14-6.罠
自ら距離を縮めたフィルに、男は怯んだように後退った。
次の瞬間、右横からにじり寄ってきていた別の男に腕をつかまれる。短く息を吐き出しながら、その手へと腕を絡めて握り返すと、相手の歩みに合わせてそれを引く。そして男が体勢を崩した瞬間、関節を決めて、地面へと沈め落とした。
乾いた砂埃が周囲に薄く舞い、男の呻き声が裏通りに響く。
「……てめえ」
「それでも騎士ってことかよ……」
周囲の男たちから下卑た笑いが消え、代わって凶悪な色が目に宿った。
正面から手を伸ばしてきた男の鳩尾を蹴り上げる。仰け反った相手の胸元に一気に踏み入ると、その勢いのまま、胃液を吐き出そうとした口へと掌底を突き出した。
鈍い打撃音とともに相手の男は、後方へとよろめき、背後の朽ちた壁に背中から倒れこむ。
「フィル、後ろっ」
メアリーの悲鳴のような警告の直後、斜め後ろから右ふともも下部に衝撃を受けて、フィルは前へとつんのめった。転倒を避けようと咄嗟に左足を前に出すも、支えきれずに腕を地につく。
(ちっ、やりにくい……っ)
捨て身で足に突っ込まれたのだと気付いて、フィルは顔を歪めた。玄人であれば、こういう無茶なやり方を決して取らない。
「フィルっ」
メアリーの泣きそうな叫び声が耳に届いた。
三人が自分へと殺到してくる。フィルは半身を起こすと、胸前で円を描くように腕を回す。そのまま身を大きく捻りながら、肘を後方の男の顔面へと打ち付け、足の拘束を解いた。
(前方から一人、後方に二人、メアリーの位置は……)
咄嗟に前方へと逃れることを決め、軸足に力を込めた。踏みしめられた小石が足元でじゃりっと音を立てる。
正面から迫ってくるのは、優位を確信したらしい男。押さえ込もうとしているのだろう、両腕を伸ばしてくる。
フィルは身を起こしながら、右斜め前方へと踏み出した。間合いに入った瞬間に、右腕を相手の左腕外側へと絡めて方向を変え、空いた左脇へと回し蹴りを食らわせる。
「っ、メアリーっ」
そのまま足を振りぬいて体の向きを変えると、メアリーを捕らえようとするマシューへと走り寄った。全体重を込めて、男の鳩尾を蹴り飛ばす。
そして、フィルは再びメアリーを自分の背後に隠し、廃屋の崩れかけた壁へと二歩ほど後退した。
素人の厄介さは、なんといっても予測のつかない動きをすることだ。しかもメアリーを庇っていることもあれば、元々性差による力と体格の差もある。
上がりつつある息を、男たちに悟られて調子づかせないよう、そしてメアリーを怯えさせないよう、フィルは静かに整える。だが、内心で焦りは加速していっていた。
(これほどの人数だとさすがに厳しい、か……)
舌打ちしたい気分になる。
無傷の者は三人。だが先ほどやりあった男たちも、動けなくなるほどの手傷は負わなかったようだ。呻き声や呪詛を漏らしながらもそれぞれがよろよろと立ち上がる光景に、フィルは隠しきれずに眉を寄せた。
(はっきりと暴行の意思を示したわけだし……)
フィルは腰に挿した剣の感触に意識を馳せた後、眉をしかめた。
白昼の街中で、相手は丸腰の素人。こっちは非番とはいえ騎士だ。個人的には、世間を歩けなくなるような目に遭わせてやりたいところだが、騎士としてはやりすぎはまずい。
(それより何より……)
「調子にのんなよ、このアマっ」
迷う間に横から迫ってきた相手。その下腹部へと、足刀を蹴り込む。
直後に、馬鹿の一つ覚えのように正面からやってきた相手の懐へと踏み入り、片足が地を離れた瞬間に相手の後頭部へと手を回しこみ、自分の脇へと転がした。
「……っ」
左脇の裏路地から、新たにこちらに近づいてくる足音が二つ――この上加勢が来たら堪ったものじゃない、とフィルは祈るような気持ちで、音の方向を見た。
その瞬間、メアリーの鋭い悲鳴が上がる。
(っ、離れすぎた……っ)
振り返ったフィルの視界の中に、例の大男に抱えあげられたメアリーの姿が入った。
「っ」
同じ隙に、フィルは後ろから羽交い絞めにされ、つま先を残して宙へと抱え上げられる。失態を重ねた自身を唾棄した瞬間、背後に密着した男の息が首筋にかかった。
(気持ち悪……っ)
全身にぞわりと怖気が走り、生理的に四肢が硬直しようとする。
「い、やあぁっ、ヘンリックっ!」
そこに響いたのはメアリーの絶叫――悲痛なその音と親友の名に、フィルはなんとか自分の悪寒を飲み込んだ。
(この際、後のことなんて構っていられるか……っ)
好きでもない相手に触れられる嫌悪も屈辱も嫌というほどわかった。追い詰められて、好きな相手の名を呼んでしまう心境も。
絶対に見逃すわけには行かない――そう性根を据えて、男の拘束の中で身を捩った瞬間。
「……あ」
茶色い見慣れた髪が視界の端を横切った。
ヘンリックだ、とフィルは顔を輝かせる。
「汚ねえ手でさわるんじゃねえ……っ」
「……え゛」
が、それも一瞬、骨の折れる鈍い音といつになく乱暴な言葉に、打って変わって顔を引きつらせる。
「……う゛」
(あれは少なくともヒビが入ったような……そ、それ、靭帯、ああ、歯……)
「どれほどのことをしたか、思い知らせてやる」
顔から口から血を流し、地に伏したマシューを見下ろして、ゾクリとするような低い声を発しているのは、ヘンリック、あのヘンリックだ……。
(お、同じことを私がした時はいつも呆れているくせに……)
フィルは男に羽交い絞めにされたまま、盛大に顔を引きつらせる。
「――同感だ」
「お?」
そこにきて、不意に自分の身も自由になった。
背後を振り返れば、崩れ落ちていく男の姿。その向こうに、ヘンリックよりもっと見慣れている黒い髪と青い瞳を見つけて、フィルは息を吐き出した。
「遅いです」
文句を言いつつも、内緒の話、アレックスを見てすごくほっとした。
「危機感も必要かと思ったんだが」
「う゛」
だが、これまたそれも一瞬――再び頬を痙攣させるフィルの目の前で、アレックスは蒼褪める男たちへと冷たい目を向けた。
「調子に乗りすぎたな」
そして、彼は底冷えのする声で、静かにそう呟いた。