2.変える
お兄さまに夜会でのナシュアナのエスコートを言いつけられたフィルは、一週後、先日と打って変わって、でもいつもと同じように元気に王宮にやってきた。
だが、その日、彼女は常に身につけていると言っていた胸を押さえるための下着をしていなかった。
「……フィルってスタイルいいのね」
他に言葉が見つからなくて呟いたナシュアナに赤くなるあたりはそれでもちゃんとフィルで、ちょっと笑ってしまった。
「私は私になりたくて、あと……それを周囲にも認めてもらいたい」
「いくら私は私だといったって、事実がちゃがちゃ言う人がいてそれで支障が出る以上、戦うしかないなって」
落ち込んでいたってこうやって自分を変えて、周りと正面から向き合おうとするあたりこそフィルだと思った。
最初驚いていたジェシーが、フィルとナシュアナのやり取りを聞いて頷く。
「私、フィルさまのこと、応援します」
その言葉で、それまで少し緊張していたフィルが破顔した。
「ナシュアナ、ちょっといいか」
絶対にそうは仰らないけれど、多分フィルを心配していらしたのだろう。お兄さまもおいでになって、そのフィルをご覧になる。
「……本当、馬鹿だとは知っていたけど」
絶句した後の開口一番、彼が口にしたのは呆れだったけれど、それから心底楽しそうにお笑いになった。それで彼がフィルを気に入っていることを確信して、また嬉しくなる。
(そうなると次の気がかりは……)
「ナシュアナさま、アーサー・ベル・ジオールです。入室いたし、ま…………フィ、フィフィフィフィ、ル、どの……?」
ナシュアナの懸念通り、護衛の任の説明にやって来たアーサーは、フィルを前にいくらなんでも失礼じゃないかしらというくらいぱっくり口を開けて静止した。
アーサーの、ジェシー曰くのきりっとした顔だちがその日ばかりは……彼の名誉のためにこれ以上はやめておくことにする。
「……アーサー」
「あ、いえ、驚い……い、え、その、し、失礼いたしました。ええと、そ、そうでした、今日の夜会において特に注意していただくことは、」
ナシュアナの呼びかけに、アーサーはなんとか正気に戻ったようだった。居心地悪そうにちらちらとフィルとナシュアナに視線を向けながら、夜会のエスコートにおける注意事項等を伝える。その間、フィルの方は何事もないかのように淡々と受け答えしていた。
途中、会場に続く回廊で一緒になったお姉さまの唖然とした顔も、その後の強い憎しみの視線も、フィルは意に介さない。
会場への扉をくぐるなり浴びせられた注目、露骨に向けられた驚愕、無遠慮に広がっていくざわめき、フィルを舐めるように見つめる下卑た眼差し――ナシュアナが身を竦ませたくなるそれらすべてを、フィルは真正面から見返していた。
そして、優しい微笑を満面に浮かべ、フィルはナシュアナを宮廷所作の見本のような仕草でエスコートしていく。
先日あれだけ落ち込んでいたから、わかった。フィルは負けないよう頑張って笑っている。フィルだって最初から強かったわけではないと知って、なおさらそんな彼女に憧れた。
ざわめきが最後に行き着いた会場の端。ラーナックと目が合って、彼と彼の父であるザルアナック伯爵の目が驚きに見開かれるのを確認して、ナシュアナはにっと笑った。これは最近覚えたフィルの真似。
それからアーサーとアレクサンダーに近づいていって、アーサーの本当に滅多に見られない動揺にまた少し笑ってしまって……それから困ってしまった。アレクサンダーが露骨にフィルしか見てなかったから。
しかも、なんと形容したらいいのか、その目線が側にいるだけで乙女には刺激が強いという類のもので……。断言してもいい。隣にいたというのに、一応王女だというのに、ナシュアナの存在は完全忘れ去られていた。
(大事なフィルを泣かせたこの人に、文句の一つぐらい言ってやろうって思っていたのだけれど……)
見てもくれないからできない。しかも、露骨に邪魔するなって空気……。
ナシュアナは見た。あの鈍……じゃなかった、大抵のアレクサンダーの仕草に反応しないフィルですら赤くなっていったのを。
(……知ってはいるのよ? 私、王女だといっても半端だし、地味だし、アレクサンダーの方がよっぽど王族っぽいし……)
そういじけかけていたナシュアナを動かしたのは、アレクサンダーがフィルに伸ばした腕だった。
ナシュアナの中の乙女心が『っ、こ、これ、絶対にまずいやつだわ、フィルの危機っ』と知らせてくれて必死で遮った。あのアレクサンダー・エル・フォルデリークを、ナシュアナが、だ。
「アレクサンダー、フィルを泣かせた罰です。フィルと最初に踊る権利はあげません」
咄嗟に罰ということにしたけれど、私、かなり成長した、と密かに自慢に思ったのはここだけの話だ。
アレクサンダーの唖然とした顔とナシュアナの得意そうな顔にくすっと笑ったフィルは、「失礼しました、私の王女さま」とナシュアナの手を優しく取った。それから響き始めた音楽にあわせて会場の中央へと誘っていく。
先々で人垣が割れていき、その誰もがフィルとナシュアナを見ている。人前で踊るというだけでも駄目なのに、余計緊張し始めた。
「フィル、男性用のステップも習ったことあるの?」
「というより、女性用の方をちゃんとしたことがないな、そういえば」
なんとかリラックスしようとフィルに話しかけてみて、彼女が首を傾げながら返してくれた答えをやっぱり変わっているなあと思ったけれど、フィルとの踊りは本当に楽しかった。
ダンスの先生が教えてくださるような難しいことを考えなくたって、体が軽くなって勝手にふわふわと動く。失敗しそうになっても上手く切り抜けさせてくれるし、目が合えばにこっと笑ってくれる。次のステップ苦手だわと思って顔を曇らせると上手くアレンジしてくれて……一気に踊りが上手くなったように感じた。周囲から注目されているのを痛いほど感じるけれど、普段なら萎縮してしまうそれも気にならなくなって、気付いたら笑っていた。
「でもフィル、このあとアレクサンダーと踊るのでしょう?」
そうして余裕が出てきたせいだろう。ふと気付いて、女性用のステップを知らないのではないかと心配したら、「そ、そうなのかな?」とフィルは真っ赤になった。
(なんていうか、もう取り繕えない……鈍い、鈍いわ、フィル。アレクサンダーはあれからずぅっとあんな目でこっちを見てるのよ? 私があんな視線を向けられたら一瞬で蒸発するって思うのに)
「あ、でも、ちゃんとしたことはないけれど、何度も見ているし多分平気」
そういう問題かなあ、何か違ってないかしら? と思ったけれど、フィルはできないことは言わないからきっとそうなんだろうなと思った。
その後フィルをアレクサンダーに返して、二人が仲良く――やっぱり目のやり場に困るようなのだったわ。それって本当にどうなのかしら、アレクサンダー……フィル、別の意味で大丈夫かしら……――踊っている様子を見て、上手く仲直りできたんだと思ったのに。
だから自分も頑張ろうと思って、ラーナックの元へ女性を掻き分けて近づいていったのに。
自分のことに一生懸命で、あとラーナックが他の女性より一際親切にしてくれて、一際柔らかく笑ってくれるのに舞い上がってしまって、フィルにさらに何かが起きているなんて思いもしなかった。
「?」
しばらくしてから、ザルアナック伯爵がやってきて厳しい顔と雰囲気で人を遠ざけ、ラーナックに何かを耳打ちした。ラーナックが顔を曇らせる。
「……あ」
原因に思い当たって慌てて会場を見渡せば、アレクサンダーが恐ろしい空気で彼の兄と運命神の斎姫をテラスへと連れ出して行くところ。そして……フィルは彼の側どころか会場のどこにもいなかった。
伯爵は険しい表情のまま、ラーナックから離れていく。
「フィルに何かあったの?」
(どうしよう、やっぱり私はだめなのかしら? またちゃんと役に立てなかったのかしら? フィルはあんなに色々してくれるのに……)
「よくは……とりあえず連れ帰ってもかまいませんか?」
泣きそうになって訊ねたナシュアナに、ラーナックは苦笑した。
「大丈夫。フィルは逞しいから」
焦っているとわかるのに、そうしてこちらのことまで気遣ってくれてから、ラーナックは会場を後にした。そんなところが本当に兄妹だと思う。
「あなたというよりあの斎姫、フィルに何をしたの? あのラーナックがわざわざフィルを引き取りに来るなんて」
そんな彼らのためだからこそ、怒ることもできた。相手があのアレクサンダーでも――。
お兄さまにラーナックのことを訊ねている彼を捕まえて、八つ当たりを込めて睨めば、彼は必死という形容が相応しい形相でナシュアナを見た。
「……」
(意外、この人、こんな顔をすることもあるのね……)
すごく苦しそうで泣きそうにも見えなくないのに、でも絶対に退かないという強い視線。それを受けて、普段なら気後れしてしまうほど整った彼の顔をまじまじと見つめてしまう。そんな顔をしているのはフィルを失いたくないからだろうか。
「ナシュアナ殿下」
言外に続きを促す声は、普段よりずっと低い声音だったけれど、不思議と怖いとは思わなかった。
なんだか怒っているのも気の毒になって、それから少し呆れた。そんなに大事ならなんでもっと上手くできないのかしら? 頭いいんじゃなかったの?と。
「……そんなに心配する必要は無いわ」
「ラーナック・ド・ザルアナック。フィルの兄だよ」
結局苦笑と共にお兄さまがラーナックについて説明なさった。
「もっとも社交の場に顔を出すようになったのはここ最近になってからだから、あまり知られていないけどね……って、らしくないよねえ、ほんと」
けれど、アレクサンダーは、お兄さまが話し終えられる前に会場を飛び出していった。
「あのアレックスが相手を知りもしないで行動に出るなんて、考えたことなかったなあ」
呆れを通り越して感心したようにお兄さまが呟いて見送っている彼の行き先は、間違いなくザルアナック邸だ。フィルもだけど、ラーナック、大丈夫かしら、と少し心配になる。
「ザルア、ナック、兄……フィル殿、は女性、で、あのラーナック殿の……つまり……きょうだい……」
「あ。ええと、アーサー、内緒にしておいてね」
そして、耳に入ってきた呟きに、ずっと側でやり取りを聞いていたアーサーをようやく思い出し、慌てて声をかけた。
「兄妹……」
でも聞こえてないようだった。
「アル・ド・ザルアナックの孫よ。アーサー、彼に憧れていたでしょう? フィルは彼に剣を習ったのですって」
どう言ったらいいのか……唖然? 放心? とにかく心配な感じだったから、お詫びを兼ねて、アーサーの気を引けそうな話題を振ってみたけれど、「しかも、アル・ド・ザルアナック、さま、孫……」と呻いたきり、アーサーは静止してしまう。
(立て続けに明かされたフィルの秘密に、ついに容量を超えてしまったのかしら……?)
お兄さまが面白そうなものを見る視線をそんなアーサーに投げて、「そっとしておいてあげるほうが親切だよ」とにこりとお笑いになる。
一瞬『これ、フィルが「黒い……」って呻いているあれかしら』と思ったけれど、お兄さまはそれから手を差し伸べてくださった。
「それにしても本当にあのアレックスがねえ。……ねえ、これでああなんだから、アレックスからフィルを取り上げたらどうなると思う?」
(ひょっとして踊りに誘ってくださっているの?)
目をみはりつつ、おずおずとそこに手を重ねれば、お兄さまは小さく笑ってくださった。なんだか緊張が解れる。
「やめておいたほうがいいというのは、わかるような気がしますけど……」
その気分に促されて、「何をするかわからない気がしませんか?」と思わず本音を漏らす。
「成長したねえ、ナシュアナ」
楽しそうな兄の声に一緒になって笑ってしまってから、王宮を去ってしまったあの兄妹を思った。
* * *
フィルが女性だと知ったとたん(と言ってもあの後正気に戻ったアーサーは、『私は今日ほど自分という人間の卑しさについて思い知った日はありません。最低です、騎士どころか男、いえ人間失格です。もうナシュアナさまに顔向けできません』と落ち込んで大変だったの。何が最低なのかは全然話してくれないんだけど)、アーサーはナシュアナがするフィルの話に丁寧に、そりゃあ、ものすごく真摯に耳を傾けてくれるようになった。さすが騎士の鏡と思わないではいられない。
「フィルのことが気になるの」
その証拠に、そう言ったらいつもは街に出ることにいい顔をしないアーサーが協力してくれて、あれからナシュアナは毎日デラウェール図書館に顔を出すことができた。
そうして三日目にやっとラーナックに出会う。「お約束はフィル殿ではなく……?」とアーサーはなぜか呆然としていたけれど。
「……そんなことになっていたの?」
「みたいだね。結局誤解も解けて、うまくいったようだけれど」
「迎えに来るとアレクサンダーに言われていたのに、すっぽかして犯人を追ったということよね、フィル……」
それってどうなのかしら、と思わずにはいられない。
「私……あの夜会の日、アレクサンダーに意地悪したのよね。悪かったかしら。いつも苦労しているのでしょうに……」
そう真面目に呟いたらラーナックは大笑いしていた。
「だけどいい子だったね、アレックスは。すごく可愛かったし、フィルが彼を好くのもよくわかるな」
(あのアレクサンダーをにこにこと笑いながら、『子』呼ばわり……しかも、か、可愛い……? さすがラーナックって言っていい所かしら、これ……)
「でも……フィルは僕たちの元にはもう戻ってこないのだろうな……」
「ラーナック……?」
(……テノトドカナイヒト――)
視線を伏せ、遠い場所を見るように微笑した彼になぜかそんなふうに感じてしまって、ひどく焦った。
「なんせ兄としては、今後フィルがどういう目に遭うか、とても気になるんだけど」
「え? ……え? あ、あら?」
再び茶目っ気を見せた彼に色んな疑問が一気に生じて、大事なことはなんだったかしら、と思わず目を白黒させれば、彼はさらに笑いを深める。
「ほら、フィルはたくさんの女性たちに睨まれていたようだったから。あれだけ格好いいし、騎士団でも大活躍しているんだろう? アレックス、相当な人気なんじゃないかな」
自分のことはさらりと棚に上げて彼は首を傾げると、「今度王宮に行ったら大変かなあ」と続ける。
「あ゛」
ナシュアナはその言葉に一気に硬直した。
「ど、どうしよう、フィル、来週、私の護衛に来るわ……」
夜会の晩にフィルを見ていた女性たちの様子、特に姉の様子を思い出して蒼褪める。絶対にまずい、絶対に何か起きる――。
「きょ、今日は帰るわね、帰って色々しなきゃ……」
(まずジェシーに話して、周りから話を聞いてもらって、それから……ああ、な、なにしよう……?)
すくっと立ち上がって、大事な、大事なラーナックをおいて踵を返した。
彼と一緒にいられる時間は貴重だ。もったいないとはもちろん思うけれど、いつも助けてくれるフィルのためだ。ナシュアナは彼女のことも大好きだ。
「……ま、任せておいてっ」
王宮図書館の制限書庫の入り口でラーナックを振り返って、ぐっとこぶしを握ってみせれば、彼は目を丸くした。
(そうよ、ラーナックのためにも、彼の大事な妹のフィルを守らないと……!)
その顔に決意を新たにすると、ナシュアナは再度踵を返し、書庫の目の前の階段をアーサーの待つ踊り場に向かって駆け上がった。
(でも、できるのかしら、私なんかに……?)
「って、弱気に支配されてる場合じゃない」
とにかく頑張ってみなくては――。




