1.御使い
はあ? フィル? ああ、まあそうだけど、なんだってまた?
ふーん、そういうことかい。だからって役に立つとも思えないけどねえ。
んー、まあいいよ。今の時間帯は結構暇だからねえ。暇つぶしがてらでいいんなら付き合ってやるよ。
* * *
十五年位前に湖西地方に嫁いでいった妹の亭主が亡くなったって知らせが来たからさ、この宿を人に預けて訪ねたんだよ。たった一人の妹だし、あたしも亭主、亡くしてるだろ? なんだか放って置けなくてねえ。
それで一月位経った頃だったかね、ようやく妹も大丈夫かなってなってね。そうなると人って現金だね、今度は人に任せっぱなしにしてきた商売が気になっちまって、早くカザレナに帰らなきゃって、無理して馬車を走らせてたんだよ。
だけど、町まであとちょっとって森のど真ん中で暗くなっちまってさあ。ああ、あんたも知ってんだね。山賊がいるってのは聞いてたんだけど、まさか親子三人しかいない馬車を狙うなんて思ってなかったから油断してたんだね。暗い森ん中で十人近くの男に囲まれた時は真っ青になったよ。
それで、『自分は自業自得だから構わない、でも娘と息子だけは逃がしてやりたい』って死んだ亭主と森の神さまに必死に祈ったのさ。
だからあの子を最初に見た時は、森に住んでるっていう精霊がね、助けに来てくれたんだと思ったよ。
そりゃあ、目を疑いたくなるくらい綺麗な子だった。山賊たちの持ってる松明の炎に髪がキラキラ光ってね、森の色そのまんまの緑の、猫みたいな目ん玉が暗い中でも輝いてて、長い手足を舞うみたいに動かして細い剣を扱って。
泣いてた娘も息子もいつの間にか泣き止んでてねえ、怖さも何もかも忘れて見惚れてる内に、ぜーんぶ片付いてたよ。全部終わって月明かりの下で佇んでたあの子の姿なんて、本当、この世の光景には見えなかった。
そう、それであの子がこっちを見て、にっこり笑って「大丈夫ですか?」と声を掛けてきて初めて、現実のことだ、助かったんだって。ほんと暢気だよねえ、決死の思いで子供たちを庇おうなんてしてたこと、コロッと忘れちまってたんだから。
その子は近くで見れば見るほど、綺麗な子だったよ。しかも気を使ってくれたんだろうねえ、返り血のついたマントを惜しげもなく捨ててくれて、娘たちが怯えないようにしてくれたんだ。
でも随分幼く見えてね、あたしゃその子が十人もの大の男、しかも札付きの盗賊さね、そいつらをさっくり追っ払っちまったことをすっかり忘れて思わず訊ねたのさ、「あんたいくつだい? 親が心配してるよ」って。
そしたら、あの子、困ったように笑って、「十六です。心配するような人はいません」って。その顔で一層幼く見えてねえ。ああ、放っておけないなあって、思っちまったのさ。あはははは、本当、放っておけないのはあたしらの方だったのにねえ、あの子からしたら。
そんであの子の好意に甘えて町まで一緒に行ってもらって、遠慮するあの子を無理やり引き止めて。ああ、あの子、小さな子に弱いんだよ。で、娘に「怖いから一緒にいてってお言い」ってやらせたらばっちりだった。また困った顔してたけど、根負けしたらしくてね、大人しく一緒に宿に泊まったよ。
それでまた気に入っちまって。だって女子供に弱い少年なんて、いくら腕っ節が強くったって怖くないだろう? あんまり綺麗だから、ひょっとしたら人を惑わす悪魔かもしれないって思ってたけど、あの人の良さ! それもまあないだろうし、ってね。
フィルって名乗ったあの子は、騎士団の試験を受けるためにザルアから王都に行くところだって話してくれたよ。
話すのは得意じゃなかったけどねえ、その頃から聞かれる質問に律儀に答える子だった。たとえそれが子供のどうでもいいような、面倒くさい質問でもね。あたしなんか『うるっさい、あっちにお行き』って追っ払っちまうようなやつさ。
最初怖がってた娘も息子もそれであっという間に馴染んじまった。その晩床につく頃には、自分がフィルの横に寝るって言って聞かなくてねえ、喧嘩までしてたよ。
あははは、結局フィルがうちの宿出て行くまで、あの子らそれで毎晩喧嘩してたけどね。寝る前に色んな話をしてくれるんだって。あたしも忙しくてあんまり構ってやってなかったしねえ。あの子ら今でもフィルにベッタベタだよ。
品のいい子だったよ。あの子にも旅の連れがないってんで、一緒に王都まで旅することにして、最初に思ったのはそれかねえ。
外見じゃなくってねえ。うーん、礼儀なんかもそうなんだけど、なんていうかさあ、中身がね、透き通ってる感じがするんだ。まっすぐで優しくて、あったかくて、そりゃあ人のいい。愛されて育ったんだなってすぐわかる感じで。
それが驚くような世間知らずでねえ。いや、知ってることはよく知ってるんだけど、偏ってるんだよ。
野宿の時にさ、山鳩を捕まえて、その辺の見たこともないような実とか草とか集めて美味しいシチューを作ってくれるんだ。あとは色んな薬草知ってて、息子の虫刺されなんかも手当てしてくれたりとかね。なのに、町で子供が遊んでいたシャボン玉見て、あれはなんだってまじめな顔して娘に聞いてたりとか。
娼婦にからかわれて真っ赤になる割には、旅の途中で出会った妊婦が産気づいちまった時は驚くくらい冷静でね。二人で赤ん坊を取り上げたんだよ、出血に亭主が失神してる横で。
誰かに嫌味言われても気がつかないし、あまつさえにっこり笑って相手の邪気を抜いちまう。
王都に着く頃には、もう完全に母親みたいな気分さ。頭も悪いわけじゃなさそうなんだけど……なんて言うか、どうにも危なっかしくてねえ。
王都で騎士団の入団試験があるまで一ヶ月ちょっと、あの子一人で王都なんかに置いといたら絶対に良くない、あたしがなんとかしてやらなきゃって。
あははは、そう、うちの宿についた時もやらせたよ、泣き落とし。今度は言わなくてもあの子らが勝手にやってたけどね。フィルはほんと人がいいからね。あの子らそれをよく理解しちゃっててさあ、あっさり落ちたよ。
それでも律儀なあの子らしく宿代払いますって言うから、じゃあ宿代の代わりに食堂で給仕をしろって言ったんだけどねえ。正直まさかあそこまで役に立つとは思わなかった。
給仕くらい慣れれば何とかなるだろうって? ……そういうこと言って下に見る客がいるから苦労しそうなものだってわかんないかい?
おや、理解はいいようだね、いい心がけだよ、あはは、いいよ、許してやるよ。
そうそう、フィルの給仕ね、そういうのとは別に最初は大変だったんだ。
まず一般的な料理の名前を知らない、この辺の食材の名前を知らない、俗語が全然理解できないって感じでさ。
ザルアのど真ん中で祖父母とずっと暮らしてたって言うからだろうけど、あの子もお客も話が通じなくて、しょっちゅう固まっちまってたさ。
ほんと面白かった。綺麗な顔した、それこそ王子さまみたいに優雅な見た目の子がなっさけない顔して立ちつくしてる光景なんて、笑う以外にできるわけないだろう。
それでね、娘と息子がしばらくあの子にずっとくっついてたよ、普段は手伝えって言っても絶対しないくせにねえ。
そうそう、あの子、すぐに評判になってねえ。見た目も綺麗な子だし、愛想もいい、性格もいい、よく笑うってんで、常連とはすぐ仲良くなったし、新規のお客も愛想のいいあの子を気に入って繰り返しやってくるようになるわ、噂を聞きつけて若い女の子たちまでやってくるようになるわ、で。
亭主が死んでから、宿も食堂も沈みがちだったけどさあ、一気に昔みたいに賑やかになって、実際やっぱり森の神様の御使いかなあ、なんて思うことも何回か会ったよ。暗い顔して来た客もあの子と話して帰る頃には笑ってるとか、まったく珍しくなかったからね。本当、変な子だった。
だからさ、あの子の騎士団入団が決まった時は凹んだね。そりゃあ、あの子の強さはみんな知ってたし、そうだろうとは思ってたんだけど。
んんー、ああ、あの子、性質の悪い魔物にやられて困ってた村じゃあ、あたしらが休んでる間に一人で始末してきて平然としてたし。あれはみんなびっくりしてたね。おかげであたしらの宿代までただになった。
あとはこの辺のごろつきや酔っ払いも、あのほそっこい身体で簡単にいなしちまってたからね。それも珍しい光景じゃなかった。
年にも見た目にも一切関わりなく、女って女には見事に紳士だし、優しいし、そんなこんなで、この辺りの女の子はみんなあの子に惚れてたんじゃない? ジェットなんてリンがフィルを気に入っちまったんで面白いくらい動揺してたし。いい薬だよねえ、あいつにはさ。あははは。まあ、だから余計変なのにも絡まれたんだろうけど。
ああ、そうね、フィルの騎士団入団が決まった時さ、みーんな沈んじまってねえ。三十倍、四十倍の難関だよ。めでたいって言うのにひどい奴らだよねえ。あははは、あたしもそんなひどい奴の一人さ。
慌てたあの子は、色んな奴に色々約束させられてたよ。休みの日にはここに寄るとか、巡回の時には必ず声を掛けるとか、同僚を紹介しろとか、お嫁さんにしてとか、遊びに連れて行って、お菓子買ってね、とか、彼氏ができたら紹介しろ、とか。
彼氏かい? あはは、それ、あたしだよ。
え? ああ、知ってたよ。んー、いつだったかねえ。話す言葉は丁寧で中性的だし、背も高いしねえ。胸も押さえてたみたいだし、女の子のエスコートなんかも自然にしてたし、それもあたしみたいなのからよぼよぼの婆さんにまでみんな平等で思わず赤面しちまうようなやつさ。やったらめったら強いし、ほれぼれするほど潔いし……そうだよねえ、なんで気付いたんだったかなあ。なんとなくかねえ。
……ああ、最初に『ん?』って思ったのは、あれだ。あの子が八年も前に会ったっていう親友の話をした時かねえ。王都にいるはずだ、見つけたら今度こそずっと一緒にいるんだって、はにかんで言ったその時の顔がほんと恋する女の子に見えて。それからかねえ、ちょっとそんな気がし出したのは。
あの子が騎士団に行っちまって、本当に寂しかったよ。一気に活気がなくなっちまったような気がして。うちだけじゃなくってここいら全体がさ。本当不思議な子だった。
だから入団後に初めてここにあの子がふらっと現れた時は大変だった。宴会だよ宴会。昼間っから。あははは、まあ、何かに託けて飲みたいだけの連中なんだけどね、うちの常連。
ところがさ、酒の合間に誰かがふっと『そういや、相方は誰になったんだ?』ってフィルに訊いたんだよ。あの子、にこにこしながら『アレックスです』って答えて。
ああいうの、妙に詳しい奴っているよね。そいつが真っ青な顔して、『ひょっとして……貴族のフォルデリークか?』ってフィルに訊いて、あの子が頷いたから、そっからが面白かった。
みんなさっきの浮かれはどこへやら、口々に大丈夫か、とか苛められてないか、とか嫌な思いしてないかってフィルに詰め寄ってさあ。
フィルは首を傾げながら、『そんなことない、いい人だ』って言ってたけど、みんなあの子が騙されてるんじゃないかって心配したんだろうねえ、あの子変なとこで抜けてるから。
それでとにかく一回連れて来いってことになって、みんなで緊張しながらその日を待ってたんだよ。
だって貴族だよ、しかも公爵家、大貴族じゃないか! はっきり言っちまえば、あたしだって貴族は嫌いさ。親も爺さんも話してくれたもん、前の王朝で奴らがどんだけひどかったかって。
なんで貴族のその子がアル・ド・ザルアナックの騎士団にいるんだろうってずっと思ってたんだよ。
街でも綺麗で格好いいって評判だし、剣技大会でもずっと優勝してるし、なんとかって国との戦争でも活躍したって話だけどさあ、正直あのフィルに馴染むとは思えなかったんだ。偏見だよねえ。フィルはいい子、貴族は嫌な奴って。