1.追想
十五の誕生日を迎えた頃からだっただろうか、付き合いの関係で出なくてはいけない知り合いの開く夜会に、スペリオスは父の代理で出席するようになった。
春の終わりのその日もそんな日常の一環で、開け放たれた飾り窓からそよぐ柔らかい風だけが慰みになる、特別なことは何も待っていない晩になるはずだった。
「久しぶりですな、スペリオス殿」
「随分とご立派になられて……そろそろご婚約のお話などは」
「そういえば、ホーセルンのディアナ嬢と……」
「スペリオスさま、よろしければ今度のオードルヌ・バーベロンの特別絵画展、私とご一緒いたしませんか?」
人造の光と虚飾に満ちた空間で、仮面を被ったまま繰り広げられる腹の探り合いと、言葉尻を捉えようという試みの応酬。見え見えの下心を、滑稽なまでにばれていないと信じて擦り寄ってこられる神経の持ち主たちと、同じような、できればより精巧な仮面を被り、表面上穏やかに会話する。
この国で最も有力な貴族の家の嫡男として生まれたスぺリオスにとって、それらは物心ついた時にはごく身近なのものだった。もちろん愉快ではないが、そういうものだと思って生きてきたのだ、周りも皆そんなふうだったから。
ただスペリオスの両親は少し変わった人たちで、幼い頃はそんな類のものからできるだけ自分と弟を遠ざけようとしてくれた。
彼らは本当に仲が良く、時間が許す限り一緒にいて、いつも楽しそうに笑い合っていた。
スペリオスはその間に入ることを許されていて、おはようやおやすみの挨拶を交わすのも、食事を共に取るのも、寝る前に本を読んでくれるのも、基本的な躾を授けてくれたのも皆両親だった。
乳母という存在すら知らずに育ったのだから、時々祖母が嘆いていた通り、貴族としてはあるまじき環境だったのだろう。
成長するにつけ、自分の置かれた立場を徐々に認識するようになって、貴族社会で生きていく術を身につけざるを得なかったけれど、愛情に包まれた家庭――自由に息ができる場所があっただけ自分は運がいいのだろうとスぺリオスは思っている。
だが、小さい頃にはもう一つ気兼ねなく過ごせる空間があった。
金髪の厳しそうな顔をした男性は、駆け寄るとその表情を一気に崩して笑ってくれ、頭をガシガシと撫でてくれた覚えがある。それが嬉しくて声を立てて笑うと、彼は一層破顔してスペリオスを抱き上げ、「さて、今日は何して遊びたい?」とにっと笑うのだ。
スペリオスは彼にそうして欲しくて、彼の笑い顔も大好きで、確かめるように彼にいつも走り寄っていた。
彼の横にいた、鮮やかな、長い金の髪の女性は見たこともない紫の目をしていて、事ある毎に優しくスペリオスの名を呼びながら抱きしめてくれた。
子供心に覚えているだけでもおそろしく綺麗な人で、そんな彼女が褒めてくれる時に頬に小さなキスを落としてくれるのが密かに誇らしくて、彼女の前だけではいい子にしていたように思う。
母親でもないのに当たり前のようにそんなふうに接してくれるその不思議な女性が、スペリオスは実の伯母以上に好きだった。
両親と彼らは、子供の目から見ても深く信頼し合っていて、スペリオスは何の疑いもなく『この人たちも大丈夫』と信じていたように思う。
その二人の間にいたのが、自分より少しだけ年上の綺麗な、綺麗な男の子だった。
母親の女性にそっくりな彼とは、本当に気が合った。言葉にしなくてもお互いの考えていることがわかって、遊ぶのもいたずらや悪いことをするのもずっと彼とだった。
スペリオスが怒られて家出すると言えば、彼も『じゃあ僕も一緒にいく』と言い出し、揃って家出する。
その後心配した両親たちに見つかって連れ戻され、彼の方の家で揃って散々怒られた。夕飯抜きにされたのも反省部屋に放り込まれたのも、みんな彼と一緒。
「何それ、ラーナック?」
「台所にあった。はい、スペリオスの分」
「……いいのかな?」
「おじいさまが食べものは自分でとるものって言ってたから」
「とるの意味が違ってない?」
夜中にあまりにおなかが空いた時、彼がこっそり台所に忍び込んで持ってきたパンを半分に分けて食べ、それを見つかってまた共に怒られた。当たり前といえば当たり前、反省部屋行きも夕飯抜きも意味がまったくなくなってしまったのだから。
「また怒られた……あすの朝もごはん抜きかな」
「じゃあ、今のうちにもっととってこようか」
しゅんとするスペリオスの横で、彼はスペリオスより散々怒られていたのにケロッとしていた。
「うーん、なんか違ってない、ラーナック?」
「さっきやって、またすぐするとは思わないんだって。だからうまくいくんだって」
彼が「前おばあさまがそういうお話聞かせてくれたんだ」と得意そうに笑うのを見ているとなんだか元気になってきて、いつのまにか本当にそういう気分になっていた。
結局それで何度も一緒に怒られた覚えがあるけれど、他の同じ年頃の子が、大人に言われてスペリオスの機嫌をびくびくうかがう中で、彼だけが本当の友達だった。
けれど、スペリオスに弟が生まれてしばらく経ったぐらいだっただろうか? 彼は徐々にスペリオスと遊ばなくなった。
その間隔が段々長くなっていって、スペリオスは彼と遊びたいと両親にひどく駄々をこねた。困った父と母が、その理由を彼が病気になったためだと説明してくれて、今度は酷く心配したのを覚えている。
彼に会いたいと我がままを言っても無駄と知って、代わりのようにスペリオスは弟に構うようになった。
小さな弟も病気がちで、いつもという訳にはいかなかったけれど、スペリオスがベッドの側に行くとまだ歯も生えていない顔でにこりと笑う。手を握ると小さな指のどこにあるんだろうと思うような力でぎゅっと握り返してくる。
病気の彼に母が構いっきりになることも珍しくなくて、『弟なんていらなかったのに』と思う時もあったけれど、そんなことを繰り返すうちにスペリオスはその弟のことを好きになっていった。
彼が歩けるようになってからは余計、話すようになってからはさらに。
小さな弟がよろよろと自分の後を付いて来るのがかわいい。舌っ足らずな発音で「すぺいおす」と名を呼んでくるのが嬉しい。泣いていてもスペリオスが抱きしめると笑うのが特別な証のようで、それからはずっと弟が一緒だった。
「わあ、スペリオスの弟? そっくりだね」
「アレクサンダーって言うんだ、かわいいだろ」
久しぶりに会ったラーナックに弟を自慢すると、彼は青白い顔で、けれど破顔して弟の頭を撫でた。弟も彼は大丈夫だとわかるのか、人見知りをすることもなく笑っている。
「もうすぐ僕にも弟か妹ができるんだ。ますます楽しみになってきた」
「うん、さっきシンディ小母さまのところ、行ってきたよ。おなかが大分大きかった」
「そうしたらまたみんなで遊ぼう。今度は四人だ」
「うん、約束。きっともっと楽しくなるな」
にこにこといつものように笑い合って、いつものように交わした約束は……結局叶わなかった。
それからしばらくしたある日、母が泣きながら自分と弟におそろいの服を着せた。
連れて行かれた先はラーナックの家だった。あまり大きくないけれど、どこか温かい感じのする彼らの家は、その日なんだかひどくおかしな空気が漂っていた。冷たくて、静かなのに、何かが今にもはちきれそうな感じをひどく不安に思った記憶がある。
遊びに行った時に、あれこれ世話を焼いてくれるラーナックの家の執事が青い顔をして迎えに出てきて、無言のまま奥へと誘う。
緊張に耐えられなくなったのかもしれない、ぐずり出したアレックスにさえ父も母もどこか上の空で、スペリオスは弟の病気の発作が起きるかもと心配で……というより、むしろ自分の不安を紛らわせたくて、彼の小さな手をぎゅっと握り続けていた。
案内された部屋の中では、いつも元気で、いっぱいいたずらの仕方なんかを教えてくれるラーナックのおばあさんが肘を膝につき、顔を覆ってソファに座っていた。いつもうるさいぐらいのターニャが、その横でぼうっと宙を見ながらおばあさんの膝に手を置いている。
奥には低い台の上に狭い箱がおいてあって、ラーナックと小父さまが呆然とその前に立っていたのを覚えている。異常をはっきり悟ったのはその瞬間だった。小父さまが自分を見ない。小母さまがいない。ラーナックが笑いながら走り寄ってこない。
父に背を押されて近づいた狭い箱の中、むせ返るほどの匂いを放つ花に囲まれて寝ていらしたのは、いつもと同じように綺麗な小母さまだった。
「……っ、シンディ……」
斜め前にいた母が、突然小母さまに抱きつき、声を上げて泣き出す。それにびっくりしたのだろう、アレックスもついに泣き出して、それに気付いて立ち上がったターニャに連れられて部屋を出て行った。
(わからないけどきっと良くないことがおきてるんだ……)
それだけがわかったスペリオスに、父がやはり泣きそうな顔で、「シンディにさようならを」と告げた。
さようならの意味にひどく困りながら、いつもの挨拶のように彼女の頬にキスをする。
なのに、彼女の目が開かない。綺麗な紫の瞳が見えない。スペリオスを見て笑うことも、キスが返ってくることもなくて、ひどく悲しくなった。
助けを求めて小父さまを見、さらにひどいショックを受けた。彼は彼だと信じられない顔をしていて……しかも、遠くで響き出した赤ちゃんの声に更に怖い顔になる。
「……あれのせいだ……」
小父さまが何かを呟くと、隣のラーナックの顔色が更に悪くなって……小父さまと繋がっている彼の手に力が篭るのが見えた。
「……ステファン?」
父が顔を小母さまから小父さまへと向ける。
今までそんな風になるなんて想像したこともなかった。
凄まじい勢いで言い合いを始めた小父さまと父たちの元に、ラーナックのおじいさんが帰ってくる。いつもくるくる表情を変えて、笑いながらいっぱい遊んでくれるのに、その日彼は本当に厳しい顔で父たちを怒鳴ると、その後に「子供たちを別室に連れて行きなさい」とターニャに告げた。
スペリオスはがたがた震えながらラーナックを見て、そこでようやく彼と目が合った。彼も震えていることに気付いて、緊張に泣きそうになりながらもなんとか彼の側まで行った。そしておずおずと彼の腕を引いて……彼の逆の腕が、隣の小父さまに握られたまま離されない事を知ってひどく混乱した。
もう一度目があった彼は、口をへの字に曲げたまま、小さく首を横に振り……結局、スペリオスだけがターニャに、アレックスと赤ちゃんのいる部屋へと連れて行かれた。
「……」
さっきぐずっていたはずのアレックスは、そこでベビーベッドの傍らの椅子の上に立っていた。柵にしがみ付きながら、やはりさっきまで泣いていたはずの赤ちゃんを覗き込んでいて、よく見れば柵越しに指を握られている。
アレックスはもう片方の手を伸ばし、不安定な足元と短い腕と柵に悪戦苦闘しながら赤ちゃんの枕もとのハンカチを取る。そして涙なんだか汗なんだか、とにかくぐしょっり濡れていた赤ちゃんの顔をハンカチで恐る恐る拭き始めた。
(僕や母さんがアレックスにいつもやってるのをまねしてるんだ……)
それを終えたアレックスが、赤ちゃんの顔をもう一度背伸びして覗き込み、ほっとしたように笑ったのを見ていたら、なんだかひどく悲しくなった。
同じように感じたんだろう、横でターニャが泣き始めたのを聞いて、なら僕も構わないと思って、スペリオスはそこでその日初めて泣いた。
アレックスが困ったように赤ちゃんとそんなスペリオスたちを交互に見ていた光景が、ラーナックの家での最後の記憶だ。
スペリオスはその後、その弟か妹に二度と出会わないまま、ラーナックたちと疎遠になった。あれだけ頻繁にあった音沙汰も途絶え、ごくごくたまに何かの行事で顔を少し合わせる程度になる。
けれどスペリオスのほうには両親も弟もいて、さらに数年後には、従妹のアレクサンドラが家に頻繁に出入りするようになる。
そうしてスペリオスは、ラーナックの存在を思い出すことすらなくなっていった。




