14-2.原因と謎
「その唇、どうしたの? すごく痛そう」
「……訓練中にちょっと」
救護室の診察台の上で、俯いてしまった君の幼馴染に驚いて顔をのぞき込んだら、頭突きを食らわされ、その拍子に切りました――そう言ってしまえたら、どんなに楽だろう。
待ち合わせの場所で、「珍しいわね」と目を丸くするメアリーに、フィルは茶を濁す。
(ヘンリックめ、心配したのに……)
今頃フィルに殴られた胃を抱えて苦しんでいるだろう親友の顔を思い浮かべて、フィルは眉をひそめた。
顔に衝撃を感じた時には既に体が動いていたのだが、それについて謝る気はない。きっと彼は夕食を食べられないだろうけれど、自業自得だ。
ずきずきと痛む唇に、内心で『ざまあみろ』などと思いながら、おしゃれな内装で人気の海鮮料理店にメアリーをエスコートして入る。
人のいる場所で視線を受けるのにはもう慣れた。
苦々しいものを見るような目も相変わらず混じっているけれど、剣技大会での隣国の将軍との一件は総じていい方向に働いたらしい。
「よう、フィル、あのドムスクスの奴ら、黙らせてくれてありがとうな。祭りの間中、あいつらひどくてさー」
「惚れ惚れしたよ、あんたすごいねえ。最終日のあいつら見たかい? こそこそしてて笑っちまったよ」
今もそうだ。案内されて店内を移動する間に、あちこちから声をかけられるけれど、ほとんどの人は好意的だ。正直、かなりほっとしている。
白木のテーブルと鮮やかな色の椅子が備えられた窓際の席に腰を下ろす。案内の給仕が気を使ってくれたのだろう、周囲の席から視線が遮られる作りの場所で、フィルは「感じのいい給仕がいるところってのはいい店なんだよ」というリアニ亭の女将の言葉をふと思い出した。
メアリーはメニューを選ぶ間も、料理が来るのを待つ間も、いつものようにずっとおしゃべりしていた。
運ばれてきた、湯気の立つ料理に小さな歓声をあげる姿も、美味しいものを頬張って笑顔になるのも、料理を取り分けると照れたように笑うのも相変わらず。
だけど、やはりどこか様子が違う気がした。
食事が終わりに向かうにつれて口数が減っていく――いつもは逆だ。デザートのケーキを前に、手もつけず黙りこむ彼女が異常でなくてなんだと言うのだろう。
見守るフィルの目の前で、メアリーはついに手にしていたフォークを置き、意を決したように口を開いた。
「あの、ね、その……ヘンリック……ど、どうしてる?」
あ、あの、変な意味じゃなくて、と小声で付け足し、彼女は俯いた。
おかしいよ、思いっきり――と答えようとしたものの、先ほどヘンリックが見せた苦しげな顔が思い浮かんできた。思い直し、言葉を慎重に選ぶ。
(だって、それでも親友だし……いきなり頭突きされたし、お返しに手加減なく殴ってやったけど)
「少し変だったかな」
良いことにせよ悪いことにせよ、メアリーのことで話をしないヘンリックというのはこれまで見たことがない。
かと言って、基本的に穏やかで要領のいいヘンリックが、メアリーのこと以外であんなふうに感じ悪くなることもない気がする。
自嘲と嫌悪を帯びた彼の顔を思い出したら、また心配になってきた。口を曲げた瞬間、痛みがツキリと唇に走る。
「……そう」
「何かあったの」
「…………うん」
確信を持って口にした問いに、メアリーはしょんぼりした顔で小さく頷き、ケーキ皿を脇に押しやると、両手で顔を覆った。
* * *
天窓から柔らかい星の光が見える。
もうすぐ日が変わろうという時刻になって、王都の商業区域はやっと眠りについたようだ。通りに静けさが広がっていく。
メアリーの部屋はそんな街の一角、小さな仕立て屋さんの屋根裏部屋だ。柔らかい色調のカーテンとそれと同系色のキルトが部屋を彩り、さまざまな小物が工夫を凝らして置いてある。それがとてもかわいく思えて、ここに初めて入った時は、殺風景な自分とアレックスの部屋とつい比べてしまったものだ。
そこの床に並べたクッションに座り、メアリーから一通りの話を聞き終えたフィルは、しばし絶句した。
「なん、で、そんなことを……」
ようやく絞り出した声は、質問と言うよりもはや呻きだった。
「だって、だって、だって、しつこかったし、それに……ヘンリックのことなんて持ち出せないんだもの……」
涙声になったメアリーの気持ちがまったくわからないわけでもなくて、フィルは彼女の小さな頭を仕方なしに撫でた。
メアリーのヘンリックに対する想いに、フィルが気付いたのはちょうど一年くらい前だ。奇しくもメアリーに、フィルのアレックスへの想いを指摘された日のことだった。
それまではヘンリックの一方通行かと思っていたから、気付いて少し驚いた。
だって、ヘンリックの気持ちはこちらが恥ずかしくなるくらい明らか。彼はアレックスを公害と言う(事実だとフィルも時々思う……)けれど、アレックスだって彼にだけは言われたくないんじゃないかというレベルだ。
だからそれに平然としているメアリーが、実は同じ意味でヘンリックを好きだなんて意外にしか思えなかった。
けれど、しばらくメアリーを見ていて悟った。メアリーは敢えてヘンリックに自分の気持ちを気付かれないようにふるまっているんだ、と。
その証拠にヘンリックが彼女を見ていない時、彼女の目はいつもヘンリックを追っている。彼と話をしている時の表情の動きは、他の誰と話すよりはるかに忙しない。
そして昨年の夏、メアリーがフィルの性別を知ってからは色々と話すようになり、その理由も知った。
ノックの音が響いて、メアリーによく似た面差しの、少しふっくらした優しげな印象の女性がドアから顔をのぞかせた。
「どうせ夜更かしするのでしょう? お茶とおやつを持ってきたわ」
働く者の節くれ立った手が動いて、寝巻きに着替えたフィルとメアリーの前に湯気の立つカップと焼き菓子を並べていく。
最後にそれらを運んできたトレーを脇に抱え、彼女はメアリーの額にキスを落とすと、「あまりフィルを困らせてはだめよ」と微笑んで、静かに出て行った。
「もう、子ども扱いして!」
二人のやり取りに微笑み、フィルはカップを手に取る。
旦那さんを亡くしてから、一人で店を切り盛りし、メアリーと二つ年下の弟を育てた、とても温かい人だ。メアリーが大事に大事にしたい人……。
「それで、どうするの?」
一息入れたところで、本題に戻る。
「……どうしよう、フィルぅ」
抱きつかれて、眉尻を下げつつ、フィルはメアリーの頭をまたも撫でる。
今のヘンリックに見られたら、殺される気がする。同性だとか、フィルにはアレックスがいるという言い訳(もしフィルにそう人前で言い切る胆力があったとして、の話だが)も聞いてくれないに違いない。
そのメアリーの話を要約すると、こんなところだ。
メアリーに付き合えとせまってくる男――隣町の家具屋の息子――が現れたらしい。
断っても断っても諦めてくれず、思い余って好きな人がいるから、と言ったら、彼はそいつに会わせろ、と言い出したそうだ。
さらには、そいつと勝負して勝ったら結婚しろなどと無茶を言い出したらしく……。
そう言われてメアリーの頭に最初に思い浮かんだのは、もちろんヘンリックだったという。というか、最初からヘンリックのことを考えて断っていたのだろう。
でも、メアリーはヘンリックに自分の想いを告げることを躊躇している。
ヘンリックの実家はカザック有数の豪商だという。対するメアリーの実家は小さな仕立て屋さん。王都で家業の一角を担っている伯父のもとに遊びに来ていた豪商の末っ子と、その些細な一取引相手に過ぎない仕立て屋の娘。
ヘンリックは末っ子の特権を活かして今のところ好き勝手にやっているけれど、彼の親兄弟は行く行くはヘンリックにも事業の一部を担わせるつもりらしく、そのための準備を欠かしていないとも聞く。
実際、ヘンリックと話をしていると、会話の端々から中々厳しい世界のようだというのが見えてくる。例えば、彼の親族では商売の都合で組まれる結婚というのが珍しくないらしく、ヘンリックにも既にそんな話がきているという。本人はもちろん、「死んでも嫌だ」と漏らしていたが。
「メアリーは優しいね」
メアリーがヘンリックとの関係を進められないでいる理由は二つ。
一つは、そんな家の出であるヘンリックの迷惑になるかもしれないと恐れた。
と言っても、これは杞憂だとフィルは断言できる。メアリー以外で、ヘンリックを知る人も皆口をそろえるだろう。特に彼の相方のフォトンさんなどは、きっと脱力しながら「絶対無い……」と言ってくれるはずだ。
そして、二つ目が先ほどのお母さんだ。メアリーは自分が釣り合いの取れない相手を選ぶことで、間違いなく生じるだろう様々な苦労に彼女を巻き込んでしまうことを恐れている。
メアリーは、それでも自分がヘンリックを諦められない以上、いずれ彼女に自分の気持ちを話さなくてはいけないということもわかっているらしい。同時に、何が自身に起ころうと彼女がメアリーの選択を応援してくれるだろうことも。そんな人だから、余計に決心がつかないの、と以前苦しそうに話していた。
「ちょっとだけ、もう少しだけ時間が欲しかっただけなのに」
「……うん」
自分より随分低い位置にあるメアリーの頭をなだめるようにとんとんと叩く。湯を浴びたせいだろう、柔らかい髪はまだ湿り気を帯びている。
「ぜんっぶ、あのマシューのせい……っ。ちょっと家が金持ちで、腕っ節が強いからって、威張りくさって何さまのつもりよっ。大体、私は優しい、細身で中性的な人が好きなのっ、あんな性格悪いゴリマッチョ、絶っ対に願い下げっ!」
……この辺はメアリーらしい。
「それで、そのマシューとやらに、私の好きな人はフィル・ディランと言った、と」
「だって、だって、仕方なかったのよ、ヘンリックにも母さんにも話す前に、こんな形で知られるのは嫌だったんだもん。伝える時は自分の口からちゃんと伝えたいのよーっ」
「それはそうだろうけど……そもそも私、女だって既に結構知られてしまっているんだけど」
「だから、いいかなって」
そこでさらっと頷くあたりもメアリーだ。ヘンリックもそうだけど、半泣きになっていても弱っていても、ちゃっかりすべきところはきっちりちゃっかりしている。見習いたい。
「だって弊害がなくて、間違いなくマシューに勝てる人がフィルだったんだもの。アレックスの名前なんか出したら、いくらヘンリックでも洒落にならないでしょーっ」
「まあ、そうかな……」
「なのに、ヘンリック、なんであんなに怒るのよーっ、何が悪かったって言うのーっ」
目の前で叫ばれて、フィルは心持ちのけぞる。
「どうしよう、もう嫌われたのかしら、いつまでもウダウダやってたから、いい加減面倒になったのかも」
「それはない」
本格的に泣き始めたメアリーに断言して、フィルは溜め息をついた。
それにしてもヘンリックに同性だと知られていて本当に良かった。でなきゃ、今が比較にならないほど洒落にならない事態になっていたかもしれない。
「ヘンリックのばかーっ、フィルにぐらい相談しといてよーっ、訳わかんないじゃないーっ」
「……ねえ」
(やきもちってやつ、なのかなあ……?)
それならメアリー本人に言わないのもわかるし、あの態度も自然な気がしなくもない。
泣きながら叫ぶ、ある意味器用なメアリーを前に、親友の謎な行動を思って、フィルは逃避気味に天を仰ぐ。
再び視界に入った天窓の外では、皮肉なまでに曇りのない空が、きらめく星を抱いている。