【第2章】2-1.安心
入団から三日目の朝。フィルはいつものように日の昇る前に目覚めると、隣のアレックスを起こさないよう、静かに洗面室に移動した。
「……」
着替えるべく夜着を脱いで視線を上げれば、伸縮性のある特殊な下着を身に付けた自分の姿が、目の前の鏡に映っている。仕方がないとはいえ、寝る時もこれをつけたままというのはやはり窮屈だ。
「……私はフィリシア・フェーナ・ザルアナック。でも今はフィル・ディラン。年は十六。性別は女。のはず。でも言わない……」
白いシャツを羽織り、改めて鏡の中の自分をじっと見つめると、フィルは確認するように呟いた。
せっかく入ったここ、カザック王国騎士団に居続けるために必要なことは、その二つだ。
まず、生まれを周囲に知られてはいけない。父はフィルに家から出て行けと告げた後、名乗るなと念を押した。それを破った場合、あの人のことだ、自分と兄のために、フィルの居場所をつぶしにかかるぐらいのことはする気がする。
鏡に映る顔の眉間に、深いしわが寄った。父のことを考える時はいつもこんな感じだ、とフィルはため息を吐く。
もう一つは、性別を知られないようにすること。フィルが知る限り、今現在騎士団に女性はいない。禁止されているわけではないようだが、女性が剣を握ること自体あり得ないと言われるのだ、ここでも歓迎されるとは思えない。しかも、自分は祖父の若い頃に相当似ているらしいから、性別を知られれば、素性がばれる可能性もあがってしまう。
「隠し事、苦手なんだよな……」
そうぼやいた後、フィルは気を取り直そうと、両手で自分の頬を叩く。それから、洗面室から出ようと、戸についているピカピカと光る鍵を開けた。
「……」
自分が自分であることを知られないよう、常に気を張っているが、この鍵のおかげで息をつける場所がある。
「運、いいなんてもんじゃないよなあ」
寝室への入り口に立って、フィルはまだ寝ているアレックスを眺める。
その鍵を「共同で暮らすなら必要だろう」と言って手配してくれた人だ。知り合ってからたった三日だが、断言しよう、彼はものすごくいい人だ。
最初の印象がそうだったように、男性の平均より頭一つ弱高い身長と、アレクレベルで整っている顔立ち、落ち着いた言動が相まって、彼は一見怖く見える。でも、視線が交わる度に目元を優しく緩めてくれるし、口数も多くはないけれど、こっちを慮って言葉を一つ一つ選んでくれているとわかる。
だから、右も左もわからない緊張の中、フィルは信頼できそうだと思った彼にひたすらくっついて色々学習中だ。毎日自分なりに必死なのだが、ザルアの湖で毎年春に繁殖していた水鳥の雛のようだ、と自分で思う。
何がまずいかって、七、八羽いる雛の中で大抵一匹、ふらふらと逸れるのがいるのだが、自分はまさにそれだということか。一昨日にはきょろきょろしているうちに彼と逸れて、建物の中で迷子になり、中庭(緑がいっぱい!)でぼうっとしているところを拾ってもらった。少し、いや、かなり落ち込んだ。
ちなみに、そのアレックスの剣の腕は、予想以上にすごかった。高い上背とそれに見合う筋肉があって力があるのに、動きも速い。こちらの隙を逃さずついてくるのに、自分の隙は作らない。基本に忠実だけど、型には嵌らないスタイルも楽しい。フィルの二つ上らしいが、同じ年頃でここまでの人を見たことがなかったから、嬉しくて仕方がない。
アレックス以外の人について言えば、ヘンリック以外の同期の知り合いもできた。入団式で声をかけてきたカイトとその友人のエドワードとか。
あと、それ以外の人たちもなんとなく顔がわかるようになってきて、たまに目が合うと声を掛け合ったり、手を上げて合図したりする。アレックスがすぐに期生別の講義が始まると言っていたから、そうなったらきっと名前もわかるようになるだろう。
となると、一番の問題は、やはり配属先の第一小隊員たちだ。この先の仕事は、基本的に彼らとともに行動することになるらしいから、早く馴染みたいと思って気だけは焦るのだが、人数にして二十人強の彼らの顔と名前を正確に覚えるのは中々難しい。体つきと動きを見れば、その人と対戦した時の記憶は思い浮かぶのだけれど……。
昨日は昨日で、大きな熊みたいな小隊の人に呼びかけられて失敗した。
「ええと、昨日の午後。下段から中段の連続攻撃が綺麗で、あとは上段への突きがきつかった、それから槍の似合いそうな体格の人だなあと思った……お名前、すみません、忘れました」
そう答えたら、周囲にいたみんなに呆れられた。それで、自分はこの先ここでちゃんとやっていけるのだろうかとさらに不安になっていたら、アレックスがまた助けてくれた。
「ミルト・ホルスン、オルツ地方出身。三十九期生。一つ年上の奥さんと十歳になる娘さんがいて、長剣と馬が得意」
「奥さん……意外」
「何をぅ?」
「しかも美人だ」
「……ますます意外」
結局、「どういう意味だ」と呻いたその人に小突かれて、みんなに笑われた。痛かったし、少し恥ずかしかったけれど、みんな温かそうだとわかって、それで『なんとかなるかも』と初めて思うことができた。我ながらげんきんだけど。
(アレックスのことだから、多分そうなるように考えて、あんなふうに助けてくれたんだろうな)
フィルは昨日の記憶に口元を綻ばせながら、キッチンで沸かしたお湯をお茶のポットに注いだ。
お礼を言ったフィルに、彼はアレクそっくりの目で笑い、頭を撫でてくれた。彼にお礼を言う立場のくせに、自分の方がいつもいい目にあってしまう。
お茶を窓際のテーブルに運ぶついでに、彼の寝顔を覗き込んで、やっぱりアレクに似ている、とにっこり笑った。
「ん……おはよ、う、フィル……」
「おはようございます、アレックス」
寝惚け顔で起き上がって、顔を洗いに部屋を出て行く彼を見送って、フィルはさらに予感を強める。
この先、自分はきっと彼を大好きになる――ひょっとしたら、あのアレクと同じくらいに。
* * *
そんなこんなな状況で迎えた夜、フィルは第一小隊のみんなとともに酒場にいる。なんと、『私の(!)歓迎(!)会』らしい。ちょっと、いや、かなり嬉しい。
「飲んだことない? なら、なおさら試しとけ」
「はあ」
フィルの配属先の小隊長であるウェズが、ニヤッと笑って、フィルの手中のグラスに酒を注いだ。
入団式の日に、アレックスの隣で大笑いしていた三十代半ばの赤毛の彼は、背筋がゾクゾクするぐらい強い。彼の故郷の様式だという剣技は独特の動きなのにごく合理的で、しかもしなやか。一撃一撃が命の危険を感じるほど鋭くて、めちゃくちゃ楽しいのだ。機会がある毎に相手をしてもらっているが、勝てる気配は欠片もない。それでも絶対に諦めない。先は長そうだけど、絶対に追いついてやると決意している。
「ほら、遠慮するな」
「遠慮……」
祖母が酒に気を付けるように言っていたことを思い出し、フィルはグラスの中の液体をしげしげと眺める。
(ええと、確か、性格が変わる、かもしれない、何をしたかされたか覚えていない、かもしれない、意識や体が思い通りに働かなくなる、かもしれない……だったっけ? だから、安心できる人以外と飲むな……って、明らかな危険物じゃないか、それ)
「!」
警戒と共に見つめていた先のグラスにいきなり水が注ぎ込まれた。びっくりして見上げれば、いつも通り怜悧冷徹そのものと言った風情のアレックス。ただし、水差し付き。
「……アレックス、お前、案外過保護だったんだな」
「常識があると言ってください」
上官であるウェズの咎めの視線にも、アレックスはまったく表情を崩さない。
「ここで飲み潰れるのが新人の宿命だろう、アレックス?」
「俺は潰れませんでしたが」
「く、可愛くない十四歳は成長してますます可愛くなくなった」
(すごい、アレックス、やっぱり何だかすごくえらそうだ)
フィルが来るまでアレックスの相方だったという、イオニア小隊長補佐の懐柔するかのような声も、その後の文句もやっぱり無視。
「アレックス、過保護は相手のためにならないぞ」
「娘の男友達に、片っ端から『手を出すな』と脅して回っている人の台詞とは思えません」
「……何で知ってんだよ」
諭すようなミルトさんの言葉も、アレックスは一刀両断にする。
「確かに少しその酒はきつすぎる。せっかくの歓迎会なんだ、いきなり主役が潰れちゃ元も子もない」
なんだか妙な人が多いんじゃないかとフィルが感じ始めている小隊の中で、比較的普通そうなヘルセンさんの声に、アレックスは息を吐いた。
やっぱり心配してくれているんだ、と悟ってフィルは小さく笑った。ちょっと、いや、かなり嬉しい。
「だけどアレックス、よく考えてみろ、ここなら酔っ払ってもみんなもいるし、お前もいるから安全。例えば同期とでも飲みに行かれて、前後不詳にでもなってみろ、フィルの場合はその方がやばいぞ」
そうニヤニヤ笑って、アレックスの肩を叩いているのがオッズだ。彼とアレックスは同期らしくて、よく一緒にいるし、結構仲が良さそうだ。その関係なのか、彼はフィルにも良く(時々微妙に思うこともあるけど)してくれていて、アレックスとウェズの次にフィルが名を覚えたのは彼だ。
「酒との付き合い方を知るのはいいことだ。情報をとるためとか仕事で酒場に行く場面も多いし、自分の限界や特性を知っておくといい。というわけで、こっちの軽いので、試してみたらどう?」
そう言いながら、酒の種類を変えてくれたのが、言葉遣いが丁寧で物腰もひと際柔らかいザルクだ。
「限界や特性を知る……うーん」
ザルクの言葉と祖母の教えを比べて、フィルは眉根を寄せた。そういえば、「何事も経験よ、フィル」が口癖で、何でもやらせた祖母が、なぜ酒だけあんなふうに言っていたのだろう。
(爺さまはお酒弱かったっけ? ひょっとして爺さまが何かやらかしたとか? 聞いてみたいけど……)
彼らともう永久に会えないことをまた実感して、喧騒の中一人沈み込んだ瞬間、オッズの横のアレックスと目が合った。
「……」
明らかに心配してくれているとわかる視線に物思いが消え、温かい気持ちが広がっていく。
「大丈夫、大丈夫、酔いつぶれたら、おぶって帰ってやるから」
「二日酔いの薬もやるぞ」
そんなことを口々に言いながら、みんな思い思いに酒やらつまみやらに手を伸ばし、冗談を言い合っては、小突きあったりしている。すごく賑やかで、結構乱暴だと思うのに温かい、不思議な雰囲気だ。
フィルは手の中のグラスとアレックスをもう一度交互に見る。
「……うん」
(まあ、いいや。ここは大丈夫な気がする)
そう結論付けると、フィルは手にしていたグラスをぐっと一気に開けた。
「フィルっ、ちょっと待てっ」
(あ、アレックス、顔引き攣った)
さっきまでの顔とは別人みたいで、ちょっと面白い。




