11-18.撃
太陽が地平線から顔を出したのかもしれない。東の空がほんのりと明るくなった。
周囲には朝霧が立ち込めている。少し離れた場所にある街灯がぼんやりとした光の球のごとく、辺りを鈍く照らしている。
身を切るような寒さの中、フィルはザルアナック伯爵邸の門の前に立っていた。寒さのためか緊張のためか、震えている自らの指先を見て、フィルは口元を引き締める。
(逃げてばっかりだったな……)
アレックスの周囲には男女の別なく、素敵な人たちがいっぱいだと思う。その人たちと比べて、自分の何かが優れていて、それゆえアレックスにふさわしいと言うことができない。劣っているところはいくらでも思いつくのに。
だから目を逸らした。アレックスが自分を見てくれることを、選んでくれることをただ祈った。そして、それは叶えられないと人に指摘されて……――逃げ出した。
それだけじゃない。自分が傷つかないために、アレックスの気持ちからも目を逸らした。そうすれば、彼に直接『いらない』『フィルでは不足だ』などと言われて傷つくことはない。自分自身そうかもしれないと考えて苦しむ必要もなくなる。だから私じゃ彼を幸せにできない、だから私じゃないほうがアレックスにとっていいと、勝手に彼の気持ちを決めつけようとした。
「私だって何もアレックスに伝えていなかったのに」
我ながら情けなくて、ため息を吐き出す。
やっとそう気がついたのは、昨日彼がやってきて『愛している』と告げてくれてからだ。
自分のことをアレックスに話していない。それが後ろめたくて、自分だって好きだという思いをアレックスに伝えたことはなかった。
(挙げ句の果てに、勝手に報われないんだって思って泣いてたなんて……ちょっと、ううん、かなり情けない)
自己嫌悪に大きく眉を寄せながら、フィルは決意を新たにする。
今度こそ全部伝えよう。アレックスと顔を合わせて、しっかり目を見て。
たとえアレクが相手でもフィルはアレックスを諦められない。昨日彼の声を聞いて、そう悟ってしまったのだから――。
「……」
緊張を和らげようと、長くゆっくりと息を吐けば、目の前の霧が濃さを増した。代わりに気管に入ってきた空気は冷たく鋭い。
本当は今でもひどく怖い。全部話して今度こそ呆れられたら、嫌われたら、と思うと体が震える。全部さらけ出した上でアレックスに拒絶されたら、立ち直れないまでに傷つく、そう分かっているから。でも……逃げてはいけないことも分かる。
傷つくことは怖い。鋭利な刃物で、手足を一瞬で切断される感覚に似ている気がする。でも、そんな一時の痛みを恐れて見ないふりした気持ちは、時間をかけて、そうと気付けないほど緩慢に自分を締めつけ、じわじわと縊り殺していく。ようやくそう気付いた。
『ねえ、フィル、一番怖い嘘は自分を欺くためものなのよ……?』
事ある毎にそう言っていたのは祖母だった。自分はそれが嘘だと本当は誰より良く知っているから、その事実から目をそらすために、人は少しずつ自分を狂わせていく、と。
『なんか難しい……』とだけ思っていたあの言葉の意味が、今なら少しわかる気がする。
彼の気持ちを確かめることもなく、私の気持ちを伝えることもなく、ただ自分が傷つかないために、今ここで彼から逃げれば……私はきっといずれ後悔する。あの時、ああしておけば、と。
それから、今度はその後悔をなんとかするために言い訳を重ねるのだろう――あの時は仕方がなかった、私のせいじゃない、彼の幸せを思ってのことだとか、自分で自分を欺いたことを心の片隅で責めながら。
そうして、結局後悔と自責と逃避に押しつぶされて、少しずつ狂っていくのだろう。見ない振りをして逃げた自分の気持ちと、アレックスが向けてくれた気持ちとを道連れにして。
(目の前の、痛いだろうと簡単に想像できる、もしかしたら致命傷になるかもしれない大きな傷か、それを避けて長い年月の果てに確実に起こる、緩慢で取り返しのつかない壊死か――どっちの未来を選ぶのか、結局は私次第なんだ)
「……頑張ろう」
ぎゅっとこぶしを握り締める。
強くなろう。いつもじゃなくてもいい。今は退いては駄目だという時に傷つく痛みに負けない勇気を、そういう時に、自分と彼の気持ちを守るために頑張れる強さを持とう。
その場で傷つくことを恐れて言い訳を見つけて逃げるより、たとえ失敗してボロボロになるかもしれないとしても、ちゃんと自分にも彼にも向き合ってみよう。
――私は、そういう私でいたい。
彼方から馬車の音が聞こえた。霧の向こうの空が明るみを増して、町が少しずつ動き出す。
「アレックス……」
静かな、凍える空間で、白い吐息とともに彼の名を呼んで、フィルは決意を確かめる。
遅くなったけれど、自分の気持ちもちゃんとアレックスに伝えたい。それから自分のことをちゃんと彼に話そう。
昨日この屋敷にやってきたアレックスは、フィルがザルアナックに縁があることをもう知っているだろう。けれど本当はそこにいる資格のない者なのだと、その話もしよう。
父親に勘当されたような人間だと知られて、今度こそ嫌われるかもしれない。貴族でなくされたような人間だとわかれば、負担に思われて敬遠されるかもしれない。
でも、もう逃げない。逃げないで、今度こそちゃんと話をしよう――この先も彼と一緒にいるために。
「…………」
震えを治めるために、フィルは握り締めた手を胸元に押し付けた。
遠くで聞こえていた馬のひづめと車輪の音が少しずつ大きくなり、霧の中にぼんやりとした影が現れた。次第にはっきりした形となっていく。
二頭立てのその馬車はフィルの前で止まった。
「……」
御者が定位置から降りて馬車の扉を開け、流れるような黒髪の、美しいシルエットの女性が降り立つのに手を貸す。
ドレスの裾を掴み、しずしずと石畳に降り立ったその人は、背筋をまっすぐ正すなり、フィルを見て微笑んだ。
「……アレク」
アレクサンドラだ。なんとなく予感がしていたフィルは、静かに彼女を見返す。
「アレックスならあなたの元へは来ないわ」
その彼女はこちらを真っ直ぐ見たまま、はっきりした声でそう告げ、「お気の毒だけれど……ごめんなさい、フィル、選ばれるのは私なの」と言い足した。
本当に気の毒そうな表情を見せた後、彼女は一瞬だけ、隠しきれない優越を顔に浮かべた気がした。
「……」
ひどく悲しくなる。あの優しいアレクにこんな顔をさせているのは自分だ。それにアレクは、この先ももう昔のようには笑わない。
「っ」
そう悟って込み上げてきた動揺を、フィルは両こぶしを握り締めることで抑えつける。それでも、ともう知ってしまっているのだから、と。
「じゃあ、私が彼の元に行く」
沈んだ気持ちのままだったし、大きな声でもなかったけれど、アレクサンドラの目を見て率直に告げた。馬車のやってきた方向、ニステイス邸へと歩き出す。
遠くで新聞を配る若者の朝の挨拶の声、馬のいななきなどがこだまする。
「お待ちなさい――あなたが私の屋敷に出入りすることは、カダ神がお許しになっておられません」
数歩進んだところで、冷然とした声に歩みを止めた。綺麗に澄んだ音色は同じでも、昔の彼女の声にあった温かみはない。
「……」
振り返れば、再び目の合ったアレクサンドラが「何か伝言があれば、私が彼に伝えてあげるわ、フィル」と打って変わった、優しい声色で告げてくる。
「……ありがとう、アレク。でも自分で彼に伝えることに意味があるから」
霧の薄膜越しに、アレクサンドラの頬に朱が走ったのが見えた。
それが納まった後、彼女は悲しげな表情で口を開く。
「フィル、フィルは私のお願いを叶えてくれない気なのね? 私はただアレックスを神の御意思どおりに、私に返して欲しいだけなのに」
あの夏、自分に向けられることが嬉しくて仕方のなかった青い瞳に、今は涙が滲んでいる。
「……」
覚悟したとはいえ、やはり心が痛んでフィルは顔を歪ませた。
初めて友達になってくれた、とても大事な人だ。ずっと会いたいと思ってきた。離れている間もずっと助けてもらった。何より、その彼女もアレックスを望んでいて、フィルにはその気持ちが誰より良くわかってしまう。
「アレックスの運命の相手として選ばれたのは私なのよ、フィル」
(それに加えて、運命……)
眉間に深いしわを寄せると、フィルは覚悟を決めるかのように天を仰ぐ。
頭上はまだ夜の名残で暗く、霧をまとってひどく重苦しい。今の自分の気持ちそのままに見えた。
大きく息を吸って、両脇のこぶしをもう一度握り締める。
「アレク、運命だろうと何だろうと、私はアレックスを自分から諦める気はないよ」
決意を鈍らせないように彼女の青色の瞳をまっすぐ見つめ返し、口にした。
(アレク、本当にごめん……)
あの夏、何度も何度も自分を見て笑ってくれた瞳と同じ色――その事実にひどく胸が軋む。彼女の顔が今度は容易に消えない赤に染まった。
「あ、あなたっ、あなたのせいなのに。この身体の傷はあなたのせいでついたのにっ」
「……っ」
ひどい恩知らずだ、という内心の声に、その声が重なって、体がぎしぎしとねじり上げられるような気がした。
本当にひどいと思う。これまでずっとずっとフィルを支えてくれたのは、アレクだった。彼女のためなら、彼女を守るためなら、一緒にいるためなら、何でもできると思っていた。そのために必死で努力してきた。なのに、同じくらい、ううん、いつの間にかもっと大切な存在になったアレックスをフィルは諦められない。
「ごめん。それでも誰にも……たとえアレクでも譲れない」
「あ、あなたなんか、何の価値もないのに。アレックスを幸せになんかできっこないのに。アレックスを混乱させるだけなのに……っ」
一瞬地面がまた揺れた気がした。けれど、今回は両足の感覚をすぐに取り戻す。
(もう大丈夫。もう踏みとどまれるはずだ)
意識して深呼吸して、フィルは口を開いた。
「私の価値を決めるのは、私だと思うんだ、アレク。誰が認めてくれなくても私が私を認められればそれでいい。逆に誰が認めても、私が認められなければ、意味はないんだと思う」
とても難しいことだけど、自分が好きでいられる自分でありたいと思う。いつも自己嫌悪に陥っているけれど、それでもそうなることを諦めたくはない。
「だから、アレックスのことも頑張ることにした。彼に好いてもらえるように、彼を幸せにできるように頑張る」
そのために全部ちゃんと話して、その上で私を受け入れて欲しいと、今度は口にする――。
「幸せだって同じことだから、諦めない」
そのために自分の弱さに向き合うと決めた。戦って欲しい未来をつかむと決めた。
「……っ」
耳まで真っ赤にしたアレクサンドラの唇がわななき出し、顔全体が歪む。その青い双瞳から、滴がぽろりと零れ落ちる。
「……?」
その瞬間、違和感が頭をかすめた。何かがおかしい気がする。
(私のことをあなた……? それに泣いてるし……大体あのアレクが人に向かっ――)
空気を裂く鋭い音に、フィルは目をみひらく。咄嗟に目の前の華奢な身体を抱えて伏せた。
腕の内のアレクサンドラが小さな驚きを漏らした直後、生肉の裂かれる鈍い音がして、馬車の御者が悲鳴を上げた。
「な、なに、なんなの……」
押し寄せてくる殺気と血臭、腕の中からの動揺に、思考が一瞬で切り替えられる。
(――襲撃、何人、どこから……)
右手で剣を抜くと、へたり込んでいるアレクサンドラを左腕で引き起こす。
「ひっ」
「っ」
狙いを自分たちへと定めて射掛けられた矢を剣で払い落とした。
しまった、狙われているんだった、最初にそのことに気付いて考慮すべきだったのに、と自分に舌打ちする。
「大人しくしていて――大丈夫、必ず守る」
フィルは敵の情報を得ようと、濃い霧に覆われた周囲に意識を凝らす。同時にアレクサンドラの身を静かに抱え上げた。




