13-4.先立たず
不承不承フィルを見送ったアレックスは、フェルドリックの居住棟からほど近い庭園にある噴水の縁、人目につきにくい木陰に腰をかけた。
(……やはり行かせるべきではなかったか? だが、フィルはああなると何を言っても聞かないし、彼女が物理的にやられる可能性はまずない……。だが、相手はロンデールだ、狡猾この上ない……)
手段を選ばない彼のやりようを思い出し、アレックスは目を眇める。
あれはフィルの素性を利用されたくなければ、こちらの要求をのめという脅しだった。
対抗するなら、先ほどの建国王の言葉を盾にすればよかったのだ。今となってはこの国で彼に逆らうことほど愚かなことはないのだから、意向をないがしろにする気か、どの道口に出来まい、と。
(建国王の威を借るのはフェアじゃないなどという綺麗事を一瞬でも頭によぎらせた自分が甘かった――)
アレックスはぐっと眉根を寄せる。
フィルもよほどのことがない限り、誰かの助力を請うことを良しとしない。自分の影響力を知っているはずの建国王が、無条件にフィルを猫可愛がりするのもきっとそれが理由だ。どれだけ可愛がっても、フィルは彼の威を借りることを考えつかない。
自分たちがそう考えるということを、ロンデールに読まれていたのだろう。そこを突かれた。
(ロンデールがあそこまで強引に、有り体に言えば、なりふり構わず出てくるとは思っていなかったのも確かだが……)
アレックスは膝に両肘をつき、手を顔の前で組み合わせ、奥歯を噛みしめる。
率直に認めるならば、完全にやられた。
フィルは他力を用いて自分の意図を通すという手段を嫌う。そうと知っていて躊躇したアレックスと、フィルの反応を見ながら、彼女にはばれないように、アレックスに対してだけそれを持ち出したロンデール。
アレックスは、君よりはるかに大人だと厚顔にも言い切った緑灰の瞳を思い返し、嫌悪に顔を歪めた。
何より神経に障るのは、彼は先ほどのように、自分のプライドをフィルのために切り売りしても、彼女を自分の父親や家のために売ることはしないだろうということだ。
“フィル”に近づくことさえできれば、彼はフィルとフィリシア・フェーナ・ザルアナックの関係を知っていることを利用することはないだろう。先ほど彼が言ったとおり、それはあくまで“フィル”に近づく手段でしかないはずだ。
(そういう意味では誠実ではある……)
自分と同じように、そうあろうとするのが他ならぬフィルのためだということがわかってしまうことが、この上なく気に入らない。
アレックスはフィルの手の感触の残る右手を見つめた。
日焼けした自分の皮膚に絡んでいた、長い、白い指。それでぎゅっとこの手を握り、彼女は自分を見上げてきた。向けられる森の緑の瞳はちゃんと落ち着いていて、「大丈夫」と言外に伝えてきた。
間違いなく具体的なことは何もわかっていないはずなのに、自分の蒔いた種だから自分でなんとかすると笑ったフィルは、それからいつものように強気な笑顔を見せた。そういう時彼女が自身の言葉を違えたことはない。
だが、不安は尽きない。
彼女は搦め手で来られると対処しきれない。しかも、ロンデールはフィルの想像を超える手をいくらでも知っていて、先ほど証明してみせたようにアレックスよりはるかに狡猾だ。
(無理やりにでも遮るべきだったのかもしれない)
「……」
急速に広がっていく不安に駆り立てられて、アレックスは立ち上がる。おそらく行き先は紫宮の四阿か北庭、そう目星を付けて足を踏み出した。
* * *
(……?)
北庭の茂みの影に一人で立っていたフィルは、ひどく硬い顔をしていた。
「フィル」
呼びかけに振り返ってアレックスを見た瞬間、唇を引き結ぶ。
「どうした?」
逸る心臓を抱え、足早に近寄っていく。
そんな自分をじっと見つめていたフィルは口と眉の両端を落とし、「……いえ。ええと、遅くなってすみません」と言いながら、顔を伏せた。そして、「その、私の出身については誰にも話さないと誓ってくれました」と、ひどく簡潔にロンデールとのことを告げた。
彼女の様子に強烈な違和感を覚えたものの、時刻が迫っていて、仕方なくそのままナシュアナ王女を図書館に迎えに行き……その後のフィルはいつも通りナシュアナと話して笑っていた。
だが、彼女の様子がおかしいことにはすぐ気付いた。ナシュアナはもちろん彼女の侍女などとも笑い合い、アレックスにも普通に話しかけてくるのに、不自然なまでに目を合わせようとしない。
王宮での予定を終えて騎士団に戻る途中、募る苛立ちに耐え兼ねたアレックスは、裕福な者たちが住まう地区の一角、人気のない小道へとフィルを引きずり込んだ。
「何があった」
両腕を彼女の頭の脇につき、塀を背後にさせて、フィルを問い詰めれば、彼女は真一文字に結んだ唇を一瞬戦慄かせた。その様子に確信してしまう。
「何をされた?」
怯えさせまいと思うのに、後悔、焦燥、苛立ち、怒り、嫉妬、心配、色々な感情がない交ぜになって、知らず語気が強まる。
驚いたように目をみはったフィルは、すぐに視線を揺らした。不安と苛立ちが強まっていく。
「フィル」
声音の低さ、響きの強さに彼女が緊張し始めたのがわかるのに、コントロールできない。
嫌な想像が頭を巡る。ロンデール公爵家嫡男とザルアナック伯爵令嬢の婚約話、ひたすらにフィルを望むロンデールの視線、その彼が建国王の意向に逆らってまでフィルとの対話を望んだ理由……。
日が動いたのか、片側から赤い夕日が差し込んできた。
黙ったままのフィルの顔にその光があたり、顔の陰影を深めた。表情を見失う。
朱金と黒に彩られた整った顔貌は、無機質な彫像のようで、こちらを拒否しているかのように見えた。
(――ワタサナイ)
自分のものだと確かめたい――衝動に駆られるまま、固く俯いたフィルの顎に手をかければ、深い緑色の瞳が不安そうに揺れた。
その下方、夕日を受けて普段より赤みを増した唇を確認すると、その場所を唇で捕らえる。より深く交われるように、顔に角度をつけて。
「っ」
柔らかい感触と甘い香りに一瞬で意識を奪われて、一気に舌を口腔に侵入させた。
驚きに奥に下がろうとした彼女の舌を、すばやく絡めとって、吸い寄せる。同時に小さな声を漏らして、フィルは体を震わせた。
距離を取ろうとしているのだろう、両腕を突っ張ってフィルが胸板を押し返そうとしてくるのを、逆の手で腰を抱き寄せて阻む。
内頬から口蓋へと舌を這わせて愛撫すると、力を失った彼女の腕は肘で畳まれ、胸と胸が密着した。体の震えが直接伝わってくる。
覆い被さるように、フィルの全身を抱き込んだ。歯列を丹念に撫で上げ、互いの体液を舌で執拗に混じり合わせ、思うままに取り込む。まるで媚薬のように体が熱くなっていく。
重なった唇の間から湿った水音と乱れた吐息が漏れ、赤く照らし出された壁の間に響いた。
どれぐらいそうしていたのか、ようやく唇を解放する。濡れたその場所を開き、荒い呼吸を繰り返すフィルを見つめて薄く笑った。耳に口づけを落とす。
「っ、ア、アレックス……っ」
フィルは正気を取り戻したらしい。焦りながら再び胸を押し返してきたが、それを無視し、耳朶を食んだ。
「っ」
フィルはびくりと体を震わせた後真っ赤になり、半泣きで恨みがましそうにアレックスを見上げてきた。
「……」
ずっと追いかけてきた緑の瞳の焦点が、ようやく自分に合ったことを確かめた瞬間、言いようのない安堵が生まれた。
(……やりすぎたか)
腰に腕を回し、柔らかい感触を全身で確かめながら抱きしめる。
「さっさと話さないフィルが悪い」
次いで、「話さないとここで続きをする」と耳元で囁けば、彼女の体はカキンと音を立てるかのように固まった。逡巡の後、腕がおずおずとアレックスの背に回る。
「ええと……話します、ので、」
いつになく情けない声で「だから、ここでは……」と呟くのが耳に届いて、少し笑った。言葉の意味をわかって言っているのだろうか、と。
大丈夫、彼女は俺の腕の中にいる、ようやくそう思えた。
微笑んだまま、こめかみに音を立ててキスを落とす。
が、生憎とフィルの次の言葉に凍りついた。
「で、でも、その……あ、呆れないでください、ね……?」




