11-25.運命
「フィル、お客さんだって」
騎士団の鍛錬場でヘルセンとの対戦を終えて汗を拭いていたフィルは、ヘンリックの硬い声に背後を振り向いた。
「……ヘンリック?」
いつも柔らかい表情を湛えている彼の顔は、声同様強張っている。
周囲は剣の交わる音と、騎士たちの生み出す気合や喚声、ため息などで今日も賑やかだ。もっとも今日は半年に一度の小隊対抗戦があって、それで特に(正確には勝敗に基づく賭けのせいで)盛り上がっているのだが。
「ポトマック副団長の応接室で、斎姫、が待ってるってさ」
その賑わいと対照的な空気で、ここに出てきてから知り合った親友が再度口を開いた。
(斎姫ってアレクサンドラ・カダル・ニステイス……)
ニステイス伯爵家の斎姫暗殺未遂事件は先日かたがついた。
関与していた者が多く、それに引きずられて、彼女の父であるニステイス伯爵が神託と謳って詐欺まがいのことをしていた過去の案件が明るみに出た。
必然的に、これまでの『神託』も神託ではなかったのではないか、と疑われ出したようで、案外占いや神頼みに凝るらしい貴族たちや商人たちの間で、今後ニステイス家の影響力はかなり陰るだろうと言われているらしい。
「……すぐに行く」
ただ一つ解決しないまま残っているのが彼女と私の問題――フィルは足を騎士団本館五階に向ける。
「……」
対抗戦の出場者を決めるために、今はオッズと向き合っている背後のアレックスへと肩越しに視線をやる。そして息を吐き出し、歩き出した。
* * *
コンコンと音を立てて扉をノックする。
『心を水鏡のように平らに』
くぐもったような、落ち着いた声音の許可を聞いて、その扉を押し開ける。
「失礼いたします」
『闘志を身体に、髪の先々に、指の端々に』
祖父のおまじないを頭の中で唱えながら、下げた頭を戻し、背筋を真っ直ぐ正した。
――さあ、決着をつけよう。
入ってすぐ、アレクサンドラ・ガダス・ニステイスに目を引き寄せられた。体躯で遥かに勝るポトマック副団長がかすむほどの存在感だ。
白い肌に青灰色のドレスを身にまとい、ソファの上に優雅に座している。
凛とした表情を湛えている顔は、相変わらず一辺の曇りもない月のように美しい。あの『アレク』があのまま成長すれば、という容姿そのものに見えた。
「しばし席を外しましょう」
出て行くポトマック副団長と目が合った。
「……」
怒られる時は魂が抜けるんじゃないかと思うほど怖いけれど、ほとんど動かない表情の中で、目尻だけは心配だったり気遣いだったりで柔らかく緩んで動く。
そんな時の彼の空気は本当に優しくて、今もほっとさせられた。
アレクサンドラの向かいに腰掛けたフィルは、短くない時間を彼女とただ見つめあう。
頭の内を探るようにこちらを見つめる目を見返していると、瞳になんだか人外の者の気配が宿っている気がした。初めてこの人が斎姫だと実感した気がする。
「フィリシア・フェーナ・ザルアナック」
「はい」
フィルが知る中でも飛び抜けて美しい人。しかも清浄さと妖艶さ、相反するはずの気配を持っていて、目が離せない空気の人。そして――、
「アレックスがあなたに話したのかしら?」
――自分がアレクだと嘘をついた人。
「いいえ」
はっきりと返した答えに、目の前の整った顔がわずかに歪んだ。
「ではスペリオス?」
「スペリ……」
(……誰? いや、待て、どこかで聞いた)
眉間に皺を寄せた瞬間、アレクサンドラの表情は目に見えてバランスを失った。
「そうなの? やはり彼も……あなたの方が良いと言っているの?」
桃色の唇が噛み締められた。露骨にわななく。
(彼、って、スペリオス、スペリ……おお、お兄さんだ、アレックスの)
フィルは目を瞬かせる。
「とぼける必要なんて無いわ。回りくどい手は諦めるのですって、足掻くのですって」
欲しいものを直接手に入れるためにね、そう続けた彼女の声ははっきりと震えていた。
「と言われても……」
一体なんのことだろう?とフィルは片眉をひそめる。
アレックスのお兄さんとはいつだったかに街で、あとはこの間の夜会で会っただけだ。いずれもほとんど話していない。
(そういえば、襲撃のあった夜に訪ねてきてなんか謝ってたってアレックスが言ってたような……)
「……へ?」
呆けた反応を返す自分を見つめる目の前の彼女の様子に、フィルは口をぽかんと開けた。
(これ、は……泣く寸前の顔、というものでは……?)
艶と形の良さがすっかり台無しになるまで噛み締められた下唇は既に白くなっていて、眉根は悲痛に寄せられて深く皺を刻み、目元は目元で何かに堪えるように小さく震えている。
(……なん、か、思ってたのと大分違う展開になってるような……)
「あ゛」
青い瞳に涙が盛り上がったのを見て、頭が真っ白になった。
頭に響いたのは、『女の子には特に優しく、紳士に――泣かせるとか論外』という祖母の声。にこやかに微笑んだまま怒っていた祖母の懐かしい顔を思い出して青ざめると、フィルは止まっていた頭を全力で動かす。
(ええと、話題はスペリオスさん……が謝ってくれたのは、確か私を騙したことと、アレクサンドラを助けたことへのお礼って言ってたっけ。正確には騙す手伝いをしたということだったけど)
「……ん?」
(謝罪? お礼? 従兄がわざわざ……?)
ふと、あの晩の夜会でアレックスに似た彼がアレクサンドラに向けていた空気を思い出した。
『サンドラ、おいで』
(あの人、顔形だけじゃない。表情も声音も仕草もアレックスとそっくり、だ。じゃあ、ひょっとして……)
「あ」
アレクサンドラの綺麗な青い瞳から、真珠のような滴が零れた。
反射で『ゆ、夕飯抜き……』と思ってしまったフィルの目の前で、そのまま彼女は音も無く泣き続ける。
「……」
綺麗だった。顔はくしゃくしゃで元の美貌は見る影も無いのに、こっちの方がずっと美しいようになぜか感じる。
「スペリオス……」
見蕩れるフィルに気を払うこともなく、アレクサンドラがかすかに呟く。
「……ん?」
(なんか今、奇妙な言葉を聞いたような……お兄さん?)
思わず首をひねってしまえば、疑問が口を突いて出た。
「あなたが好きなのはアレックス?」
「!」
すっかりフィルの存在を忘れているようだったアレクサンドラが息をのみ、こちらを睨みつけてきた。
「ア、アレックスに決まっているでしょう!」
肯定されたけれど、その剣幕が本心を伝えてきた気がした。
(そう、か、スペリオスさんなんだ)
ちょっと情けないと思いつつも、正直にほっとしてしまってからフィルは眉を顰める。
(となると、スペリオスさんは報われるはずなのに報われていない、ということに……)
「?」
(あれ、だけど、アレクサンドラはアレックスに付きまとっていたって……あとは、スペリオスさんが彼女に私とアレクのことを教えたって話だったよね?)
「む?」
俯いてボロボロと泣き出してしまった彼女を前に、フィルは首をぐるりと傾げる。
(あれ、そうなるとスペリオスさんは、アレックスとアレクサンドラに仲良しでいて欲しいってことにならない? ええと、でも彼女は……ああ、でも彼女は彼女で……)
「うー」
呻き声と共に眉間に深い皺ができる。
(困った、何がどうなってるんだ……? 好き同士でなんでそんなことになったんだ? それともやっぱり違うのか、好き同士じゃないのか……?)
「……」
フィルは不意に口元に笑みをたたえた。理解できた――事態が複雑そうで、自分の頭の処理能力を超えていることは。
「ほんと、だめだ……」
かくりと肩を落とした。考えても結局それなのか、私は、と嘆くも、それで何がわかる訳でもなく、相変わらず打開策は見つからない。
そうしている間にも彼女の雫は次々に生まれて、白い顎を伝い、薄青色のドレスへと濃い色の丸い染みを増やしていく。ついに嗚咽となった。声もなく泣き、時折体を震わせる。
静かな室内に、窓を隔てた鍛錬場から賑やかな声が伝わってくる。それがひどく場違いに思えて、フィルは口をへの字に曲げた。
「わ、私が好きなのは……っ、だって、神託なのよ、運命だって。だって、それが繁栄と平寧をって、私はそうしないと……その通りなら、それでも側、にはいられるもの……っ」
混乱するフィルに目もくれず、アレクサンドラが耐えかねたように泣き叫んだ。
事情はわからないくせに、その音の意味だけはわかって胸が軋んだ。
「運命……」
(そういえば、そんなことを前も言っていたっけ、彼女……そうか、斎姫だから)
フィルは目の前で、真珠のような大粒を零し続ける彼女を見つめる。
(よくわからないけど……)
夜会の時に二人がお互いに向けていた表情をもう一度思い出して、フィルは全部取り払って、二人を好き同士と決め付けてみることにした。優しい空気に見えたのだ、あの時。だから、多分正解ということにする。
運命神の斎姫相手にいくらなんでも無謀かも、という逡巡を振り切るように、すっと息を吸い込んで、思い切りをつける。
やってみよう、だめだった時はそれから考えるということで。
「アレックスだと運命だから決まっているのですか?」
「……っ、なんなのよ、あなたっ」
アレクサンドラの朱に染まった瞳に、動揺と怒気が宿った。
「で、溺惑なんて繁栄と平寧に比べられる訳ないでしょうっ、お、お母さまだってそう仰ったものっ、そういうものだって……っ」
泣いているくせに、とその剣幕にちょっと引いてから、フィルは小さく笑った。怒鳴った後に、ズズッと子供みたいに洟を啜った彼女に、更に笑いそうになるのを必死で堪える。
これが多分彼女の本当だ。にこやかに笑っていたあれは猫というやつ。でも、こっちの方が断然綺麗だ、『アレク』には全然似ていなくても。
ああ、でも、今の問題はそこではなくて、とフィルは首を振り、副団長室の奥に掲げられている祖父の古い友人の肖像画に目を留めた。
『誰しもに決まった未来があるなんて、ここだけの話、俺は信じていない』
そう茶目っ気たっぷりに片目をつむっていた彼の面影は、生憎とその肖像画にはなかったけれど。
「建国王アドリオットは、昔『国を滅ぼす運命にある』との預言を受けて、『凶児』と呼ばれていたそうです」
それで内戦までのほとんどを外国で過ごすことを余儀なくされた、中々面白かったとアド爺さまは笑っていた。だけど、実際はすごく過酷だったのではないかと思う。
「預言どおり彼は旧王家を滅ぼして、新しい国を作りました」
幼い自分を膝に抱え上げて頭を撫で、にこにこと笑ってくれた祖父の友人を思い出すと、今でも知らず笑みが零れる。
「でも、そうしてもたらされた結果は、一概に判断できるものではないと私は思うんです。だって、ある人にとっては『凶』でも、ある人にとってはそうではなかったと思うから」
誰もが嫌なことを嫌と言える、自由に本を読めて、旅が出来る国は、一概に悪い国とは言えないと思う。実際にフィルはここが好きだし、これまで出会った多くの人もそうだった。特にお年寄りたちがいい国になったと、皺だらけの顔を緩めて笑うあの瞬間が大好きだ。
「私はアレックスに混沌をもたらす運命にある、のでしたね?」
今でさえもう十分もたらしているかもしれないのに、とちょっと自嘲する。
「本当に運命があるのか私にはわかりませんし、それがどういうものかもいまいち想像がつかないんですけど」
じっとアレクサンドラを見つめた。アレックスとそっくりな色の瞳が揺れていて、それの意味を測る。
(上手く伝わるといいけれど……)
「私のすることがたとえ決まっていたとしても、それが私や誰かにとってどんな結果になるか――いい結果になるか悪い結果になるかは、きっと私次第なんだと思います」
昔の国を滅ぼして新しい国を作るのがアド爺さまの運命だったなら、その後を今のような、たくさんの人が好く国にしたのは、彼がそうしようと頑張ったからだと思う。
『あいつほど働くやつも贅沢しないやつもいなかったな。口では楽がしたい、俺は王さまなのにって言うくせになあ』
建国王の横に並んでいる祖父の肖像を見遣って、その顔が笑っていた光景を思い出す。
それから、そういえばフェルドリックもその辺は似てるかもなあ、とぼんやりと思った。
「『運命』で……」
息を詰めている彼女に視線を戻し、再び口を開く。
「あなたはあなたの気持ちに向き合うことをやめてしまうんですか? 考えることも努力することも諦めるんですか?」
考えなくても努力しなくても、それが運命だと言えば、言われれば、そしてそう思い込めば――それに従ってさえいれば、幸せが用意されているように思えてしまうかもしれない。すべてが上手くいくように思えてしまうのかもしれない、抗うことも悩むこともなく。
でも、本当にそんなに単純なことなんだろうか? 『運命』に従っていれば、何も悩まなくてすむ? こうしようと考える必要も頑張る必要もない?『運命』の相手と一緒になれば、努力は要らない? 努力しなくても幸せになれる?
そんなことが本当にあるのだろうか……? もちろん自分にはその答えはわからないけど――。
「私はアレックスから離れません」
――もし、そんなものが『運命』なら、私はいらない。
「彼に混沌をもたらすとして、それでも私は彼を幸せにする努力を続けます」
窓の外、鍛錬場へとフィルは視線を向けた。
(ごめんね、アレックス。上手くいかないことが多くて、いつも情けなくなるけど……私は『運命の人』じゃなくて、アレックスのために努力していたい。アレックスだから、そうしたい。でも、ちゃんとアレックスが失くす物の埋め合わせはするから。たとえ本当に混沌に陥るとしても、それでもいいやって思えるぐらい幸せにするから――)
「そういう意味で、私は運命って決まっていないんじゃないかと思います」
視線を戻した先、アレクサンドラの涙は既に止まり、青い瞳はじっとこちらを見ている。
室内に再び落ちた沈黙にあわせるかのように、鍛錬場が静まった。
しばらくして一組の剣がかち合う音が鮮明に響いた。大きな歓声がそれに続く。どうやら対抗戦が始まったらしい。
「……できる、のかしら?」
「できると思って努力すれば」
にっと意識して笑ってみる。
「……私、やっぱりあなたのこと嫌いだわ」
こんなにはっきり言われたことはさすがになくて、目をみはった。
「スペリオスの言うとおりだわ。あなたもアレックスも人がよくて、馬鹿みたいに前向きで、私を惨めにするのよ」
「……アレクサンドラさんの人が悪すぎたんです。あと……後ろ向きすぎ?」
彼女は言い返したフィルに眉を跳ね上げる。それから、少しだけ笑ったように見えた。
濡れたままだった目元を袖でぐいっと拭うと、冷め切った茶のカップを手に取り、中身をぐっと一気に飲み干す。
その仕草に思わずフィルは目を丸くすると、本当にこっちが本物なんだと悟って再び笑った。
「帰るわ」
先ほどの粗雑で子供っぽい所作が嘘のように、彼女は優雅に立ち上がる。そして……
「……」
今度こそ唖然と見蕩れてしまうような、かげりのない笑みをこちらへと向け、舞うような足取りで踵を返していった。
遅れてフィルも立ち上がり、伸びをする。
「……?」
首を傾げた。遠く、恐らく本館の東端から、ブーツが廊下を踏みしめる硬い音が響いてくる。普通の人より遥かに間隔の長い歩幅はいつもより少し早めで、少し焦ってるようだ。
「……なるほど、ヘンリックも心配してたっけ」
きっとオッズとの対戦を終えた後、彼から話を聞いたのだろう。それで対抗戦を抜け出したんだ、と思いあたった。
慣れ親しんだ足音が段々大きくなる。段々歩調が速さを増して――こちらに近づいてくる。
十数秒後に開かれるだろう扉を見て、フィルは知らず顔を綻ばせた。
「……笑って帰ってったよって言ったら、アレックスも笑うかなあ」
室内に差し込んできた光に頬を照らされ、フィルは目を細めると、今度は窓の向こうに瞳を向けた。冬らしく厚く空を覆っていた雲がそこだけ鮮やかに割れて、日差しが差し込んでいる。裂け目が金で縁取られ、顔をのぞかせた青空を鮮やかに彩っていた。




