13-10.戦いの後
闘技場の救護室。アレックスは診察台にフィルを座らせ、その前に屈んだ。
つい先ほどのことだ。担当地区の詰め所にいたアレックスの下に、今日非番のオッズが彼には珍しいほど焦ってやってきた。その彼からフィルとイラー・デンの対戦を知らされ、アレックスは頭が真っ白になる。
その場の責任者であるイオニア第一小隊長補佐に、どうせ仕事にならないと判断されてオッズと交代させられ、「とっとと行け」と言われて弾かれるように闘技場へと走った訳だが……。
「あ、あの、ただの打ち身ですし」
「脱げ」
「ぬ、ぬ、……」
「手当てする」
ここの主であるはずの医師は、急遽別室のイラー・デンを診に行っていてここにはいない。
「ぎゃあ」
あれでも形式上は他国の賓客だからな、と皮肉を覚えつつ、抵抗するフィルのシャツを半ば無理やりめくり上げた。
「……ただの?」
「え、あーと、その……あ、でも、咄嗟にちゃんと身を反らしましたから、内臓とかにはまったく」
本来白いはずの腹部には、打ち身の跡があって、変色し始めている。じろりとフィルを見上げれば、彼女は目を泳がせた。
「……時間が経ったら痛み出す典型だろう。動いている時、特に戦っている時は痛みを感じにくい」
溜め息を吐き出しながら、薬品棚から取り出した軟膏のふたを開ければ、特有の臭いが鼻についた。
「いっ」
床に膝をつき、薬をフィルの体に塗り始めれば、その顔が苦痛で歪んだ。
指から伝わってくる感触は、戦闘時にあんな動きをするとはとても思えないほど柔らかい。
「すぐ終わるから」
宥めるように声をかければ、痛みを堪えるためだろう、頷いているフィルの口元が小さく震え出した。
互いに口を閉ざし、室内は静けさに包まれる。
外からは扉と窓を隔ててなお、未だ収まらない観衆の熱狂が伝わってきていた。
もう少ししたら、表彰式のためにフィルは再びあの只中に出て行くことになるのだろう。
沈黙を破ったのは、フィルだった。
「ひょっとして……怒っていますか?」
「オッズに教えられて闘技場に駆けつけたら、凶暴と評判の隣国の将軍に最愛の恋人が蹴られて吹っ飛ばされていた」
一体どんな気分だったと思うんだ、と思わず半眼を向ける。
「さ、さいあ……」
反応する所はそこか、と真っ赤になったフィルを見て苦笑した。
(失ったら死ねるとまで思っているのに、相変わらず人の気も知らないで……)
塗り終えた軟膏に蓋をする。その間もフィルがうかがうようにこちらを見ているのがわかった。
「怒ってはいないが……」
――だんだん遠ざかって行く気がする。
視線をフィルから逸らしたまま、そう漏らした声は彼女の耳に届いたのだろうか。
再び沈黙が降りた。
その重さに耐えかね、顔をあげた瞬間、同じくらい情けない声でフィルが呟いた。
「それ……って、私ではだめ……ということですか?」
「……は?」
なぜそうなるのかまったく理解できない。唖然として、台の上に腰掛けているフィルを見上げれば、「やっぱりいいやり方じゃなかったですよね……」と眉を寄せ、彼女は身を縮めた。
「剣に、力に頼って人を嬲って、私を貶めることで騎士団やカザックまで辱めるあいつが許せなかった。力を振りかざして人を苦しめてそれを笑っていられる、あんなやつに剣を持たせておきたくなかった……だから、あいつから勝負を挑んできた時、私は単純に喜びました」
重い息が桜色の唇の合間から吐き出される。
「ポトマック副団長の『負けたら戦争になる』という言葉を聞いた時も、負けないから問題ないとしか考えていなかったんです。でも……万が一、負けたらってこともちゃんと考えるべきでした」
腹を蹴られた直後、それが一瞬頭によぎった、とフィルは唇をかみ締めた。あれで万が一負けていたら、きっと大変なことになっていたのに、色んな人を巻き込むことになっていたのに、と。
「アレックスは賢くて、人にいっぱい信頼されてて、どんどんえらくなっていって、すごい人で……それを見るたびに思うんです。守ると一口に言っても、強さって色んな形があるんだって」
段々声が細くなっていく。
「なのに……私はいつもどこか考えが足りなくて、いつまでも体力馬鹿のままで、人を巻き込んだり、巻き込みそうになったりして、挙げ句こんな怪我までしてしまって……」
やっぱり呆れますよね、とフィルは消え入りそうな声で呟いた。
軟膏を床に置くと、アレックスはフィルの横に座った。フィルが膝の上で握りしめていた手に、さらに力が篭るのが見えた。
「き、嫌わないでください。ちゃんと、ちゃんと追いつきますから、側に立てるように頑張りますから、体以外の意味でももっとうまくできるように、ちゃんと強くなりますから……遠くに、なんて……言わないで」
「……」
身を硬くする彼女の肩をそっと抱き寄せる。微かな薬の臭いを交えた甘い香りに包まれて、アレックスは息を吐き出した。
フィルらしいと思った。側にこいと言わず、私が追いつくと言う。離れて行くのはフィルの方だとアレックスは感じているのに。
それから、そういうものなのかもしれない、と不意に悟った。
自分もフィルも常に同じではいられない。この先もきっと変わっていく。そして、変化する方に自覚がなくても、変化を見ている方はそのたびに不安になるのだろう、遠ざかっていくような気がして。
――ならば、と思う。
「なら、俺もフィルに追いつくように努力し続けないと」
「……え?」
瞬きと共に不思議そうな顔を向けてきたフィルの額に、自らの額をつき合わせた。
「フィルは俺をすごいと言ってくれたが、フィルだって俺の持っていないものをたくさん持っている。俺は俺でフィルに追いつきたい」
「? 私?」
目を白黒させるフィルについ笑いが零れた。
きっと誰しもそういう部分を持っている。自分に無い物を相手の中に見つけ、それを尊敬して、自分も同じような何かを得られるよう努力できるなら、それこそがすごいことなのかもしれない。
「そうすれば、二人とももっと強くなっていけるだろう?」
眼前の深い緑の瞳が見開かれた。泣きそうに歪んだ顔が、次の瞬間に一気に綻ぶ。
「……うん」
首へと両手を回してきたフィルに、つられて笑い返しながら、その身体を抱きしめ――、
「うぐ」
――ようとして断念した。
「やっぱり痛いんじゃないか……」
「うぅ……」
* * *
「負けたらどうしてくれようかと思った」
アレックスと共に救護室を出たフィルへと、通路の角向こうから声がかかった。
身に叩き込まれた反射で総毛立った瞬間、「今回の講和条約、僕の仕事だったんだ」と言いながら、フェルドリックが姿を現す。
「……」
なぜだろう、整ったその顔に蕩けるように優しい微笑を浮かべているのに、フィルが『危険、近寄るな』と感じてしまうのは。
(イ、イラー・デンより遥かに命の危機を感じる……)
「……げ」
しかもその背後にはロンデール副団長がいる。
いずれ対峙しなくてはいけないとは思っていたけど、心の準備をする時間ぐらいは欲しかった、切実に、と顔を盛大に引きつらせた。
「ぅぐ」
彼も自分の横にいるアレックスも微笑んでいる。なのに、これまたなぜだろう、唐突に猛吹雪の中に突入したような気分になる。
(イ、イラー・デンの方が数百倍まし……)
頬が痙攣し出した。
(剣士にあるまじきこととか言って爺さまは怒る……けど、命、大事……! この際姑息絶賛推奨中ということにして、気がつかなかったふりをしよう……!)
回れ右して、しばらく救護室に閉じ籠もろう、などと思ったものの、まっすぐで何の置物もない通路では、気付かなかったという言い訳は不可能だと悟って、ついに涙目になった。
「あの将軍、どうあっても戦争がしたいようだったな」
恐怖と緊張に震えるフィルの横で、アレックスがフェルドリックに応じた。
「戦馬鹿って有名だからね。戦功で地位と財を築いてきたから、やればやるほど権力に繋がると思っているんだろう」
「個人と国家の力学の違いがわからない男が将軍になれるようでは、ドムスクスも長くはないだろうな」
さすが幼馴染というべきか、さすが一時期一緒の教育を受けていただけのことはあるというべきか、フェルドリックとアレックスがこんな会話をしている時、フィルは入っていけない。
また仲間はずれだ、と思ったところで……、
「ぅ゛」
目が合ってしまった、かのロンデール副団長と。
彼への苦手感とか、先日の恨みとか、言われたことへの居たたまれなさとか、一気に色々な感情が湧き出てきて、咄嗟に態度を決めかねた。その隙に、またもや先手を打たれてしまう。
「大会もその後の試合も、鮮やか極まりないお手並みでした」
「……あ、ありがとうございます」
大人っぽい微笑と共に、これまた大人な言葉をかけられて何とか返したものの、フィルは額に汗を浮かべた。
(こ、今度こそ失敗は許されない……!)
気のせいじゃなければ、フェルドリックと会話しているアレックスから冷気が漂ってきている。
「改めて実感しました。本当にお強いですね」
「……はい」
ゴクリと唾を飲み込み、深呼吸して気を落ち着けると、フィルはかけられた言葉に頷いた。謙遜はしない。
それから、目の前の人の緑灰色の瞳を真っ直ぐ見上げた。
『フィル、私を、私を見てほしい』
――あの時の返事をしなくてはならない。
彼の瞳が揺れた気がして眉根を寄せそうになるが、全力で抑えて続ける。
「私が強いのは、誰かや何かのために、一緒に強くなりたいと思う人がいて、その人に誇れる自分でいたいから、です。それで……その人は、あなたではない、から、」
ロンデールの顔に、一瞬痛みと苦味が走った気がした。
フィル自身痛みを覚えながら、「だから私はあなたを選ばない」と続けようと口を開く。
「フィル、どうせ君のことだからわかっていなかったと僕は確信しているけれど」
だが、突然フェルドリックに会話に引き込まれた。
「へ? ……え、ええと」
彼がいつになく上機嫌に見えることで、混乱に拍車がかかった。大事な話をしていたのに、しなくてはいけないはずだったのに、と焦る。
「あいつは自分から持ち掛けた試合でカザックの騎士を殺して、戦争のきっかけにするくらいのことをする奴だ。まず間違いなくフィルを殺す気だったはずだ」
「? あの腕で?」
振られた話題を耳が拾って、思考をそちらに奪われた。習性のまま、感じた疑問をそのまま口にし、フィルは「そりゃあ、そこそこの腕ではあったけど、命の危機を感じるほどの腕ではなかった」と首を傾げる。
「ああ、でもここのところ正規の訓練に浸かっていたせいかな。唾をかけてくるなんて珍しくもないやり口に反応が遅れて、蹴られたのは反省しなくちゃいけないかも……ん?」
全員に沈黙とともに凝視されて、また何かおかしなことを口走ったのか、とさらに焦った。
(ってそうじゃない。こともないけど、そうじゃなくて……そ、そう、私はロンデール副団長に大事な話を……)
フィルのそんな混乱など、フェルドリックはもちろん気にしない。半眼で「殺しても死なないんだった」と呆れたように息を吐き出した。
「まあ、結果よくやったからいいけど。足もだけど、あの腕、もう使い物にならないんだって? 戦場に出られたとしても以前ほど強力じゃないだろうなあ。それどころか、これまでがこれまでだから、多分失脚するだろうし」
気を取り直したらしい彼は、「ああいう奴が追い込まれる時って、大抵陰惨な目に遭うんだよね」とこの上なく上機嫌に笑う。
「ほんといい気味だ。馬鹿にしていたフィルを殺すどころか自分がボロボロにされるなんて、個人的にも国的にも万々歳――という訳で、試合終了後に派手にアレックスに抱きついたのは見逃してあげるし、それどころか今年のキスはナシュアナに代わって僕がしてあげよう」
「い゛」
上機嫌なフェルドリックというだけで、フィルにとっては鳥肌ものなのに、そんな彼からの祝福のキスならぬ呪いの宣告。
その上、再び冷え込んでいくアレックス――何度か死にかけたブリザードそっくりな冷気の向こうで、祖父母やロギア爺たちが手を振っている気がする。
(……悪魔だ、真正だ、誤解するように仕向けて遊ぶだけじゃ飽き足らないんだ、止めを刺す気なんだ……)
フィルの平和においては、イラー・デンよりロンデール副団長より誰よりフェルドリックこそが脅威に違いない。