12-15.体感
「……」
深夜の静寂と闇の中、フィルはベッドの上で膝を抱え、向かいの壁にかかった時計をじっと眺める。
もうすぐ日が変わる。そうしたらフィルは十八になって、それから……母の十八回目の命日が来る。
同じ時間、あの人は起きている気がする。
起きて何を考えているだろう? 母のことだろうか? それとも彼女の命を奪った娘――私のことだろうか?
外は新月。窓の外ではフクロウが鳴き、星が暗い夜空に煌いている。
時計の二つ針が、頂上を指しながらゆっくりと重なった。
「……おめでとう、フィル」
「っ」
寝ていたはずのアレックスに後ろから抱き寄せられて驚き、それから彼の腕の感触と背にあたる温かみ、何よりもたらされた言葉に泣きそうになった。
「……ありがとう」
ちょうど一年前だ。フィルの誕生日を「特別だから祝いたい」と言ってくれた彼。
あの日、誕生日を祝っても、生まれてきても良かったのだと初めて思った。そう思って初めて今まで誕生日が来る度に抱いていた胸のもやもやが、罪悪感というものだったと知った。
「温かい、です」
「そうか」
後ろからこめかみにキスを落とされた。柔らかく、優しいその感触に微かに声を漏らして笑って……、
「……」
それから込み上げてきた感情に耐えるように、唇を硬く閉じた。
(ああ、なんとなく理解できた、あの人が私を嫌う理由……)
ある夏、別荘を訪ねてきた父が何を思ったのか、肩車をして森の中を歩いてくれた。
その後、フィルは彼のことが知りたくて仕方がなくなった。
祖父と父はなんだか空気が怖かったから、祖母はそれでいつも悲しそうだったから、こっそりターニャに聞いてみたのだ。父と、それから照れ隠しのために母はどんな人だったのか、と。
『アルさまとエレンさまの仲もよろしいですけれど、フィルさまのご両親もとても仲のよろしいご夫婦でしたよ。お似合いだと評判で』
フィルの問いに彼女は破顔してそう言い、それを聞いて嬉しくなった。
祖父母が一緒にいるのを見るのは好きだった。子供心にもこの場所ではまずいんじゃないかな? と思うことも少なくなかったけれど、彼らの空気は優しくて温かい。それと同じなら、きっと父も母も優しい人たちなのだろう、と単純に思った。
きっとそれは答えの半分。そして、もう半分があの人がフィルを嫌う理由――あの人がそれだけ大事にしていた人が、フィルを引き換えにこの世から消えてしまったから。
「フィル、どうかしたか?」
「……ううん」
自分の体を後ろからすっぽり包んでいるアレックスの腕にそっと手を置く。フィルとは違う、筋肉の張りが感じられる重い腕。
大好きな人だ。もし、自分からこの彼を奪う人がいたら――。
(……きっと私もその人を嫌いになる)
フィルは彼の腕に頬を寄せる。理由の如何を考慮することもできないかもしれない。もしかしたら、ずっと許せないかもしれない。
「……」
瞳を閉じ、鼻腔に届く彼の香りに浸る。
(だとしたら、仕方のないことなのかもしれない……)
フィルを見る父の顔には、いつも嫌悪と同時に複雑な何かがある。嫌悪もだが、得体の知れないそれがフィルにはとても不気味で、正体を確かめようとしたこともなかった、と今更に気付く。
アレックスを見ようと身を捩って顔を上げれば、目蓋に唇が落ちて、阻まれた。
離れていく気配に目を開ければ、彼は穏やかに微笑んでくれている。つられてフィルもまた笑う。
仕方がないと思えるようになったのは、彼がここにいて、フィルを見ていてくれるから。
そして、それゆえに幸せだと思えるからなのだろう。
「アレックス、大好き」
「……俺も」
幸せそうな笑みとともに逆の目蓋にも唇が触れて、微笑が深まった。
鼻の奥がつんとしてきたことに、微笑んでいる彼が気付かないといい。
「誕生日プレゼント、何が欲しい?」
「じゃあ……これ」
そう言いながら、自分の胸の前で組まれている彼の腕を持ち上げてみると、耳の横で苦笑を漏らす音が聞こえた。
「生憎と俺はもう随分昔にフィルにあげてしまっているから、既にフィルのものなんだ」
「……」
赤面してしまう。背にあたっている胸が震えたあたり、絶対に気付かれている。それが少し悔しい。
「……じゃあ、時間」
「それもやっている」
「うー……じゃあ、過去のでも今のでもなくて明日の時間」
「?」
「一緒にどこかで朝ご飯食べて、一緒に……あの林、行きたいな。お弁当とそれからお茶も用意して……」
「ピクニック?」
「そう」
「釣りもいいな」
「木登りも付き合ってくださいね?」
自分との会話にアレックスが低い声で笑う、その顔を見つめる。
全身に伝わってくる温かみと、間近で繰り返される呼吸、向けられる優しい空気が嬉しくて、幸せで……なぜか泣きたくなる。
「……」
それでもう一つ理解できてしまった。
いくらあの人がフィルを嫌いでも、もうあの人を責められない。
だって、気持ちがわかるようになってしまった。こんな時間を失うことはきっと耐えられない。こんな空間を失ってしまえば、きっと壊れてしまう――。
「……星、綺麗ですね」
「ああ、ザルアほどじゃないけどな」
「なんだか不思議です。またアレクと一緒にこうやって夜空を見てるなんて」
「大人になって、こんなふうに?」
「はい。前とは違いますけど、もっと幸せです」
「俺もすごく幸せだ」
向き合って額を突き合わせれば、星明りの下でも色褪せない、青い目の端が柔らかく弧を描いた。
お互いが小さく顎を上げれば、鼻の先から鼻梁が触れ合って、離れていく。代わりにその下が近づく。
少し顔を傾けたアレックスの息が唇にあたって、次いで彼の上唇が、自分のそれを羽根のように掠めた。
「……」
こみ上げてきた切ない衝動に震えれば、柔らかく、けれど確かに彼は熱い唇を重ねてくれる。
離れ切ることのないまま、角度を変えて啄ばむように、確かめるように、キスは繰り返される。
顎を大きな手で包み込まれ、合間合間に親指が頬を撫でていく。横髪を梳き上げた彼の右手に後頭部を捕らえられ、左腕で背を抱き寄せられて、彼の胸へと頬を寄せる。
そのまま彼へと身を任せれば、全身がその熱に包まれた。
変わる関係と、変わらない関係――いつかもっと勇気が出たら、あの人と正面から話をしてみようか?
彼がフィルを嫌うこと。それが仕方のないことだとして、それはそのまま変わらないのだろうか?
それとも、変えられるかもしれない、そう信じてみる? こうして変わったアレックスとの関係がさらなる幸せをもたらしてくれているように、もしかしたら、と信じてみる……?
「誕生日おめでとう、フィル。フィルがいてくれてよかった」
そう言ってくれるアレックスこそ、いてくれてよかった、本当にそう思う。
「……ありがとう、アレックス」
いつか勇気は溜まる、いつか向き合うことができる――そう思わせてくれる特別な人と、その人がくれる特別な空間の中で、節目の一日がひどく静かに時を刻んでいく。
同じ時間をあの人がどう過ごしているか――それがいつになく気にかかる。




