12-2.謎
「ん……アレックス? おかえりな……」
深夜戻ってきた彼の気配に、寝ていたフィルは瞼をこすりながら身を起こし……固まった。
予感は当たった――
(これ、まずいやつだ……)
顔が引きつる。自分に向けられている、薄闇の中でなおわかる青色の瞳――あれは怒っている時のだ。
気分は寒々しいことこの上なくきっかり真冬。そりゃあ今は冬だけど、とフィルはごくりと生唾を飲み込む。
「え、ええと、た、楽しかった、ですか……」
「いつも通りだ」
それこそいつも通りの答えだけど、絶対いつも通りじゃない――寝ぼけていた頭を無理やりかつ全力で動かし、何が悪かったのか、必死に考える。
付き合っているのかと訊いたこと――そうすぐに思い当たったものの、それの何がいけなかったのか、相変わらずわからない。が、本人に聞ける雰囲気でも一切ない。
フィルから目を離したアレックスが、いつになく荒い仕草で上着を脱いだ。無言のままそれを自らのベッドに放り投げる。彼らしくないその様子にフィルは頬を痙攣させる。
それから彼はシャツの襟元を緩め、再びこちらを見た。
「う」
(まずい、生命の危機を感じる……)
近寄ってくる、獲物を狙っている獣に似た気配に、フィルは習性のまま枕元の剣へとじりじり後退する。
「フィル……」
(え)
けれど、ヘッドレストまで追い詰められたところで、目の前から響いた声に、俯けていた顔を跳ね上げた。ひどく苦しそうに聞こえた。
「っ」
交わった目の中に浮かぶ、焔のような強烈な色に、心臓が音を立てる。その瞬間、後頭部と腰を捉えられて、唇が激しく重なった。
「……ん」
酒の匂いが鼻腔に届く。アルコールのせいで温まっているのか、いつもよりずっと熱い彼の舌が口内に侵入し、自分のそれが絡め取られる。いきなり激しくすりあわされ、吸い上げられた。
水音を立てながら、口蓋の形を確かめるように舐め上げられて、痺れるような快楽が全身に走る。過ぎた快感を減らそうと身を捩ると、逃がすまいとするかのように、後頭部と腰をぐいっと押さえつけられた。その仕草がいつもよりずっと荒々しくて、肌が知らぬ間にあわ立っていく。
「……っ」
夜着の上から、それ以外に隠すもののない胸へとアレックスの大きな手が触れた。頂に指が落ち、さらに掌全体で持ち上げるようにその場所を緩やかに刺激され、フィルは息を乱す。
「フィル、付き合ってもいない男とこんなことするのか」
耳元で吐息と共に囁かれた言葉に体を震わせた。
「アレック……」
何とか顔を見上げれば、視線が絡んだ瞬間、彼の顔が苦しげに歪んだ。すぐに口づけを受けて表情が見えなくなったから、それが本当だったか確かめられない。
「待っ……ん」
いつにない様子に焦って、先ほどの問いに答えるべく、考えをまとめようとした。なのに、下肢の付け根に指が伸ばされて、頭が真っ白になる。
そうして、加え続けられる刺激に翻弄され、フィルは馴らされた快感の波にのまれていった。
あれからどれほどの時間が経ったのだろう。じりじりと焦らすような刺激を、気が狂うと思うまでに延々と全身に与えられた。その果てに、やっと望んでいたものをもらえると安堵したのも束の間、彼は動きを再び止める。
「アレックス……」
先ほどから何度も繰り返されるそれに、フィルは目じりから雫を零すと、縋りつくようにアレックスへと手を伸ばす。その腕がいつものように受け止められたのに、ほっとしたのも束の間。
「誰でもいいんじゃないのか……?」
これまで聞いたことがない皮肉を含んだ声が耳朶を打った。でも、零れ落ちた涙を唇で拭ってくれる仕草はいつもと同じ――それでフィルはさらに混乱する。
「あ、や……ちが……」
「付き合ってないんだろう?」
優しく髪を梳いてくれる仕草とは対照的な、暗さと苛立ちを含んだ言葉が、彼の薄めの唇から漏れ出、直後に激しいキスで返事を封じられる。同時に、彼は動きを荒々しく加速させ、結局なんの話をすることもできないまま――フィルはその晩、アレックスによって意識を失うまでの快楽に引き摺り込まれた。
* * *
明け方。冬の日の出は遅く、外はまだ薄暗い。
「……」
目を覚まして、自分がアレックスの腕に抱えられていることを知ったフィルは、安堵の息を吐いた。
昨日のアレックスは怒っていて、苛ついていて、そのせいかとても意地悪だった。けれど、何よりフィルが不安になったのは、そうしながらも彼が苦しそうだったこと。
「また何かを見過ごしたのかな……」
彼の寝顔を覗き込む。
どこか苦しげに見えるのは、やはり私のせいなのだろうか――そう考えてフィルは溜め息をついた。
アレックスの様子から考えるに、『付き合っている』という答えを望んでいたのだと今はわかる。
ただ、相変わらず付き合っていると好き合っている、それのどこかどう違うのかがわからない。
「ただ好きなだけじゃ駄目なのかな」
それを初めて伝えたのすら一昨日のことだ。それが遅かった事はわかるし、反省もしている。
震える指先で、そっとアレックスの頬に触れてみる。実はこっそり時々していることだけど、今朝はいつもよりずっと緊張した。
「……」
頬から指を動かし、鋭利な印象のある顎を触れるか触れないかの距離でなぞって、フィルは眉根を寄せる。
きっと付き合っていることと、好き合っていることの違いだって、フィル以外の人には自明のことなのだろう。
(実際、昨日、小隊のみんなも引いてたもんなあ)
思い返してフィルは自嘲した。
『付き合ってもいない男とこんなことするのか?』
「……付き合っているとか、やっぱりよくわからないけど、好きだからするのに」
アレックスに触れられると嬉しいから。アレックスに触れると嬉しいから。身体全体で幸福だと、そう感じるから――。
フィルは彼の寝顔を見つめたまま、口をへの字に曲げる。
そして、若干薄めの形のいい唇と、引き締まった口元に視線を移して、思いっきり顔をしかめた。
「……溜め込んで逃げる前に直接訊けって言ったくせに」
『頼む。この前の夜会のような思いを何度もするのはさすがに心臓に悪い』
二日前の晩、アレックスに連れられて訪れた森の中の小さな邸での話だ。深夜に目覚めて、アレクサンドラとの出会いに始まる一連の話をしていた時に、そうやって苦笑しながら、この口がそう言った。
「訊いたら怒るって理不尽だ」
むっとしてしまって、思わずその口元を摘まめば、目の前の眉が寄り、アレックスの大人びた顔が子供のようになった。
「……アレクだ」
フィルは凝視しているその顔に、昔お泊りの翌朝に見た『彼女』の面影を重ねて、目を丸くする。
本当にあの可愛いアレクだ。だけど、その可愛いアレクが、今こうして自分を包んでいるアレックス――中身は確かにそうだと納得したけれど、よくよく考えたらこの外見の変化はすごいことだ。
フィルは距離を取って、まじまじと彼を眺める。
なんだかとても不思議だ。女の子だと思っていたのに、顔は精悍に、鋭くなっているし、首は長めだけど、筋肉で支えられていてしっかりしているし、肩だってフィルのよりずっとがっしりしている。胸板は服を着ていても明らかにわかるくらい厚いし、腕も重くてフィルのものとまったく違う。
フィルは大抵の男性より背が高いし、筋肉も女性にしては並外れている。だから、体重もかなり重いはずなのに、アレックスは簡単に抱き上げる。
それに……、と昨晩の出来事を考えて、フィルは一人頬を赤らめた。
昔から好きだったけど、欠片も想像できなかった。彼にあんなふうに求められるようになることも、彼をあんなふうに求めるようになることも――。
「っ、うー……」
誰も見ていないのになんだか恥ずかしくなって、フィルは身体に纏わりついている毛布を片手で引っ張り上げ、一人顔を隠した。
(……あれ?)
そして、ふと生じた疑問に目を瞬かせた。視界に入るのは、毛布越しの光に特有の斑のある薄明かり。その一点を知らず凝視しながら、フィルは首を傾げる。
(? 好き……? ……うん、子供の時も。それから兄さまに言われるまで気付かなかったけど、入団して多分結構早い時期からも)
――じゃあ、それと今の違いはなんだろう……?
「……ん」
毛布を取り払い、目の前のアレックスを見つめれば、彼は寝惚け声と共に眉根を寄せた。
「っ」
直後に、彼はフィルを自分に引き寄せ、抱え込んだ。そして、満足したようにあどけない顔に戻り、規則正しい呼吸を再開させる。
「……」
顔を押し付けているアレックスの胸から、規則正しい鼓動が聞こえてきた。じわりと温かい感覚が湧き上がってくる。
(……ああ、本当に、本当に好きなんだ)
そう実感して、その感情を逃がすまいと唇を引き結んだ。
でも、なんだろう、昔とは確かに何かが違う。
曝け出された鎖骨へと顔をさらに寄せれば、より鮮明に彼の香りに包まれた。フィルは瞳を閉じて自分の内を探る。
(今と昔の違い、は……――)
彼の側にいると、嬉しいのに泣きたくなるということ。こっちを見て、笑って、と願ってしまうこと。
その衝動を抱えて手を繋ぎ、抱き合い、キスが出来るということ。生まれたままの姿で抱き合うことが出来るということ。
そのすべてを、アレックスの腕の中で目を覚ます度に新たに出来るということ。
そして、彼を私だけのものにしたいと思ってしまうこと、そう望むことを許してもらえると思えること。
――それが付き合っているということ、なのだろうか?
「そう、か、だから特別なんだ……」
フィルはアレックスの胸から顔を離して、その寝顔を見つめた。
だから? だからアレックスは「付き合っている」と言う言葉にこだわったのだろうか? だとしたら――嬉しい。
「……」
それから、自分の駄目さ加減に顔を引き攣らせた。
(多分傷付けたんだ。何も考えずに「付き合ってましたっけ?」なんて聞いてしまったから、きっと否定されたように感じたんだ……)
「どう、しよう……」
どう謝ろう? それから、どう伝えよう……?
「っ」
動揺するフィルに気付いたのかもしれない。アレックスが目を薄く開いた。青い輝きがフィルを捕らえる。
「あ、ええと、その」
戸惑っている間に彼の顔が苦しげに歪んだ。思わず息を止めれば、もう一度彼に抱き寄せられた。素肌の晒された胸に、再び顔を押し付けることになって、鼻腔に彼の匂いが色濃く届く。
「……ごめん」
「……え?」
「昨日、ひどくした……」
真上から響いた声の掠れに胸が詰まって、フィルもアレックスを抱きしめ返す。
(気にしなくていいのに。アレックスが悪い訳じゃないのに。最初は少し怖かったけど、でも、どれだけ荒々しくても、どれだけ意地悪なことを言っても、私が手を伸ばしたら、抱きしめてくれた。いつもと同じようにたくさんキスをしてくれて、大事そうに髪を梳いてくれて、流した涙を唇で優しく拭いてくれた。ずっと抱きしめていてくれた。それで大丈夫だって思えたから、平気なのに……)
「ごめんなさい」
「……フィル?」
彼の背にまわす手に力が篭る。
「付き合ってるってどういうことなのかよくわからなくて、考えもしないで……」
「……」
アレックスが離れた。まじまじと顔を覗き込んでくる。
「つまり、『ただ』確認してみた……?」
「う……はい」
ごめんなさい、ごめんなさい、いつもそれじゃだめだって言われてるのに、また何にも考えてませんでした、と内心で謝りながら頷くと、彼は目に見えて脱力した。
「そう、だよなあ、フィルだもんな……冷静に考えれば、フィルがそれ以上複雑なことを考える訳はないのに……」
苦笑して、アレックスは額に口付けを落としてきた。
「悪かった。話もしないまま怒ったりして」
「……」
気まずそうなアレックスの顔なんて初めて見たし、可愛くてドキッとしてしまったけれど。『フィルだもんな』で納得されるのも心外だし、その後にはそれこそかなり複雑になることを言われた気もしたけれど。
でも、それよりも大事なことは――。
「あの、こういうことをする、のは、」
フィルは真っ赤になりながら、アレックスの顔を真っ直ぐ見上げる。恥ずかしいけど、目を逸らしてはいけない。ちゃんと話をしよう、そう決めたのだから、彼の問いにちゃんと答えたい。
「アレックスが好きだからです」
「……っ」
再びアレックスが自分を抱きしめようとしてきたのを、腕をつっぱって防ぐ。怪訝そうな、不満そうな顔をされたが、まだ一番伝えたいことを言えていない。
「は、話、話、ちゃんとしたいです……っ」
慌てて付け加えれば、アレックスの目が泳ぎ、引き寄せようとする力が緩んだ。その隙に深呼吸すると、続きの言葉を声に乗せる。
「でも、好きなだけじゃなくて、その、特別、だから、するんです。一緒にいるって、いていいって、ええと、全部で感じられるのというか、確かめられるのというか、すごく嬉しいです。それってアレックスだけで、昔も好きだったけど、今の方がずっと特別で、」
それから顔を伏せた。
「その、アレックスもそう思ってくれてる……んです、よね?」
本人にそう確認するのは、さすがに思い上がっている気がしなくもなくて、真っ赤になりながら身じろぐ。
「ええと、それが付き合ってるってこと、ですか……?」
そのまま待ったけれど、アレックスから答えが返ってこない。
居た堪れなくなってきて、フィルは上目に彼の反応をうかがった。目を丸くしていた彼が、一瞬苦しそうな顔をする。
「……」
差し込んできた朝の日差しに、アレックスの顔のほりの深さと瞳の青が一際鮮明になった。光の中で凄絶なまでに幸福そうに、艶やかに目の前で微笑まれて、フィルは間抜けにも呆然と口を開ける。
「あっ」
そして、今度こそフィルはアレックスの胸の中に収められた。
「そう、特別――フィルなんだ、俺の好きな人、特別に大事な人は」
「っ」
言葉の意味を認識した瞬間に、かああっと全身に血が巡ったのがわかる。
「フィルは言ってくれないのか?」
からかうように笑って、こちらを覗きこんできたアレックスの顔に、昨日のような憂いが見当たらなくて、フィルはそこでやっと心から微笑んだ。
* * *
ちなみに、フィルが恨み半分、今度は何をされるんだろうという恐れ半分で出会ったその日の第一小隊――彼らの興味の対象はやはりアレックスだったけれど、昨日とうって変わって、彼はいつもの落ち着きを取り戻していた。
「よう、今日も仲良いなあ」
「珍しくないだろう」
「やっぱ付き合ってんのか?」
「ああ」
「……フィル、かわいいよな」
「今更だ」
「……どの辺?」
「全部」
以前と同様、フィルにべたべたする訳でもない彼は、だが、次々投げかけられる揶揄に、落ち着いた肯定で対処するようになってしまっていて、第一小隊員たちは、またもやからかう機会を逸したと嘆きに嘆いた。
「照れるどころか、否定も無視すらもしてくれなくなった……。まだそっちの方が可愛かったのに……」
そう涙目になっていたのは、入団後からフィルが来るまでずっとアレックスの相方をしていたイオニア補佐で、
「真顔でのろけられるほうがきついんだな……」
その横で遠い目をしていたのは、またも彼女と別れたというウェズ小隊長だ。
そんな彼らの例外は……。
「おい、フィル。お前、アレックスと最初に会ったのいつだ?」
「? 八つの時です」
「入団して来た時は?」
「気付かなくて」
「あんなに目立つ奴なのに?」
「だって、女の子だと……んむ」
顔を青くしたアレックスがフィルの元にやってきて、慌てて口を塞いだ時には既に時遅し。
「そりゃ、名乗れる訳ないな」
盛大に笑ったオッズを、アレックスが殺気を込めて睨むのを見て、フィルは顔を引きつらせつつ、こそこそとその場から後退していく。
「…………言わねえよ」
アレックスの顔が盛大に引きつった。「誰にも本人にも、」とオッズが笑いながら続ければ、アレックスはさらに顔を歪める。
「「からかうけどな、こっそり」と言うんだろう……」
楽しげなオッズの声と、諦めたようなアレックスの声がシンクロして、オッズはさらに腹を捩り、涙を流しながら笑っていた。
結果、フィルが「だから余計なことを話すなと……」というアレックスの恨みの視線を受けて、ひたすら謝る羽目になったことは言うまでもない。




