11-24.恋着
王都郊外の林の中にあるフォルデリーク家の別荘の一室。南に面したこの部屋は、幼少時のアレックスが療養のために滞在していた時分とほとんど変わらない。
あれから戸惑うフィルの手を引いて、林の奥のここを訪れ、それからずっと彼女を自分の腕の中に閉じ込めている。
唯一変わったと実感したのは部屋に据えられたベッドの狭さくらいだが、ここにあのフィルを引き入れることになると思ってもみなかった。
夜も大分更けてきて、遠くの木立の中からふくろうの鳴く声が聞こえてくる。
(……あのフィル、だ)
もう十年近く前から焦がれ続けてきた人が、俺を俺だと知った今も、ここにこうしていてくれる――アレックスは腕の中に収まって眠るフィルを静かに見つめる。
あれほど彼女に自分が『アレク』だと、『親友』だと知られるのを恐れていたというのに、彼女はアレックスのそんな怯えを今回も鮮やかに置き去りにした。
『なんで気付かなかったんだろう……? そっくりなのに』
小川のほとりでひとしきり泣いた後、フィルは『やっぱり鈍いのか、私は……』と、何を今更、と思うようなことを鼻声で呻き……小さく笑った。
『あのアレクが今私の好きなアレックスってすごいな』
「……本当に人の気を知らない」
知らず笑みが零れる。昔からそうだ。深く考えている様子はないのに、フィルは昔からアレックスが怯えているものをあっさりと退けてしまう。欲しいと思っているものを差し出してくれる。
彼女に属するものはすべて手中にしておきたいと思っているのに、抱えきれない金の髪。それが腕を越えてシーツの上に散らばっている。
(……大分伸びてきたな)
そのうちの一房に指を絡ませ、するりと逃れていこうとする滑らかな金糸に唇を寄せた。
続いて白い顎を捉えて上向かせると、微かに色づいた頬に、秀でた額に、今も鮮明に残る額の傷に、すっと通った鼻先に、闇の中で艶を放つ唇に次々にキスを落とす。だが緑の瞳は一向に開かれる気配がない。
彼女の鎖骨に散らせた赤い花びらが視界に入った。辿るように視線を移していけば、膨らみを主張するようになった形のいい両胸、小さな窪みの右横、逆のわき腹、下肢の付け根、太もも――全身に同じ証がある。そこかしこにある傷跡の周辺は特に色濃い。アレクサンドラに何かを吹き込まれたのだろう、傷を気にして体を隠そうとするようになったフィルに、傷を含めて綺麗だ、愛していると知ってほしかった。
(……数え切れない)
そのすべてに自分のフィルへの執着を客観的に見せつけられたような気分になって、思わず苦笑を浮かべた。
『俺が欲しい……?』
離れている間に積もっていた彼女への欲求と、離れていってしまうという怯えが解消された反動。アレクでもあるはずの自分が、フィルに受け入れられているという証欲しさも手伝って、だいぶ無茶をさせたと思う。
初めて好きだと伝えてくれたこと、自分が『アレク』だと気付いてくれて「会いたかった」と泣きながら言ってくれたこと、もうどこにも行かないでと言って名を呼んでくれたこと、それらのせいで歯止めをかけることも一切出来なかった。
『声にして、フィル、欲しいと言って……』
恥ずかしがる彼女を快楽で宥めすかしながら、結局その言葉を引き出した。その後も過ぎた刺激に涙を浮かべて許しを乞う声にすら煽られて、休むことなく貪るように彼女を愛した。快感に半分朦朧としながら、そんな欲望にそれでも全身で応えてくれた彼女がひどく愛しい。
(目が覚めたら、「こんな状態で襲われたら一瞬です……」とか、情けなさそうに言うのだろうな……)
小さな笑いを零し、頬にかかった金の髪を耳の後ろに流すと、そこへと再び唇を寄せる。そして音にはしないまま彼女の名を囁いた。
ノックの音が響いて、遠慮を交えたような声がした。別荘の管理人だ。
「アレクサンダーさま、スペリオスさまがお会いになりたいと」
(……ああ、あいつはそういう奴だった)
「今行く」
扉へ声を返してから、そっと腕を引き抜いて身を起こした。それからフィルの顎に手をかけて上を向かせ、覆い被さるように唇を重ねた。緩く閉じられていた歯列を割り入って、舌を絡みつける。
「……ん」
そのまま舌で口内を余すところなく愛撫する。口蓋を掠めるように撫でると半覚醒の中で、フィルは全身を震わせ、瞼を持ち上げた。トロンとした目線に再び情欲が煽られる。
生じた衝動をごまかそうと苦笑を、それからそんな自分に少しだけ不思議そうな顔をした彼女へと笑みを零した。
「ごめん、起こして」
目が覚めた時にアレックスが側にいないことを彼女は嫌う。本人がそう言ったことはないが、以前水を飲みにベッドを降りたアレックスが部屋に戻ると、彼女は半身を起こして拗ねたような顔をしていた。それ以来の習慣だ。滅多に甘えてくることのないフィルのそんな願いなら、いくらでも叶えようと思う。
「客が来たからちょっと出てくる。そのまま寝ていてくれ」
額に口付けるとわかったのかわかっていないのか、フィルは少し首を傾げてからコクリと頷き、コテンと横になって再び目を閉じた。
* * *
周囲を取り囲む林のせいで、ここは落ち着いた郊外の中でも際立って静かだ。
その別荘の応接室で、スペリアス・ロッド・フォルデリークは窓の外、木々の間から顔を出した大きくて薄い月を眺めていた。
ニステイス邸にも程近いこの場所で、スぺリオスは幼い頃、アレクサンドラとアレックスとよく一緒に遊んだ。体の弱いアレックスのできる遊びは限られていて、年少のサンドラの他愛無いままごと遊びなどにも根気よく付き合っていた。
自分たちにとって妹のようだった彼女は、文字通り一族のお姫さまで、あれがしたいこれがしたいと言い出しては出来ないと泣き、拗ねては怒り、随分と手を焼かされた。サンドラの度を越えた我がままにアレックスが困るのを、数え切れないほど宥めた覚えもある。
それでもあの頃の彼女は、こちらの差し出す言葉や手をちゃんととらえ、まっすぐに向き合おうとしていた。そうと知っていたからこそ、自分もアレックスもそんな彼女に応じていたのに、大事な時間を共有していたはずだったのに、いつからこんな風になってしまったのだろう――。
ノックもなくドアが開き、スペリオスは背後を振り返る。
「……よう」
先日の夜会で殴られて以来初めて会う弟は、不機嫌さを隠そうともしておらず、返事すら返してこない。
漂っている気だるそうな気配も、乱れた真っ直ぐな髪をかき上げる仕草も、明らかに情事の後というもの。騎士服は下半分だけ、上半身には無造作に薄手のシャツを引っ掛けていて、鍛えられた体を隠そうともしていない。弟ながら羨望を覚えざるを得ないほど艶めいている。女の子そのものだった十年前が嘘のようだ。
「なんの用だ?」
ようやく開いた口から出てきたのはひどく無愛想な言葉。誰にでも愛想の良かった昔が懐かしくなる。
(不機嫌なのは、あの子との久しぶりの逢瀬を邪魔されたせいもあるのだろうな……)
躾をよく行き届かせてあるから、雇っている使用人たちは、別荘を訪れた次男の客人が誰であるか、たとえ長男のスぺリオスにであっても告げるようなまねはしない。だが、さすがにそれぐらいの予想はつく。
「謝罪に。それと助けてくれた礼を言いに」
アレックスの整った眉の間に皺が寄った。
「あの子にもそう伝えておいてくれ」
「不要だ。俺もだが、フィルこそそんなものを期待しない」
そっけなく言った後、そっぽを向き、「時間が惜しいから他に用件があればさっさと言え」と口にした。
その表情を見てスペリオスは思わず笑う。照れを隠しているのだろうが、それに気付ける人間は今ではほとんどいないだろう。
ずっとベッドにいる生活だったからか、アレックスは子供の頃から側に来る人間を観察することに慣れ、その誰かの気持ちを推し量ることに長けていた。
人の持ついい部分だけじゃない。計算高さや憎しみ、嫉妬といった、人の嫌な感情も余さず感じていたはずなのに、彼はその観察眼を人のために使うことを惜しまない。
自分にはないその優しさがとても羨ましい。自分にそれがあれば、あるいはサンドラをもっとうまく手に入れることができたのだろうか、そう思わずにはいられない。
生まれる前から婚約するだろうと言われていた二人は、名前も似せて付けられ、その容姿すらよく似ていた。それが気にいらないと思い始めたのは、一体いつのことだっただろう。
アレックスが自分の運命の相手だと神託で賜ったとアレクサンドラが言った時、初めて病弱な弟を羨んで……憎んだ。
療養先でザルアナック家のあの子にアレックスが惚れて帰ってきたことを、誰より喜んだのはきっと自分だった。あの子のために弟が変わっていく様を嬉しく思ったのは、たった一人の弟が活き活きと生き始めたからだけじゃない。彼の運命の相手はアレクサンドラじゃない、そう思えたからだ。
だから、あの子が再びアレックスの前に現れたことを知った時、弟の幸せを思いながら、スペリオスは一方で自分のために喜んだ。
アレックスは間違いなく知っているのだろう。スペリオスがアレクサンドラにひどく執着していることを。
(だから、彼女の身を案じている僕の頼みを断らなかった……)
スペリオスは自分とよく似た弟の横顔をじっと見つめる。
彼の誤算は、サンドラの矛先があの子にまで向かったことと、サンドラが自分だけのものにならないなら、アレックスを与えよう、そうすれば彼女は、彼を通じて自分から離れられなくなる――そう考えるまでにスペリオスが病んでいたことだ。
矛先が向くことを知っていながら、あの子のことと、あの子とアレックスの関係をサンドラに教えたことにはさすがに憤ったようだが、すべて知った上で、それでも許してくれる気らしい。
「……本当に人がいいな」
そう言うとアレックスは嫌そうな顔をした。それから、真顔になり、まっすぐスペリオスを見つめてきた。
「スペリオス、おまえはそれでいいのか?」
自身嘘を吐かないがゆえに、見られる者にも嘘を許さない目線は、同じ色の瞳をしていてもスペリオスには絶対ないものだ。
「……どこまでお人よしなんだか」
笑うしかなかった。そして自嘲とともに吐き出した。
「どうしようもないだろう」
なぜあの女でなくてはならないのだろう……? 愚かで我がままで残酷で、加えて厄介なものを背負っていて、それに振り回され、こちらにもそれに付き合うことを強いる。
なのに……離れられない。吐きそうになるくらい憎いと思うまでに至っているのに、今なお彼女さえいればそれでいいと思ってしまう。ずるずると闇にのみ込まれていく。
「……」
アレックスの目に痛ましいものを見る色が浮かんだ。その清浄な心根が羨ましくも疎ましい。
あれだけのことをしたサンドラを迷うことなく助けたという、アレックスの愛するあの子もそれは同じで、サンドラはそういったアレックスの性質が欲しくて仕方が無いのだろうけれど……。
「……あの子、フィリシア・フェーナ・ザルアナックはお前の人生に混沌をもたらすそうだよ」
これはアレクサンドラが斎姫として賜った本物の神託だ。
自分の苦しみを何とかしたくて、八つ当たりのようにこんな言葉を口にし、そんな彼らを傷つける自分たちはひどく汚らわしい。
そう否応なく悟って、さらなる嫌悪に全身が暗く染まっていく。
「スペリオス……」
聡い彼のことだ、それに気付いていないはずがない。なのに、怒るわけでも憐憫や嫌悪を見せるわけでもなく、じっとこちらを見つめている。
それから彼はかすかに笑って口を開いた。
待たせていた馬車へと乗り込む。晴れているせいか、夜の冷え込みは一段と厳しい。扉の閉まった馬車の内で、スペリオスは思い出したように外套の襟をかき寄せた。
今頃アレックスはあの子の隣に戻り、幸せに笑っていることだろう。
闇をのみ込む暗黒、そうして堕ちていくのだと、それが自分の運命だと思っていた。だが、お日さまのような印象のあの子は、弟を変えただけでは飽き足らず、それも認めてくれない気らしい。
『僕の特別な子なんだ、泣かせたのは許しがたいな』
アレクサンドラをザルアナック邸に迎えに行ったスペリオスに、交流を再開させて一年ほどになるラーナックはそう言って静かな怒りを見せた。
『……もうどうでもいい。だから好きにしたらいい』
彼から何か仕返しを受けるならそれもいいと思った。どうせ幸せな未来など自分には待っていない。腕の中で気を失っているアレクサンドラを見て、そう呟いた。
後は狂気に駆り立てられながら、運命を我が物にしようとアレックスを求めるアレクサンドラを欲しいと望み続け、人の道を踏み外していくだけ。可愛いと、大事にしようと思っていた弟の人生を踏みにじり、その恋人を巻き込む。自分たちの幸せを願う両親に背を向けて、きっと悲しませるのだろう。
だがそう告げたスペリオスに、ラーナックは一瞬呆れたような顔をしてから――苦笑した。大分参っているようだね、と。
『……っ』
その顔に、ここ数年で初めて泣きそうになった。
『とりあえずアレックスかフィルに会って謝っておいで。投げやりになるかどうかはそれから決めたって遅くないよ、スペリオス』
『ラーナック……』
『と言っても、どっちに会ったってきっと投げやりにはさせてくれないだろうけれど』
そう笑って自分の背を押した、自分より一つ年上の幼馴染の顔を思い出す。
『捉え方次第でどうとでも変わる、変えられる』
それから先ほど弟が見せた、静かな笑みを思い浮かべた。
「……変えられる、か」
他の者が言ったなら一笑に付すところだ。
『もたらされるのが繁栄だろうと、平寧だろうと、世界だろうと、彼女がいないなら何の意味もない』
『逆に彼女さえ傍らにいてくれるなら、混沌も……死すらも恐ろしくはないんだ』
だが、実際にあの子ゆえに自分の運命を『変えて』きたアレックスがそう言うのなら……、
『お前も本当は知っているだろう、スペリオス』
諦めるのはまだ早い――そういうことかもしれない。




