕に緩やかに、丁寧に抱き寄せられる。全身に触れる彼の熱さに、頭の芯がしびれていく。
不意に拘束が緩まり、「親友のため、は理解するが」という低い囁き声に耳を撫でられた。腰から後頭部へとあがった彼の手に引かれ、頭がわずかに左へと傾ぐ。
「っ」
素肌のさらされた右の首筋に彼の顔が埋まって、息を詰めた。うなじにかかる息の感触に、甘い震えが湧きあがる。めまいがする。
「あんなふうに他の男に身体を触らせないでくれ……」
「アレック、ス……」
喘ぐように彼の名を呼べば、体に巻きつけられた腕に再びぐっと力が篭った。
「フィルは俺だけのものだ」
先ほど知らない男の息のかかった首筋に彼の唇が落ち、そこにかすかな痛みを覚える――その感触が火傷しそうなほど熱い。
* * *
「あ、ありがとう、ヘンリック」
先ほどまでガタガタ震えていたメアリーの肩には、ヘンリックの上着がかけられている。
頭は左手でしっかりと抱きこまれ、背には彼の逆の腕が回されていた。全身を彼に覆われ、当然、顔はヘンリックの胸に押し付けられている。
ずっと同じだと思っていた身長はいつの間にかすっかり抜かされ、今や仰ぎ見ないとその瞳が見えなくなっていることに気付く。
動転していた時は何ともなかったのに、抱きしめられている、と意識したとたん、心臓が壊れてしまったんじゃないかというような速さで動き始めた。
「メアリー」
低い声で呼ばれて、一瞬で林檎のようになった。男の人の声だ。
(ど、どうしよう、めちゃくちゃ格好良くなってる……)
心臓が痛い。呼吸が苦しい。かわいくて、いつも喜びと安心をくれた初恋のヘンリックは、一体どこに行ってしまったのだろう?
さっきだってそうだ。アレックスより大きいマシューから、あっさりメアリーを奪い返した。いつも穏やかで優しいヘンリックが、あんなふうに恐ろしい顔で怒るなんて想像したことすらなかった。
安堵とか怖さとか混乱でごちゃごちゃになって泣きそうになったら、ぎゅっと抱きしめて、落ち着かせてくれて……。
その後はフィルに預けられて、顔を引きつらせた彼女に「た、多分知らないほうが幸せだと思う……」と目と耳を塞がれたから見てないけど。
「……」
ちらりと目だけを上方へと向ければ、視界に入ったのは、さらけ出された喉と顎。
(く、首、こんなふうだった? 顎のラインだってこんなにはっきりしてきて、む、胸板だってこんなに硬くて厚いし……って、何考えてるの、私)
「あ」
指先まで染め上げて全身を硬直させれば、動揺を察したのか、ヘンリックが離れていった。
「ヘンリック……?」
上着までもらっているのに、もう夏はそこまできていて寒いはずなんてないのに、とても凍えた。心細くてまた泣きそうになってしまう。
視界が滲んだ瞬間、ヘンリックの茶の瞳がこちらを覗き込んできた。
「メアリー」
ほっとしたのもつかの間――真剣な、熱に浮かされたような視線と声に、体がびくりと震える。
「嫌だって言っても、もうやめられないから……」
大きくなった手に両頬を包み込まれて、上を向かされた。強い視線に射すくめられる。
「ヘンリッ」
名を呼び終える前に、その人の顔が近づいてきて……唇に温かい感触がゆっくりと重なった。
「メアリー、好きだよ……」
そんな言葉と共に、存在を確かめるかのように、唇が何度も触れては離れていく。
「何度目かわからないけど、まだ言い足りない……好きだ」
壊れ物に触れるかのような優しい感触も幸せだったけれど、何よりその言葉だった。彼と彼にまつわる色々からずっと逃げ回ってきた自分にまだこんな言葉をくれる――ぽろぽろと涙が零れる。
「メ、メアリーっ?」
さっきの落ち着きや強引さが嘘のように動揺したヘンリックの表情を見て、メアリーはさらに涙を落とす。
もう、『かわいいヘンリック坊ちゃん』じゃない。でもやっぱりヘンリックはヘンリックで、昔と変わらずにメアリーの泣き顔に困ってくれる。そして……、
(ずっと、ずっと私の好きな人――)
おろおろしているヘンリックの顔に泣き笑いを零し、メアリーは随分差が開いてしまった彼の首筋へと両腕を伸ばす。背伸びをして、ぎゅっと抱きついた。
「大好き」
そう囁いて、今度は自分からキスをした。
「ずっと言えなかったけど、ずっと好き」
目を見開いたヘンリックは、一瞬だけ泣きそうな顔をした。それから、優しく、でもすごく大人っぽく微笑み返してくれる。
「知ってたよ、ずっと」
背中に回された腕にぐっと力が篭って、全身に痺れるような感覚が広がった。
寒い夜なのでちょっとおまけ
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