12-7.思い出の(後)
「……よし。完璧」
手も顔も粉だらけにして、小さな石窯の内部をのぞき、フィルはにっこり微笑んだ。先端に薄板のついた長い棒を中に差し込み、焼き上がったパイを慎重に取り出す。
「……ふあ、おはようさん、フィル。ああ、綺麗な出来じゃないか」
「おはようございます、女将さん。ふふ、いいでしょう?」
「随分早起きしたんだねえ。……ははん、これから一日デートかい?」
「あー……はい、そんな感じです」
「ったく、デレデレしてからに。この子が本当に男の子に見えてた子かねえ」
照れて笑えば、女将は豪快に笑った。
「だけど、好きな子にまた出会って、その子だって知らないのにまた好きになるなんて、すごいことだよねえ」
「好きな子……?」
「そう、好きな子。なんつったっけ、『アレク』? というか同じ名じゃないか、あんたも気付いてやんなよ」
女将は笑うけれど、言われているフィルは目が点になった。
メイに強請られて一緒に焼いておいたアップルパイを切り分ける手が止まる。
「ええと、私がアレクを好き、だった……?」
「……呆れた、あんたそんなことも自覚なかったのかい?」
あくびをしながら目覚まし用の濃い茶を入れていた女将は、一気に目が冷めたように目を丸くし、カップを持ってテーブルの向かいの椅子を引いた。
「だって、『アレク』は女の子で、親友で……」
「会いたくて仕方なかったんだろう?」
「それはそうですけど……」
椅子に座って茶を口に運んでいる女将は、茶の立てる湯気の向こうで、そう答えたフィルに目元を綻ばせる。
「しんどかった時にいつも思い出してたってのも、その子なんだろう?」
「そう、ですけど」
「あんた、捜しているその子が王都にいるはずだから、見つけて今度はずっと一緒にいるんだって言ってたじゃないか」
テーブルの上に戻された陶器の底がコンと音を立てる。
「……そう、ですね」
「ほら、それが恋じゃなくてなんなのさ?」
そうにっこり笑われて、フィルは言葉を失った。
「好き、アレクを、私、が……」
段々頬が熱くなってくる。そんなフィルに女将はにやりと笑った。「内緒にしといてやるよ」と言いながら。
まだ薄暗い街を騎士団の宿舎に向かって歩き始めた。
(日の出だ……)
東の空の裾がオレンジに染まった。徐々に強まっていく太陽の光に照らされて薄い雲が黄金色に輝き始める。だが、王都を包む空気は変わらず冷たい。
ザルア山脈のロギア爺の山小屋に泊まった翌朝、アレクと地平線から昇る朝日を眺めたことを思い出す。
日の出を見てみたいと言うから起こしたのに、中々起きず、ロギア爺が呆れていた。その後鼻を摘まんだりして何とか起こしたものの、終始寝惚けていて、いつもしっかりしている分ギャップが壮絶にかわいかった。
「あのアレクを好きだった……って、そうかも」
言われてみれば、確かにアレクに持っていた気持ちは、今アレックスに対して抱いている気持ちに一番近い。親友と言っても、ヘンリックに対するものとは明らかに違うし。
「けど、私って一体……」
まだ温かい箱を大事に抱えつつ、フィルは人気のまだない通りのただ中で思わず呻いた。
考えてみれば、アレクに始まり、ドキッとするのも、笑いかけられてふわふわした気分になるのも、常に女の子もしくは女性――超微妙な発見をしてしまった気がする。
「……内緒にしておこう」
例外はアレックスだが、全部ひっくるめて知られるわけにはいかない。
「ただいま、アレックス……って、起きてるわけなかった」
そうして宿舎に辿りついたが、部屋はまだ寝静まっていた。
朝に弱いアレックスが、休みの日のこんな時間に自発的に起きていることなんてまずない。
(……アレクの頃のまんまだ)
くすっと笑って肩をすくめると、フィルは気配を消して彼のベッドの横を通り過ぎた。
「……」
抱えていた箱を窓際のテーブルに置くと、甘い匂いが室内に漂い出した。嬉しくなる。
それからお茶の準備をしておこうと台所へ向かい、途中思い直して彼のベッドに近寄った。
普段は見られない、あどけない寝顔をのぞき込んでいるうちに、なんとなく手が頭に伸びた。さらさらの黒髪が指の間から零れていく。
(……好き、だな)
アレックスを見るたびに、いつも実感する。
一緒にいられて嬉しくて、目が合って笑ってくれると本当に幸せで、何をしているのかどこにいるか気になって目で追ってしまって、ずっと一緒にいたくて、そのためならなんだって頑張れると……。
「ああ、うん、これも一緒だ」
フィルはふにゃりと笑う。それからアレクとはすぐに離れる羽目になったことを思い出して、こんなに好きな人とこんなふうに一緒にいられるのはすごいことなのかも、と思った。
「でも……今のほうが好きだな」
ぼそっと呟いて、彼の頬にそっと触れる。
見つめられて泣きたくなるのは今だけ。こうやって触れたくなるのも触れられてドキドキするのも痺れるような感覚に包まれるのも今だけ。それに……、
「つ、付き合ってるし」
ちょっと前の発見を呟いて一人で赤くなった。
(だから、ちょっと、ちょっとだけいいかな……)
もちろん部屋には自分たち以外誰もいないけど、なんだか後ろめたくてフィルはきょろきょろと周囲を確認する。
それからドキドキしながら顔をアレックスへと寄せた。
「……」
唇が彼の頬に微かに触れた。瞬間、痺れるような感覚が走る。
甘いような、くすぐったいような気持ちが広がっていって、思わず頬を緩めた。直後に青い瞳と視線が絡んだ。
驚きで硬直する間に腕を取られて視界が反転する。
「ア、アレッ……」
体の上にアレックスが覆い被さり、唇が重なった。彼の名を口にしようとしたのに、歯列を割り入ってきた舌に絡め取られる。広がっていく甘い衝動に肌が粟立った。いつもよりずっと激しく、息すら奪われるほどひたむきに求められて、覚えた疑問を問う間もなく体の芯が熱くなっていく。
「……」
長い長いキスが終わって、アレックスの顔が離れた。空気を求めて半開きになっているフィルの唇を、彼は強い視線で見つめたまま、ゆっくりと指で撫で始める。
体がまた震え出す。魅入られたように青い瞳を見つめていると、アレックスの指が今度はシャツにかかった。緩められた襟元から覗いた鎖骨を、掠めるように撫で始める。
「……っ、って、そうじゃないっ」
妖しい感触に我に返って、慌てて彼の顔を押し返した。
(あ、危なかった、本当に危なかった、いつもの事ながら、アレックス、時々めちゃくちゃ危険だ……)
「……」
「……? どうしました?」
肩で息をしながら睨めば、彼は表情を消した。違和感を覚えてじっと見つめれば、彼は苦笑する。
「いや、おかえり。あと、おはよう、フィル」
「お、はようございます……?」
そうしていつものように額にキスしてくれたのだが、違和感がますます強まった。
(ええと、なんだろう、なんかおかしい。それに……苦笑? だって今日はいい日なのに……)
「……おお!」
駄目じゃないか、肝心なことを忘れていた――そう思いついて、フィルは自分の上から降りようとしていたアレックスの首筋にぎゅっと抱きついた。そこから彼の匂いが漂ってきて、すごく幸せな気分になる。
「誕生日おめでとう、アレックス」
「…………え」
呆然としているような、彼には珍しい声に目を丸くする。
急いでその顔を覗き込んで、それから笑った。こっちも声のとおりの珍しい表情だったから。
くすくすと笑いながら、ベッドから下りて窓辺のテーブルに向かった。そこに置いていた箱をアレックスに向けて開ける。
「見て、木苺のパイ」
「……」
「ほら、昔作り方を教えてくれたでしょう? あれから自分で作るようになったんだ。久しぶりだったから、リアニ亭の女将さんちでちょっと練習させてもらって……でも今日のは特に最高!」
「木苺、の、パイ……」
唖然としてる彼を前に、内緒で準備してびっくりさせようと思っていたフィルは得意になる。去年の誕生日はびっくりさせたいと思っていたのに、結局上手くいかなかったのだ。それに比べたらすごく成長している。
「誕生日、って……俺のか……」
まだ寝ぼけているのだろうか? やっぱりちょっとかわいくて、さらに上機嫌になる。
「うちの家、誰も甘いの好きじゃなかったから作ってもいつも独りで食べてて、だから誰かと一緒に食べたいなあって。で、どうせならアレクと一緒って決めてたから」
すごく嬉しい。やっと、やっとその時がきた――。
「プレゼントのつもりだったんだけど、やっぱり一緒に食べよう? 絶対にその方が美味しい」
「木苺、の、パイ……」
ザルアの森で木苺摘みに出かけた時の記憶が蘇った。
目の前では、成長したフィルが甘く香ばしい匂いを放つパイを両手で掲げて、得意そうに笑っている。
「誕生日、って……俺のか……」
そういえばそうだ、と彼女の言葉を反芻する。
「どうせならアレクと一緒って決めてたから」
照れたように、だが、幸せそうに笑うその彼女をアレックスはひたすら見つめる。
「プレゼントのつもりだったんだけど、やっぱり一緒に食べよう? 絶対にその方が美味しい」
(じゃあ、リアニ亭にはそのために……)
「だから本当のプレゼントは、今日のデートでアレックスが決めてくださいね」
「……」
目の前でにこにこ笑い続けているフィルを見ていると、笑いが込み上げてきた。
何に笑っているのだろう……? いらない心配をしていた自分に? それともあのパイを特別だと思ってくれていて、それを自分のためにわざわざ作ってきたフィルに? それを昔と同じ台詞で分けようとする彼女に?
「……くっ」
(リックじゃないが、フィルが関わると本気で格好悪い――)
自分の間抜けさに思わず声を立てて笑えば、間違いなく事情を知らないはずのフィルはそれでさらに嬉しそうになった。その顔がひどく愛しい。
「待っててください、お茶淹れてきますから。……っ、アレックス?」
「ありがとう、フィル。嬉しいよ、すごく……」
パイを一度テーブルに戻した彼女を捕まえてきつく抱きしめれば、触れ合う場所からいつものように温かみが広がっていく。
漂ってくる、甘いのにどこか透き通った香りに、失われることのない感情がさらに募る。
「だから、お茶は後でいいから、もう少しだけこのまま……」
「う、ん……」
おずおずとフィルが背に手を回してくる感触と、その後彼女が腕の中でもらした微かな笑い声に泣きたいほどの幸せを覚えた。
なんて特別な日なのだろう? 誕生日だけじゃない、フィルがいると毎日が特別になる。そんな日常を手にできていること――それこそが嬉しい。




