14-3.さらなる謎
(……あれ?)
翌朝、フィルが騎士団宿舎の自室に帰った時、室内には既に茶の香りが漂っていた。
「おかえり、フィル」
「……ただいま、アレックス」
まだちょっと眠そうな顔をしたアレックスが、入り口すぐの小さな台所から顔を見せた。彼の手元に茶の用意を見つけ、なんだか嬉しくなって微笑む。
「フィルのようにはいかないが」
視線を追ったのかもしれない、同じように笑ったアレックスが、お湯をポットに注ぐのを見つめる。なんだかものすごい贅沢をさせてもらっている気分になって、フィルはさらに顔を綻ばせた。
初夏の朝日が、部屋のすぐ外にある木の葉に降り注いでいる。緑の照り返しと明るい木漏れ日が混ざり、窓際においたテーブルにキラキラと光が踊る。
フィルは道すがら買ってきたサンドイッチをそこに置き、同様にお茶を置いたアレックスの横顔をそっと盗み見た。
光を受ける彼の瞳は、深い青く透き通っている。昔ザルアで何度も見て、その度にうっとりしていたのとまったく同じ色だ。それなのに、横から見たことで、顎の鋭利な線や筋張った首の陰影が余計はっきり見えて、本当に男の人になったんだなあと実感してしまう。
切れ長の目に収まるその瞳がフィルを向いた。目の端と引き締まった口角が微かな笑いを湛えて、心臓がドクリと跳ね上がった。
「え……わっ」
手を取られて、ぐいっと抱き寄せられる。
硬直したまま、腰を引き寄せられて腕の中に閉じ込められ、「あらためて……おはよう、フィル」という低い囁き声と共にキスが始まった。
唇と頬、目じりと額、目蓋と鼻先――繰り返されるうちに体の力が抜けてくる。くすぐったくて挨拶を返しながら小さく笑うと、それをふさぐかのようにもう一度唇が重なった。
戯れるかのように啄ばみを繰り返していたキスが、少しずつ長くなっていく。
「フィル……」
熱に浮かされたような声が、直接耳朶を打った。鳥肌が立つ。
「ア、レク、……っ」
口内を舌で優しく探られて、ぼうっとした所で、一瞬唇に走った痛みに呻き声を上げると、覆い被さるようにしていた彼がすっと離れた。
整った眉をひそめて、昨日ヘンリックにやられた場所に、親指でそっと触れる。羽で撫でられるかのような唇の感触に、ドキドキが余計激しくなった。
彼はきっとフィルの内心に気付いているのだろう、密着している先の厚い胸板が音にはならない笑いに振動して、さらに顔に血が上った。
「っ」
一時離れていた熱い唇が首に落ちた。反射でのけぞれば、ぐっと腰を抱き支えられた。下から上へと線を描くようにさらした喉を舐め上げられ、生じた甘い痺れに体を震わせる。
「っ、ちょ、ちょっと……っ」
が、片手で器用にボタンが外されていくことに気づいて、一気に正気を取り戻した。
慌てて両手を突っぱね、はだけた胸元に注がれた視線をさえぎるべく、上着の前をかき合わせた。
「あ、朝から何を考えて……」
睨んだのに――そりゃあ、真っ赤になってたら怖くないかもしれないけど――アレックスは肩をすくめただけ。まったく懲りていなさそうなのが悔しい。
「少し確認しただけだ」
「……な、なにを?」
意味深な笑い顔に心臓が一際強く収縮する。
「っ」
再び顔を寄せてきたアレックスと額が触れ合った。こっちの心臓は悲鳴を上げ続けているというのに、彼は真顔で囁く。
「続きは今夜。昨日放っておかれたんだから、覚悟しておいて」
とんでもなく危険な魔物と一緒の部屋にいる気がして、フィルはアレックスとの間に椅子やら本やらを積み上げ、茶とサンドイッチの朝食を食べながら、昨夜のことを彼に話した。
彼がこっちを見て面白くなさそうな顔をしているのは、もちろん気付かないふりでやり過ごした。身と朝の爽やかさを守るために必須なのだ。朝からあんな妖しい空気を作る方が悪い。
そのうちに時間になったので、着替えを済ませ、朝礼の行われる鍛錬場へと一緒に向かった。
「それで、結局その家具屋の息子に会うことにしたのか」
「はい、次の休みに。こういう形でヘンリックたちに話をしたくないというメアリーの気持ちもわかるので」
好きな人だというのはちゃんと訂正するとして、友人として、これ以上彼女に付きまとわないで欲しいと告げることぐらいは許されるのではないかと思う。……言うぐらいですめばいいけど。
「あ……」
朝の鮮烈な光が差し込む石床の廊下、その先からこちらへと歩いてくるヘンリックを見つけた。
声をかけた方がいい気がして口を開いたところで睨まれ、フィルは唇を引き結ぶ。
普段下がり気味の目に、そのままきつい視線を送られて、つられて睨み返した。
同じようにヘンリックの様子を見ていたアレックスが、静かに問いかけてきた。
「フィルはヘンリックがああなっている理由をわかっているか?」
「なぜって、やきもちでは?」
それだけメアリーが好きなのはわかるけれど、だからって今の態度はないと思う。
角を曲がっていったヘンリックをむっとしながら見送れば、かすかな呆れを含んだ溜め息が降った。
「アレックス?」
怪訝に思って彼を見上げる。
「フィルが女性なことも、俺を好きなことも知っているのに?」
(……好きって……そうだけど……)
当の本人に指摘されて思わず赤くなると、「外でそんな顔をしないでくれ」とアレックスは苦笑し、さらに続けた。
「これまで、いくらメアリーがフィルにだけ差し入れをしても怒らなかったのに?」
「……」
(……あ、れ、そういえば確かに、ちょっと文句を言って拗ねるぐらいで……)
「会うたびに彼女はフィルに『大好き』とか言いながら抱きつくのに?」
(……あれ? やきもち、じゃない……?)
フィルは目を瞬かせた後、眉根を強く寄せた。
「アレックスはわかっているんですか?」
「彼がフィルに勝負と言ってきたところにヒントがあると思うが」
「む」
いたずらっぽく笑う彼に顔に、唇の両端を下げた。これは、アレックスは知っているけれど、私は私で考えてみるように、という時の顔だ。
「俺にも覚えのある感情だから、気付いてくれると嬉しいが」
流し見ながら微笑まれて、フィルはまた赤くなった。
そうして、先へと歩いていくアレックスの背に、フィルは謎がさらに増えたことを悟って、呻き声を上げた。
* * *
期生別の経済学の講義。
入団以来初めてヘンリックと遠く離れて座ったフィルの下へと、「喧嘩したってのは本当だったんだな」と言いながらカイトがやってきた。
「あんなに仲が良かったのに。アレックスの奪い合いって本当かよ?」
冗談交じりにエドが訊ねてくるのを、フィルは目線だけで黙らせる。
向こうではあの愛想のいいヘンリックが、ニコリともしないでひたすら本に目を落としていた。横に座ったロデルセンが、そのヘンリックに怪訝そうな、心配そうな視線を送っている。
ロデルセンにもあの態度か、とフィルは溜め息をついた。
(変だってことだけはわかるんだけどなあ。いつもメアリーは『フィル、好き』とか言う、物もくれる、なのに、なぜ今回に限ってヘンリックは……)
――さっぱりわからない。
(違いは、家具職人の息子、か……)
フィルは眉間に寄せた皺を深くする。
「……カイト、エド、自分の好きな子が他の男に好きって言われたらどうする?」
「アレックスがヘンリックに好きって言われたのか?」
「エド、そのネタ引っぱるな」
フィルの不穏な空気を咄嗟に読んだらしいカイトが、「メアリーがってことだろ」と呆れ混じりに彼を止めた。彼らは彼らでいい組み合わせだと思う。
「じゃあ、フィル、おまえがメアリーに言い寄って…………いでっ、も、もう言わねえ」
「おまえ、いい加減学習しろよ……」
カイトはフィルにすねを蹴られたエドを半眼で眺めた後、ヘンリックへと顔を向けた。そして、「好きな女が他の男に、ね……」と繰り返し、しばし沈黙した。
「そりゃあ、その子に近寄んなって実力行使、といきたい所だけど……問題はその権利をその子が認めてくれるか、だよな」
彼は続いて「そんなの珍しくもないけどな……」とぼそりと呟き、それにエドがいつもとは違う、困ったような笑いを顔に浮かべた。
そこに講師が入ってきて講義が始まった。
(実力行使……マシューって男がメアリーに求婚していると知ったヘンリックは……そりゃあ、止めたかっただろう。権利、近寄らせない権利、止める権利……友達の私にあるくらいなんだから、まだ恋人じゃないって言ったって、幼馴染のヘンリックにもありそうなものなのに)
講義を聞くともなしに聞いてペンを動かしつつ、フィルの頭は別のことに囚われ続ける。
(なんでヘンリックは怒った? いや、それよりもヘンリックは誰に怒った? メアリーにちょっかいをかけたマシュー? メアリーが好きだと言ったフィル? それともメアリー?)
『だってさー…………情けない話なんだよ』
(情けない? ヘンリック自身が? ……なんで?)
「……わからない」
フィルはペンを動かす手を止めて、長々と息を吐き出した。
一心不乱に講義に聞き入っているように見えるヘンリックを斜め後ろから見つめた。
(そういえば……友達との殴り合いの喧嘩って、生まれて初めてだったかも)
アレクはあの頃からフィルよりずっと大人っぽくて、当然そんな感じじゃなかったし、ティムとは口喧嘩はしょっちゅうだったけど、なんでかそこまでになったことはなかった。ザルアの町の子達とはそもそもそんなふうに打ち解けていなかった。
そこまで考えて、フィルは瞬きを繰り返した。
(そうか、打ち解けているのか、私はヘンリックに……)
視線の先の彼の横顔は、相変わらず柔らかい印象だ。
あの顔がにっこり笑うのに安心させてもらったことはこれまで何度あっただろう? 文句を言ったって、呆れたって、彼はフィルが困った時にはいつも助けてくれた。心配だってしてくれる。厳しいことも言うけれど、それだって本当にフィルを思ってのことだというのもわかる。
(……力になりたい、な)
いつも彼が私を気にかけてくれるみたいに。励ましてくれるみたいに――。
こういう時、アレックスやヘンリックのようにうまく人の気持ちを推し量れたらいいのに、と思う。
無い物ねだりはよくないと知っているけれど、そうしたら、ヘンリックはあんなにつらそうじゃなくなるかもしれないのに……。
講義が終わって、フィルは晴れない気分のまま、一人とぼとぼと食堂へと向かう。
「……あ」
伏せた視界に人の足が入って顔をあげると、数歩先に気まずそうな顔をしたヘンリックの姿があった。