4.綺麗
反射で固くなった体をなんとか動かして、顔を声の方向に向けた。
予想どおり異母姉のセルナディアがいて、背後には彼女とよく一緒にいる令嬢と近衛騎士たちがずらりと並んでいる。
「……」
「ナシュアナさま……」
ジェシーの怯えたような声を背に、ナシュアナはフィルの肩に回している手を無意識のうちに握り締めた。
彼女たちの陰湿さはナシュアナが一番良く知っていた。ジェシーの顔色も悪いし、アレクサンダーの顔はもちろん、ミレイヌの顔だって不快気に歪んでいる。
だが、今姉が睨んでいる対象はナシュアナではなくて、やはりフィルだ。
どうしようと思って、ナシュアナを抱きあげたままの当の彼女の顔を見れば、目をまん丸くしていた。
いつもと変わらない彼女の様子にほっとすることができて、少しだけ体から力が抜けたわけだが……、
(フィル、なぜそんなに緊張感がないの……?)
なんだか別の意味でドキドキしてきた。
「おはようございます? ええと、セルナディア殿下におかれましては、」
「――泥棒猫」
空気がおかしいことは分かっているのだろう。首をひねったフィルは、それでも律儀に挨拶をしようとして、だが、顔を歪めた姉に遮られた。
「へ? 猫? 泥棒?」
フィルは不思議そうに「どろぼうって、何かを盗むことだよね。しかも……猫?」と呟き、やはり緊張感なく首を傾げる。
対照的に焦ったナシュアナは、ミレイヌに目を合わせて必死に合図を送った。
(さっきのは見逃すから、お願い、誰か呼んできて……)
そういう察しはいいのだと思う。彼は険しい顔で頷くなり踵を返して、城内に入っていった。
「あのー、心当たりがないのですが。泥棒でもなければ、猫でもありません」
(う。火に油……)
姉の強い視線に再び身をすくめたナシュアナに気付いたのか、フィルは眉根を寄せた。
気を使ってくれたのだろう、アレクサンダーが前に踏み出て、彼女の悪意と憎悪に満ちた視線を遮ってくれる。
それで息を吐くことができたのだけれど、アレクサンダーの向こうで姉の気配がさらにぞっとするような物になった気がして、思わず身を震わせた。同時にフィルの眉間に深い皺ができる。
「アレクサンダーが庇うからっていい気にならないことね。後ろ暗いことがあるから逃げなくてはいけないのでしょうけれど」
「む」
(フィル、反応したのは「逃げる」という言葉ね……剣士への侮辱とか考えているんだわ、きっと。ああ、本当になぜこんなに緊張感がないのかしら……?)
顔を引きつらせるナシュアナの背中を、姉に目を向けたままフィルがトントンと叩いた。
「ですから、本当に心当たりがないです」
アレクサンダーの背から顔をのぞかせ、「誤解ではありませんか」と答えたフィルは、それでもナシュアナの視界に姉の姿を入れない。
姉の空気が異様になればなるほど、フィルの表情も固くなっていくから、険悪な雰囲気なのはわかっているのだろう。ナシュアナに気を使ってくれているのもわかる。でも、多分根本はわかってない。
(だってそういう意味での緊張感がやっぱりないもの……なんていうかフィルらしいけど、本当にどうしよう?)
背後で石造りの渡り廊下を踏みしめる複数の足音がする。近づいてくる。
「……」
こうして誰かに捕まっている時に、それに加わる人が増えていくことは、珍しいことじゃなかった――。
真っ青になって思わずフィルに身を寄せた。柔らかい金の髪へと隠れるように顔を埋める。
「何事だ」
昔を思い出して恐怖に震え出した体は、けれど、兄、フェルドリックの威厳ある声によって救われた。ナシュアナはフィルの髪の中で露骨に息を吐き出す。
なのに、フィルのほうは「う」などという声と共に、今までとは比較にならない緊張感で硬直した。
「……」
(だから、なぜそうなるの、フィル……)
ナシュアナの疑問に気付かないらしいフィルが、恐る恐るという感じでナシュアナごと振り向いた先には、彼がロンデール副近衛騎士団長とミレイヌを連れ、厳しい顔でこちらに歩み寄ってきていた。
同じようにそちらに顔を向けたアレクサンダーの空気も凍る。
「?」
(ええと、こっちもなぜそうなるのかしら……)
「お兄さま、この者はわたくしを含めた多くを騙しておりました。だからアレクサンダーを憂いているのですわ」
まるで汚らわしいものにでもするかのように、手にした扇でフィルを指した挙げ句、「ねえ、アレクサンダー?」と媚を滲ませた姉に、アレクサンダーが視線を向けた。
「生まれどころか性別すらわからない、こんな卑しい身の者に公爵家の血の者がたぶらかされるなど、たとえ遊びであってもいけません」
「彼女は卑しくなどありませんし、私もたぶらかされてなどおりません。遊びなわけがない――私が本気で彼女を愛し、望んでのことです」
彼女の話し先の一人である兄や、言われている当のフィルより先に、アレクサンダーは思わず見蕩れてしまうような、凛とした表情と声ではっきり言い切った。
(真顔、真顔だわ……)
関係のないナシュアナやジェシーが状況を忘れて真っ赤になってしまったというのに、その言葉を向けられているフィルは顔を引きつらせたまま、何かをぶつぶつと呟いている。
「アレックス? 心配? 猫と泥棒がそれとどう関係するんだ……? ああ、それより何より問題は絶対あっちだ。ただで助けてくれるわけがないのはもう証明済み……」
(……あの恐ろしげなお姉さまより何が問題なの、フィル? そもそも……今のアレクサンダーの熱烈な告白になぜ反応しないのっ? それは本気で駄目だと思うわっ、恋する乙女としてそれは言わせて欲しいのっ)
つい状況を忘れて、フィルに半眼を向ける。
「そ、そこをどきなさい、アレクサンダー。貴方はものが見えていないのよ」
顔を怒りで真っ赤にした姉は、今度は声を荒らげた。そして斜め前に踏み出すと、フィルに向かって歪んだ表情を向ける。
「体でも使って篭絡したのかしら? ああ、ありそうなことね、お前の親も娼婦かなにかなの? 汚らわしい、大きな顔をして王宮に――」
「私の大事な人を貶めるのはやめてもらおう」
アレクサンダーは目を鋭く眇めると、殺気を漂わせて彼女の言葉を遮った。傍でお聞きになっていたお兄さまも顔を不快気に歪ませていらっしゃる。
「か、体って……」
が、やっと現実に戻ってきたらしい当のフィルは、そう呟いて真っ赤になっている。
(本当になぜこうも緊張感がないの……。しかも反応するのはそこなの、フィル? 「大事な人」って公言されたのよ! 恋する乙女の端くれとしては、反応すべきはそこだと主張したいのっ)
……ついつい状況を忘れてしまうのは、彼女のせいということにしておきたい。
「セルナディア殿下、彼女は……」
お兄さまやアレクサンダーと同様に、一連のやり取りを苦々しい顔で聞いていたロンデールが口を開いた。けれど、その彼に最初に反応したのは、姉でもフィルでもなくアレクサンダーだった。
「――ロンデール殿」
アレクサンダーは凍るような目と声で、ロンデールの名を口にした。応じてロンデールも視線を姉から移し、アレクサンダーを睨み返す。
(だ、からなぜそうなるの…………ああ、でも、問題はそこじゃない――)
ナシュアナはゴクリと音を立てて唾を飲み込むと、ぎゅっと目を瞑って、深呼吸を三回繰り返した。
ゆっくりと目を開けて、相変わらず『よく事態がわかっていません』という顔をしているフィルの目を見つめる。
吸い込まれそうに深い緑。いつか乳母を見舞いに行った時に通った森と同じ、綺麗なのに力強い色――その瞳が収まるのは、初めて真正面から私を見て笑ってくれたあの人と同じ形の目。
「ナシア?」
気づいて怪訝そうな顔をしたフィルに、引きつっているだろうなと思ったけれど、何とか笑ってみせる。そして、降ろしてと仕草で頼んで、安心できる彼女の腕の中から離れた。
踏み締めた足元の砂利の音がやけに大きく響く。もつれそうになる足を、転ばないように意識して動かして、アレクサンダーの前へと進み出た。
「っ」
姉の視線がこちらに向いた。体中がぴりぴりし始める。
コワイ――そう感じてしまうのは、何年も培われた反射だ。それでいつもいつもただ怯えて逃げ回っていて……でも、もう逃げないと決めたのだから。
口内に溜まっていた唾液をもう一度ごくりと飲んで、口を開いた。
「お姉さま、フィルは、」
「お前に姉などと呼ばれる筋はありません。汚らわしい、黙っていなさい」
けれどその決意はすぐに揺らいでしまう。
(ケガラワ、シイ……)
『その汚い子を寄せないで。陛下は一体何をお考えになって』
『あんな親から生まれて、どんなふうに育つんだか』
『その程度のこと、セルナディア殿下は一度でお出来になりました。母親が劣るだけでこうも違うものか』
――嫌わないで。私をちゃんと見て。頑張るから私を、ナシュアナを評価して。
何度もそう願って、でも、誰も……。だから、いつからか諦めて、居心地のいい人たちの中に逃げ込んだ。
「……っ」
ドレスを皺になるまで握り締めた。体ががたがた震え始めたのも、恐怖か緊張か視界が涙で滲んできたのも、情けなさに拍車をかける。
(でも……頑張れ、私)
泣きそうになるのを、痛くなるまで下唇をかみ締めて堪えた。
(だって、フィルとそう約束したでしょう? ラーナックだって頑張ってるといっぱい笑ってくれるでしょう? ううん、ラーナックやフィルだけじゃない。ジェシ-やアーサー、老博士や料理長、乳母だって、お兄さまだって王妃さまだって笑ってくれるわ。私なんかでも頑張れば色んな人を笑わせてあげられるって、せっかく気付かせてもらったんだから……頑張れ)
そう自分に言い聞かせて、唇を開放して空気を吸い込んだ。
「う、生まれや身分で、フィルを……ひ、人を汚らわしいなんて、言わないでください。フィルは……フィルです。頑張っていて、や、優しいし、温かくて……き、綺麗です」
振り絞った声は相変わらず震えていた。しかも涙声で格好悪くて……でも、ちゃんと言った。だって、フィルは大事な人だ。大事なラーナックの大事な妹だ――。
縋るように涙のにじむ目を向ければ、その先のフィルは目をみはってナシュアナを見ていた。
「お黙りなさ――」
「ナシアの方が綺麗です」
「……フ、ィル」
遮るように、姉の声に言葉を被せたフィルは、ナシュアナに向かってにこっと笑った。目の前に来て零れ落ちる寸前にまでなっている涙を優しい仕草で拭ってくれる。
「ナシアは外もそうですけど、何よりその内側が綺麗です」
「は、知らないって幸せね。その子の母親は娼――」
「誰から生まれたか、どこに生まれたか、ではない。どう生きるか、どう生きているか、です、問題なのは」
そう言いながら、フィルは真剣な顔をまっすぐお姉さまへと向けた。毅然としたその表情に、思わず見入る。
「……」
視線を感じたのか、フィルはナシュアナともう一度目を合わせて、またにこりと笑ってくれた。弧を描いた目の形も笑い方もラーナックとそっくりで、見ているうちに冷えていた指先が温もっていく。
「痛みを知って、でも、それを嘆いて閉じこもることも人を恨むこともなく、他人を思いやる人です。自分にできることを探して、そのために努力する人です。そんな彼女が綺麗でないわけがない」
「だ、誰に向かって、口応えをしているのかしら……?」
「あなたです」
冷たく聞こえるほど簡潔に告げ、フィルは厳しい目を姉に向けた。
「本人にどうにもならない生まれに縋って、易々と人を貶める人こそ私は綺麗だとは思わない」
そして、挑戦的な笑みと共に言い切った。
「ついでに、心無い言葉で人を傷つけて平気な人というのも付け加えましょうか」
「っ」
顔を引きつらせ、怒りで言葉を失ったお姉さまを庇うように、取り巻きの一人が進み出る。
「ぶ、無礼にもほどがある、お前の首など殿下の一存で……」
「――馬鹿が」
これまで黙ってやり取りを聞いていらしたお兄さまの刺々しい声に、その者は目を見開き、音源を確認して真っ青になった。
が、フィルはそのどちらも気にすることなく、首を傾げた。
「どうぞ」
(……え?)
「やりたければお好きに」
(え、ええと……)
ナシュアナを含めた全員が呆ける中で、ただ一人、アレクサンダーだけが肩を震わせ出した。
(わ、笑ってるの……? だから、本当になぜそうなるの……)
「もちろん抵抗はしますけど。そんな理不尽を唯々諾々と受ける道理も気もありませんから」
先ほどの声の主に真顔でそう告げると、フィルはいつもどおり甘やかに微笑んで、「行きましょうか、ナシア」と呆気に取られているナシュアナの手を取った。
「ジェシーさんも」
「え、あ、は、はい」
硬直している彼女にも声をかけて歩き出す。
「……」
「……」
(い、いいのかしら、放っておいて……)
同じことを考えている様子のジェシーと思わず顔を見合わせる。
「だ、そうだ。だが――覚えておいてもらおう」
五歩ほど進んだところで、笑いを治めたアレクサンダーの低い声が響いた。立ち止まって彼らを振り向く。
「フィルの前に俺が相手になる」
彼は先ほどまで笑っていたのが嘘のような冷めた目で姉たちを見据え、「身一つではすまさない」と静かに、けれど強い響きの声で告げた。
「すべて失くす覚悟を決めてから来い。俺はそれだけの覚悟を持っている」
そして、蒼褪める彼らに背筋がゾクっとするような顔で笑いかけた。
それからアレクサンダーは泰然とした足取りでナシュアナたちの目の前にまで来て、フィルに向けて数秒前とは別人のように目の端を緩ませた。
「……」
続いて目が合ったナシュアナに、彼はくすっと笑うと、大きな手で頭をぐしゃぐしゃっと撫でる。
「…………ふふ」
そんなことする人だと思わなかったから意外で、それから可愛がってもらった気とか褒めてもらった気とかで、一気に色々嬉しくなって、先ほどの緊張が嘘のように消えていく。
向こうで姉たちが青い顔でこちらを見ているけれど、もう怯える必要はない――ようやくそう実感できた。




