12-6.思い出の(前)
年が明けたとはいえ、日はまだ短い。勤務を終えたフィルが、リアニ亭についた時には辺りは既に真っ暗だった。
(楽しんでるかな)
アレックスは今日、オッズやスワットソンたち同期と飲みに行くらしい。「誘われた……」と話してきた時の彼の微妙に不思議そうな顔を思い出してくすっと笑うと、息で視界が白く濁った。
商売の守護神である女神と蛇の彫られた古い木造りの扉を押し開け、内部へ足を踏み入れる。
様々な料理の匂いと微かな酒の香り、陽気な話し声と、所々に置かれたストーブが生む熱気――冷えた体が一気に温まった気がする。フィルは外套を脱ぎながら、カウンター越しに忙しく働いている女将を見て微笑んだ。
「こんばんは、女将さん」
「おや、フィルじゃないか。珍しいね、今日はアレックスと一緒じゃないのかい?」
スープを皿によそいながら女将が白い歯を見せて笑う。
「同期と飲みに行くんですって」
そう返事して、フィルはカウンターに腰掛けた。
「それにしてもあんたの噂、最近すごいねえ。うちにも色んな人が聞きに来るもん。あんたが女って本当かって」
話をする間も彼女は決して手を休めない。ここに来た当初はそんな器用な芸当が出来る彼女を見て、フィルは激しく尊敬した。
「よう、フィル、最近お前が女だって噂が……げ、マジか」
「げって……さすがにひどくない?」
ここの常連のパン屋のジョゼが、最近押さえつけることをやめた胸を露骨に凝視してきて、フィルは顔を引き攣らせた。「ほらね」と女将が肩を竦める。
ジョゼの後ろにいた花屋のリンが彼の頭をバシッと叩き、「失礼にもほどがあるわ。ていうか本当に気付いてなかったの?」と呆れたように言ってくれた。
「アレックスと一緒にいるところを見ても気付かんとは……お前の春は真剣に遠いだろうなあ」
「どう見たってラブラブだっただろ、ジョゼぇ、お前、マジで鈍いな」
そう笑った鍛冶屋のマックス爺を皮切りに、食堂のあちこちから同意の声が上がった。
赤面してしまったけれど、誰も彼もフィルの性別を気にしている様子はなくて、ほっとした。
「フィルっ」
女将の娘のメイが一部自宅となっている二階から階段を駆け下りてきた。いつものように抱きついてきた彼女を、今日はいつになく神妙な気分で抱き止める。
それから膝を落とし、目線をあわせた。フィルを男だと信じて、『お嫁さんになる!』と言ってくれていた彼女は、フィルが最も謝らなくてはいけない相手の一人だった。
「メイ、ごめんね。内緒にしてて……」
「……いい。お母さんが話してくれた。女の子が一人で生きたいように生きていくのは大変なんだって、フィルが騎士になるのに必要なことだったんだって」
「メイ……」
再びぎゅっと彼女を抱きしめると、細く短い腕で一生懸命抱きしめ返してきてくれた。胸が詰まる。
「それに女の人の方がいいって」
「ん?」
……のも一瞬だった。
(方がいい? 女の人? ……何のこと?)
「だって私『は』いっしょに寝てもいいんでしょう?」
(いや、はにかんでニコニコ笑ってるのは可愛いんだけど……何の話?)
フィルは思わず首を傾げる。
「フィル、だめだぞ、うなずいちゃ。フィルは俺といっしょに寝るのっ」
「っと」
メイの弟のラルクが急いで階段を下りてきて、フィルの背に飛びついた。ここで暮らしていた時より大分重くなっていて、大きくなっていることを実感する。が、今の問題はそこではない。
「だーめー、ラルクは男の子だもん。だからだめってみんな言ってるし」
「な、なんでだよっ」
「そんなことしたらアレックスに嫌われるんだって。でも私は大丈夫なんだって」
「っ、ア、アレックスはそんないじわる、言わないぞっ」
フィルを挟んで前と後ろで喧嘩を始めた姉弟と、その彼らをげらげら笑う常連達。
「メイ、そう言われたの? みんなに? …………子供に何を吹き込んでるんですか」
こくりと頷いたメイに呆気にとられた後、フィルは思わず周囲の大人たちを睨んだ。
もちろんと言うか、いつものことと言うか、彼らはそれで余計笑うのだけれど。
「ほら、商売の邪魔だよ、さっさと上に行って寝なっ」
女将さんがフィルの好物のスープを持って来てくれて、子供たちを追い立てる。
「フィル、今日泊まってく? おはなし聞きたい」
「歌、歌がいい、子守唄歌って」
「フィルは明日も早くから仕事があんだよ、我がまま言わないっ」
母である女将に姉弟は仲良く声を揃えて文句を言った後、フィルに手を振って階上へと上がっていった。
そこからは大人だけ。美味しい料理をつつきながら、皆と会話するうちに、リアニ亭の食堂は閉店の時刻を迎えた。
常連たちの多くは明日の仕事に備えて家路につき、残りはジェットの酒場に雪崩れ込むと言う。誘われたフィルは後で行くと告げて、店の後片づけを手伝い始める。
「別に手伝わなくったっていいよ、仕事で疲れてんだろう?」
「んー、でもこうやって女将さんと話すの、好きですし」
そう言うと、豪快に「嬉しいこと言ってくれるねえ」と笑ってくれるその顔がとても好きだ。
「それにしてもあんた、ほんと噂に事欠かないねえ。こないだもなんとかって運命神の巫女さまを救うのに派手にやったんだって? おまけに女だってばらしちまうし」
「もうそろそろいいかなあって。いつまでも隠しておくのも嫌だったし。そうしたら結構ばれていたみたいで、ちょっとびっくりしました」
「まあ、そりゃそうだろうねえ、あんた美人だし」
「びじ……」
顔を赤くすれば、皿を洗う石鹸だらけの手を休めて、にっと女将は笑った。
「ああ、でもアレックスは気が気じゃなくなってるだろうねえ」
「? なんで?」
「ぷはっ、あはははは、それが原因だろうっ」
笑い続ける女将は謎だったが、やっぱり空気が優しくて、つられてちょっと笑ってしまった。
以前ここで給仕をしていた時いつもしていたように、床の掃き掃除をして、最後にテーブル上に上げていた椅子を元の位置に戻した。
「ありがとうね、お茶にしようか」
これも同じだった。仕事終わりの一杯に甘みの強い茶を差し出してきてくれた女将と一緒に、再びカウンターに腰掛ける。
「それで、女将さん、ちょっとお願い事があって……家の方にある台所、何回か使わせてもらえませんか」
「そりゃいいけど、何するんだい?」
「ええと、その、」
頬杖をついて話していた女将が眉尻を跳ね上げた。フィルが顔を赤くしたことに気付いたのだろう、にやっと笑う。
「へえ、女心、手料理って奴?」
「? 女心? 手料理?」
それは意味がわからない、と思わず眉をひそめれば、女将は顔を引きつらせた。
「いや、あたしが悪かった。そんな発想、あんたがするわけないわ」
どういう意味なんだろう、と思ったが、「いーのいーの、あんたはそれで。で、何?」と流されてしまった。
それからポツリポツリと事情を話し始める。
女将はびっくりしながらフィルの話を聞き、最後にまた笑ってくれた。「なんていうか、どこまでも色々起こるんだねえ、あんたの人生」と。
それで、フィルは次の休みの日に、リアニ亭の二階の片隅にある、ほとんど使われていない家族用の台所を借りることになった。
* * *
「フィル、明日の休み、どうする?」
夕飯を終えて部屋に戻るなり、アレックスはフィルを腕の中に閉じ込めた。
「明日は、」
答えを返そうとする唇に口付けを落とす。どうせ明日は休みだ。一晩中起きて、というか彼女を抱いていても問題はない。
「ん……」
邪な思いを悟られないうちに、後頭部を押さえて口づけを深めていく。
上着に手をかけて脱がせ、自分の上着も脱ぎ捨てた。そんなことすらもどかしいのに、フィルは顔を真っ赤にしながら、腕を胸に突っ張ってきた。
「あ、あの、明日は行きたい所があって……」
「行きたい所?」
質問に答えようとする律儀さに微笑むと、会話をつなぎながら、白いうなじに息を吹きかけた。
「っ」
フィルはきっとそれを偶然だと思っているのだろう、体を一瞬震わせたが何とか声を飲み込んだ。
「はい。そのリアニ亭に……ん」
「別に構わないが。何時だ?」
次は耳朶。腕の中でフィルが首筋を赤く染め、体を震わせるのを見て密かに笑う。
「ええと、正午、です。その、ひ、一人で行きたいなあ、なんて……」
「……」
(一人、で……?)
思わずまじまじとフィルを見てから我に返った。敢えて一人で、とフィルが言い出すのは初めてのことだったし、何より当然のように一緒にいるつもりだった自分にひどく驚いた。
「あの、駄目、ですか?」
「いや……」
居心地悪そうに視線を揺らして見上げてくるフィルの顔に、『束縛』という言葉が頭を過ぎる。してはいけない、と理性が働いて、アレックスは何とか微笑んだ。
「いや、皆によろしく伝えておいてくれ」
動揺の痕跡を隠そうと、フィルに再びキスを落とし、そのまま彼女をベッドへと引き込む。
その時はまだそんな余裕があった。
「あ、明日もちょっと……」
二回目の休み。
「……そうか、まあ、じゃあ、気をつけて」
何だ?と思うのに、みみっちいことのようで問い質せなかった。
それでもその夜、いつもと同じようにアレックスの与える刺激に反応し、腕の中で嬌声をあげ、達する瞬間に自分の名を呼んで縋ってくるフィルに、「大丈夫」そう思えていた。
「え、あ、今日は泊まりでってラルクと約束しちゃって」
三回目――いい加減おかしいと思う。
さりげなく理由を聞いても、フィルは怪しいとしか言い様のない不自然さで話をはぐらかす。露骨に目が泳いで、しどろもどろになって、いきなり「ちょ、ちょっとヘンリックに用事が」などと言い出して駆け出して行くのにおかしいと気付かない人間はこの世にいない。
(何かを隠しているのは確実……)
基本的に思ったままのことを口にして、思いつくままに行動するフィルが隠し事……それだけでも十分異常だと思うのに、女性と明かしたせいだろう、最近彼女の周囲にいる男達が不穏な気配を漂わせているのを嫌というほど実感していることもあって、あまり穏やかな心境ではいられない。
「……」
泊まりの着替えを小さめのかばんに詰めているフィルを、ベッドに腰掛けたまま何食わぬ顔で眺めているが、頭の中は……
(本当にラルクか?)
もちろん聞ける訳がなくて、口をつぐんだ。
「ふふ、そういえばラルクがアレックスに、自分が私と一緒に寝たら嫌いになるか聞いておいてくれって」
「なる……訳がないだろう」
その時想像していたのは大人の男で、それに伴って『寝る』が違う意味に響いて、咄嗟に本音が漏れた。……大人気ないにもほどがある。
落ち着け、相手は五歳児だ、とアレックスは自分に言い聞かせる。
父親がいないせいだろう、アレックスの膝の上に乗りたがり、フィルだけでなくアレックスにも泊まっていってと強請って泣くような子だ。大体そういう意味の『寝る』なら、嫌いどころでは絶対にすまない。
「ねえ。それなのにメイにそうからかわれて、ラルク、拗ねちゃって」
くすくす笑うフィルの顔に陰りはない。
(大丈夫、だよな……フィルだし……)
それでも確かめたかったのかもしれない。
「っ」
深く考える前にフィルを引き寄せて、その胸に顔を埋める。
彼女の柔らかい感触、心臓の音、鼻腔に届く甘い、柔らかい香り……最初硬かったフィルの体から力が抜けた。彼女の指が髪を優しく梳き始める。
「ねえ、アレックス、次の休み、何かしたいことありますか?」
「……一緒にいられればそれでいい」
また本音が零れてしまう。それでも髪を撫でるフィルの手は止まらない。知らず息を吐き出した。
「他には?」
「何も」
――フィルがいてくれるだけで満たされる。
フィルが「そう?」と呟き、微かに笑う。彼女の心音を聞きながら目を閉じ、アレックスもつられて口元を緩ませた。
そうして迎えた、四回目の休みの前の晩。
明日の予定をあれこれ聞いてきては楽しそうにしていたフィルの様子に密かに安堵していたアレックスへと再び――。
「リアニ亭に行ってきます!」
フィルは歌い出すのではないかというぐらいうきうきと宣言した。
「……」
(わかりやすいのに、まったくわからない……)
情けないと思うし、もう何度目かもわからないが、頭が真っ白になった。
それから、フィルはいつもそうだった、ここまできても変わらないのか、と呻き出しそうになる。
「朝には帰ってきますから」
ニコニコと笑って泊まり用の一式を持って出て行くフィルを、咄嗟に引きとめようと腕が動く。
「……気をつけて」
が、寸でのところで押し留めた。
そうできたことを喜ぶべきなのか嘆くべきなのかわからず、アレックスは閉まった扉の内で、一人天を仰ぐ。
その晩、傍らにいないフィルに眠りを奪われた。
(何をしているのだろう、何を考えているのだろう……?)
理解したい、だが、し切れない。誰よりも側に行きたい、だが、行き切れているかどうかわからない。
浮かんでくるのは、金色の髪の合間から覗く、猫目気味の目に収まる緑の瞳だ。様々な感情を湛えてこちらを見る、ずっと焦がれてきた、あの……――。
夜はそういう時間なのだろう、昼であれば有り得ないと一笑に付すことにまで思考が広がり、応じて不安が全身を侵食していく。顔を見れば一瞬でそんな不安はなくなるのに。
結局アレックスはほとんど眠れないまま朝を迎えた。気が遠くなるような、長い長い時間だった。




