12-13.不慮
天井に設置された灯火からの明かりが、床に倒れ伏した男たちと、彼らを見捨てて壁の際まで逃げた人攫いの首領を照らしている。先ほど愉悦と共に、フィルに嬲るような目を向けてきた首領の顔は、今は打って変わって真っ青だ。
彼の目の前に再び立ち、フィルはにこやかに微笑みかける。手にしたナイフをくるくると回せば、刃が光に煌めいた。
「これまでの取引の記録はどこ?」
「な、何の話……」
フィルが目を細めた直後、男の耳元でカッと音が鳴った。びくっとしながら音源から身を離した男は、そこにナイフが刺さっているのを見るなり、慌てて耳に手をやる。そして、手のひらに付着した赤い雫に、歯の根をがたがたと震わせ始めた。
「これまで攫った人の記録と売り先。残っていない? それとも元々ない?」
「あ、ったような、なかったような……」
首を傾げてみれば、男の顔に打算が乗った。音を立ててつばを飲み込み、計算を口にしようとした瞬間。
「なるほど、生かしておく価値はなさそうだ」
フィルは男の顔に新たなナイフを一閃させる。
「ひぃっ」
切り落とされた前髪が、はらはらと舞い落ちる。男は褪せた床にずり落ちた。
「い、言う。言うから、い、命だけは……」
思わず眉を寄せた。協力する気になったのは百歩、いや一万歩くらい譲って評価してもいいけれど、だらだらと脂汗を流し、口角から泡と涎をたらし始めたのはこの上なく醜い。
「フィル、もういい。見つけた」
「っ、そ、そん……」
背後からの落ち着いた声に、フィルは男に向けていたナイフを下ろした。振り返った先では、アレックスがクッションの残骸を投げ捨て、羽毛にまみれた書類とそれにまとわりつく白い羽を鬱陶しそうに払っている。
「っ、逃がすか」
フィルが視線をアレックスに向けたからか、それとも駆け引きの手段とするはずの取引記録を押さえられ、逆に首が締まることになった恐怖からか。逃げ出そうとした往生際の悪いその男をフィルは蹴り倒す。女の子たちへの非人間的な仕打ちとか自分に向けられた不快な視線とか女装とか女装とか女装とか女装とか……あれやこれやの恨みが篭って、男がすさまじい音を立てて顔から床に突っ込んでしまったのは、不可抗力だと主張したい。
(って、女の子たちの恨みはこんなもんじゃないだろうな。それなら……)
フィルは罵りを呟きつつ往生際悪く逃げようとする男の腕を掴みあげ、ひねりながらぐいっと前方へと押し倒した。悲鳴と共に鈍い音が荒れた室内に響く。
「あれ? 気絶した」
「……折れたからな」
「……納得いかない。これまで人に散々なことをしてきたくせに、自分がちょっと痛い目にあっただけで意識を飛ばすなんて」
「人の痛みに鈍感に振る舞える人間は、得てして自分の痛みには敏感だからな」
舌打ちをしながら男を眺めるフィルに、アレックスは肩をすくめた。
「拘束しよう。女性たちを確認しに行く」
「ええ」
こいつらのせいで彼女たちが味わった恐怖はどんなものだっただろう、と思って、フィルは男の折れた腕を蹴る。
「む、起きない。彼女たちが望むようなら一発殴らせてあげるか、恨み言を言わせてあげるかしたかったのに。そしたら少しは気が晴れたかもしれないのに」
ぶつぶつ言いながら、男たちをきつくきつく縛り上げていくフィルの背後で、アレックスは呆れたようにため息をついた。
「っ」
その部屋ですべきことを一通り終え、廊下へと足を踏み出そうとした瞬間、背後から腕が伸びてきた。体ごと浮かせるように後ろへと抱き寄せられて、全身が彼の熱と香りとに包み込まれる。
いつになく強引な仕草に、息が止まった。
「……アレックス……?」
耳に届くのは彼の呼吸の音。視界の端に入る真っ直ぐな黒髪と吐息が首筋をくすぐり、背と腕からは体温が伝わってくる。
部屋がいきなり静かになった気がするのは、自分の心臓の鼓動が鮮明に聞こえ出したせいだ。
「フィル……」
掠れ声が直接耳朶を打ち、思わず体を震わせた。瞬間、腹部に回された腕にさらに力が篭る。
「……」
頭の片隅が、早く女性たちのところへ、と囁くのに、拘束は強くて、なのにひどく甘い。耳へと近づく唇の気配に、体だけではなく意識まで囲い込まれてしまう。頭が痺れ、力が抜けていく。
だが――、
「駄目だろう、ああいうことを打ち合わせもなくしたら」
「うっ」
幸いというべきか、すぐちゃんと元に戻れた。
アレックスの腕の中で音を立てるかのように固まったフィルは、今度は冷や汗を額に浮かべる。
「えと……た、偶々? わ、忘れ物しちゃって、取りに行ったら……」
「俺が気付かないとでも思っているのか」
「う」
往生際悪く足掻いてみたものの、さすがというべきか、アレックスはくぐもった声のまま即座にそう返してきた。やはりばれている。
「だ、だって……、っ」
言い訳を重ねようとして、さらに強まった締め付けに、フィルは言葉を飲み込んだ。
「何かあったら……どうする気だったんだ」
(あ……)
鼓膜を揺らす本当に微かな声に、一瞬で後悔が湧き上がった。背に伝わってくる体の細動も、本当に心配している時のものだとようやく気付いて、胸を震わせる。
「ご、ごめ……」
自分の体に巻きつけられた彼の腕を、思わずぎゅっと自分へとかき寄せた。
「ごめん、なさい……だって……」
なんとか搾り出した声が、あまりに情けない響きだったからかもしれない、少しだけ締め付けが緩んだ。同時に肺が自由になって、口にするのは卑怯だと思うのに、言い訳が口から零れ出てしまう。
「だって、いなくなった子、みんな一人だったって……」
田舎から出てきたところで、身寄りがいない、そんな子たちだと聞いた。それで『一体今どんな気持ちでいるんだろう……?』と思った。
フィルもそうだった。誰もいなくなって、全部なくして、王都に出てきたあの頃、不安で怖くて、寂しくてどうしようもなかった。毎日見えない何かに押しつぶされそうだった。
ただでさえ不安で仕方がないそんな時に、その上こんな目に遭ったら……? そう思うと胸がどうしようもなく痛んだ。
そうじゃなかったら、こんな格好しない。あんなふうに嫌だと思いながら、人前で歌ったりしない――。
「…………それでも無理はして欲しくない。俺はフィルに何かがあるのが一番嫌だ。フィルに何かがあれば耐えられない」
しばしの沈黙の後に迷うように発せられた声は、直接脳に届いた。その音の持つ意味に唇が戦慄き出す。
「それ、に……いい加減、アレックスの所に帰りたかった……」
何かを言わなければ、という衝動ゆえに出てきたのは、一番内緒にしておくはずの言葉だった。
背後のアレックスの体が硬くなった気がした。数秒後に彼は彼らしくない呻き声を上げ、背に圧し掛かる重さが増す。
「って、ア、アレックス?」
それがなくなったと思った直後、体に巻きついた腕に腰を捕らえ直されて、体を反転させられる。
「フィルが悪い……」
動揺のまま見上げた黒髪の向こう、怖いほど真剣な青色の瞳と目が合い、フィルは思わず身を竦めた。
伏せた顔をアレックスが下からのぞきこんでくる。焦がれ続けてきた青い目が徐々に近づいてきて……
「フィルっ、アレックスっ」
「ディラン、いるかっ」
「……」
馴染みのある声の数々にまん丸くなった。
そして、彼は「なんで今……」と呟いて、ガクリと肩を落とした。
* * *
部屋に踏み入ってきて、フィルとアレックスの無事と、アレックスが差し出した証拠の書類をざっと確認した後、仲間たちは「今度は大人しくしてろ」という言葉を残して、残りの犯人の確保やその他の確認のために再び駆け出していった。
直後に隣の建物で、歓喜のような泣き声のような高い声が幾つもあがった。こちらと同時にあちらにも騎士たちが踏み入ったと言っていたから、被害者の女性たちが無事に解放されたということだろう。
『っ、なんっど言ったら、わかるんだっ、この馬鹿っ。お前っ、今度という今度は――』
『不測の事態により、ディランが攫われてしまいました』
『……』
『跡をつけて監視するように、との命令でしたが、不慮の出来事が重なり、やむを得ず現況に到っております。勝手な真似をして申し訳ありませんでした』
『……庇う気か?』
『事実です。なお、結果論で恐縮ではありますが、手段は違えど、目的は達しています』
『……やることやったんだから、文句言うなって脅してる微笑みなのか、それは?』
廊下に出たフィルを見つけるなり、すごい勢いで走ってきたのは、ウェズ小隊長だった。髪も赤ければ、顔もいつになく赤いです、怖いです、という、そんな彼おなじみのお小言は、またもやアレックスによって防がれる。
『……そう、だよな、ただでさえキレてたのに、その上フィルを人攫いん中に入れたまま様子見なんてお前がする訳ねえよな……素直に頷いた時点でおかしいって気付くべきだった……』
最後にそんなことを呟いて、どこか遠くを見ていたウェズに、ちょっと申し訳ないことしたかもと一応思わないでもない。
「いいか、ここで大人しくしてろ。呼吸以外なんもするんじゃねえ」
恐ろしい顔をしたウェズに、廊下のど真ん中に立たされる形で待機を言い渡されたフィルは、ふと視線を窓の外に投げる。
天は相変わらず厚い雲に覆われていて、星の光も見当たらない。
「……終わりましたね」
真っ暗なその空間を見るともなしに見ながら、フィルはアレックスへと声をかけた。横に彼が並ぶ。
「そうだな、他の小隊はこれから忙しくなるだろうが……」
落ち着いた声を聞きながら、視界の端に入った艶やかなオレンジに目を移すと、外套の下からのぞくドレスの裾はざっくり破れていた。それを見ながら、足を確かめるように動かせば、これまでが嘘のように自由に動いて……そんな自分を見ているアレックスと目が合う。
「……」
いつものように、目と口の端を緩ませて小さく笑い、頭をぽんと叩いてくれた彼の顔に、そういえば、アレックスは私がどんなふうでも本当に変わらないなあ、とふと思った。
「……ふふ」
頭に置かれた大きなてのひらの感触が、なんだかとても温かい。




