11-16.渇望
兄と従妹を問い詰めたアレックスは、フィルの姿を求めて迎賓宮の裏門から飛び出した。目が即座に彼女の姿を捕らえる。傍らに誰かいる。
(あいつ、は……)
一瞬女性かと思ったが、その横顔を見てアレックスは息を止めた。男だ――庇護対象に向けられる独特の目を見てそう悟る。
それだけじゃない。フィルはアレックスですらほとんど見たことのない、頼りなげな顔で彼を見、何より子供のように男の手を握り締めている。
「っ、フィルっ」
自分以外ではありえないはずの親密さを見てとった瞬間、体の芯が収縮した。意識する前に彼女の名が口を突いて出る。
馬車のステップに足をかけていた彼女は静止する。声は確かに届いたはずだ。だが、男に背を押され、彼女はアレックスを振り返らないまま、内部に消えた。
「……」
横にいた男が振り返り、値踏みするかのような視線をアレックスに向けてきた。切りかかりかねない形相で睨むアレックスへと涼やかに微笑み、フィルと同じ馬車に乗り込む。
「フィル……っ」
そうしてアレックスの目の前で彼女はさらわれた。
数日前のヘンリックの声がまた頭に響く。
『誰かに掻さらわれるかも』
(ようやく誤解を解いたところだったのに、あの二人のせいで……)
苛立ちのまま罵りを口にし、髪をぐちゃぐちゃと乱す。
先ほど詰め寄ったアレクサンドラと、彼女と共に謀っていた兄の姿を思い出して、顔を歪めると、アレックスは迎賓宮の広間へと足早に引き返した。
フェルドリックからあの男の身元を聞き出して、馬で行き先に乗り付ける。そしてフィルを取り戻す。あの男が誰だろうと、絶対にフィルは渡さない。
『フィリシアはあなたに今後近づかないそうよ』
――たとえそれがフィルの意思であったとしても。
「っ」
そう考えた瞬間、心臓が抉られるような痛みを覚えた。
サンドラのあの言葉を嘘だと思う一方で、さっき遠めに見た彼女はひどく沈んでいた。気のせいでなければ、泣いていたようにも見えた。その事実が全身を刺す。
『私は自分がアレクだなんて一言だって言ってないわ。彼女が勝手に思い込んだだけ。「アレク」が随分と好きみたいね、馬鹿みたいにはしゃいでいたわ』
嘲笑に満ちたサンドラのあの台詞。
あれがもし本当なら? フィルが『アレク』をそこまで好いていて、サンドラを『アレク』だと信じて、その上で何かを言われたのだとしたら? その結果が、あの顔だとしたら……?
(――全部俺のせいだ。俺が傷つけた)
自責と自身への嫌悪に思考が暗く染まっていく。
広間に戻るために辿っている迷路のような迎賓宮の作りが、自分の置かれた状況そのもののように思えた。
ようやく戻った会場で、アレックスは女性に囲まれていたフェルドリックを強引に輪から引きずり出した。
「腰に届く長さの金髪、僕と同じくらいの身長、細身、白地に金と水色の縁取りのある夜会服、美形……」
彼は眉を顰めながら、アレックスの告げた男の特徴を繰り返す。
「……となると、ロンデールも利用されたってことか。ほんとこの上なく性質が悪い……」
露骨な嫌悪と共にそう吐き捨て、「だから言っただろう、スぺリオスに注意しろって」とアレックスに半眼を向けた。
「同情してやらなくもないけど、ほんとフィルが関わると昔から情けないよね」
「……知っている」
嫌というほど自覚があった。
『アレク』
『アレックス』
幼い姿でも今の姿でもアレックスの脳内の彼女は、アレックスを見、名を呼んでいつも笑っている。そのまま笑っていて欲しい。俺が笑わせておきたい。そう思ってしまう。
愛しくて仕方がなくて、大事にしたくて、最善を考えすぎて、身動きが取れなくなる。
失いたくなくて、絶対に泣かせたくなくて、可能性を考えすぎて、必要な判断を誤る。
フィルのためにならなんだってする、差し出すと決めているのに、彼女を想えば想うほどうまくいかなくなる――矛盾だらけのこんな状況を一番情けなく思っているのは、他ならぬ自分自身だ。
「頼む、フェルドリック」
「……」
顔を歪めるアレックスに、付き合いの長い従兄は彼には珍しい類の苦笑を零した。
「――まったくです」
「ナ、ナシュアナさま」
異母兄のフェルドリックも動揺する傍らのアーサーも無視して、ナシュアナ王女がまっすぐ近づいてきた。美しく澄んだ茶の瞳に怒気が見え隠れしている。
「あなたというよりあの斎姫、フィルに何をしたの?」
そして、「あのラーナックがわざわざフィルを引き取りに来るなんて」と苦々しく呟いた。
(ラーナック……?)
「ナシュアナ殿下」
「…………そんなに心配する必要は無いわ」
低い声を投げたアレックスに、小さな王女は昔とは違って怯えることなく、やはり呆れ顔で応じた。
フェルドリックが横で、今度は隠すことなく苦笑している。「これが自分の生にすら淡白だった君の十年後とはねえ」と。
「ラーナック・ド・ザルアナック。フィルの兄だよ。もっとも社交の場に顔を出すようになったのはここ最近になってからだから、あまり知られていないけどね」
即座に踵を返した。そしてアーサーが「……ザルア、ナック……兄……」と呟いている声を後ろに、アレックスは会場を駆け出た。
* * *
息を整えもせず扉を叩いたザルアナック伯爵邸の応接室。
出迎えに出た執事にそこに通されたアレックスは、シンプルだが居心地のいいソファに腰かけて膝に肘をつき、両手を額の前で組む。
今晩、いやその前からの一連について考えれば考えるほど、自分の迂闊さが呪わしくなる。
頭に浮かんでくるのは傷つけてしまったフィル、そしてずっと信頼してきた兄のことだった。
(……一体何を考えてるんだ……)
フィルとサンドラを迎賓宮の奥に探していた、アレックスとスペリオスの前に現れたのは、サンドラ一人だった。
アレックスは彼女にまるで自分があの『アレク』であるかのように振るまっていた意図と、フィルの所在を問い質した。
彼女の答えになっていない答えは、『あなたの運命の相手は私でしょう? フィリシアはあなたに今後近づかないそうよ』
『っ』
全身から血の気が引いた――認められる訳がない。
『その程度の相手ということでしょう。ねえ、アレックス、あなたの、』
『――ふざけるな』
思いがそのまま口をついて出た。
『フィルに何をした? 彼女はどこだ?』
殺気を隠す気はなかった。詰め寄ったアレックスにサンドラの顔は青ざめ、泣き始める。だが、彼女らしいと言えば彼女らしいことに、泣くばかりで返答する気はないようだった。
「……」
「……スぺリオス?」
黙ってやり取りを見ていた兄が、不意に暗い笑みを漏らした。
兄らしくないその顔に、アレックスはようやくこれが仕組まれたことである可能性に思い至った。ロンデールがやってくることも含めてすべて計算だったとすれば、アレクサンドラが考えつけることでも仕組めることでもない。
(まさかここ数週間の彼の行動もすべて……?)
呆然と彼を見つめたアレックスに、彼は『あの子が、お前の大事な女がどうなろうと知ったことではない』と歪んだ笑いを零した。
『っ』
激昂して、アレックスは生まれて初めて兄を殴った。
扉が開いた。
「っ」
音を立てて立ち上がったアレックスの視線の先、扉の隙間から現れたのは期待したフィルではなかった。先ほどフィルと共に馬車で消えた彼だ。
「アレクサンダー殿、ご足労いただいたところ非常に申し訳ないのだけれど、どうか今日はお引き取り願えないだろうか」
夜会服に身を包んだままの彼に目を合わせて静かに、だが厳しく言われて、アレックスは顔を歪める。
灯火の下で改めて見たその人は、フィルによく似ていた。紫色の瞳を囲む目の形と、こちらを真っ直ぐ見つめる視線の強さが、そっくり彼女に重なる。
兄を殴ったせいで鬱血し始めたこぶしに力が入った。
「どうかお願いいたします――どうしても今フィルと、彼女と話がしたい。謝罪がしたいのです」
フィルを巻き込んで傷付けた。嫌われたくなくて、『親友』に戻ってしまうのが怖くて隠していた過去が彼女を蝕んだ。
迎賓宮の裏門で見たフィルの表情を思い出すたびに、全身が軋む。
(フィルにあんな顔をさせるのは絶対に嫌なのに……)
なぜ、なぜうまくやれないのか、誰より大事にしたいと思っているのに……――。
彼女の沈んだ表情がまた目の前にちらついて、アレックスは自己嫌悪と後悔に奥歯を噛みしめる。
「失礼いたします」
先ほど自分をここへと案内した執事の男性が茶を運んできて、小さな音と共にラーナックとアレックス、それぞれの前に置いていく。
「……とりあえず、かけようか」
ため息をついたラーナックに着席を促された。固い顔のまま応じる。
「アレックス、だったよね。僕もそう呼んでいいかな?」
再び扉が閉じ、彼と二人きりになった瞬間、突然愛称を呼ばれた。声音も先ほどまでとは違っていて、アレックスは驚きつつ伏せていた顔を上げた。
目が合った彼が困ったように笑う。
「フィル、それにスペリオスもそう呼んでいたから」
「……」
人を安心させるような笑い方――フィルのものにそっくりで、泣きたいような気分になった。
「スペリオスはスペリオスで必死なのだろうけれど、彼には後できっちりお返しをしないといけないな」
そう苦笑して、ラーナックは自分がスぺリオスと知り合いであること、今回の事情をうすうす察していることをほのめかした。
「アレックス、色々事情があるのだろうと思っているし、君の気持ちも理解する。でも少しフィルに時間をあげてくれないか? 今とても混乱しているようだから」
「……」
(その間に、フィルと話をする前に、フィルが結論を下してしまったら? 俺をいらないと言ったら?)
先ほどは杞憂に終わったが、今回もそうだとは言い切れない。アレックスはこみ上げてくる不安に眉根を寄せ、膝の上に置いた両こぶしを痛いほど握りしめる。
(サンドラはフィルがもう俺には近寄らないと言ったと……。それは終わりを意味しているのでは……?)
どうしようもなく恐ろしい。底なしの沼に足を取られて、徐々に沈んでいっている気がする。彼女を失えば、息が出来なくなると決まっているのに。
「……大丈夫、」
不安が顔に出ていたのかもしれない。ラーナックは表情を緩め、アレックスの顔をのぞき込んできた。
「フィルは真っ直ぐな子だから、その混乱さえ収まれば、ちゃんと君と話をするよ。僕らはそう躾けられてもいるからね」
「……」
目の前の彼に、ザルアで出会った今は亡きザルアナック老伯爵を思い出した。
ヒュドラに出会って怪我をしたフィル、そのフィルに助けられるばかりだった幼い日の自分。あの時、自分の不甲斐なさを責めて泣いた自分の話を聞いてくれた彼も、同じ雰囲気をしていた。
少しだけ手から力が抜ける。それを見てか、ラーナックが微笑んだ。
彼が茶に手を伸ばし、優雅に口に運ぶ。
外で冬風がひと際強く吹き、枯れ葉が応接室の窓を打った。
「少しぐらいあの子に家族らしいことをしてみたいんだよ。僕も、それから父も」
カップをソーサーに戻し、彼が「内緒の話だけれど、」と幸せそうに、だが、どこか寂しそうに呟いた。
「あの子がバルコニーにいると僕に教えにきたのは父なんだ、連れ出してやれって」
「……あの?」
思わず驚けば、ラーナックはまた苦笑する。
「だから少しだけ、今だけここにあの子を置いておいて欲しい。どうせ君はあの子をいずれ連れて行ってしまうのだろう?」
「はい」
即答する。もう十年近くもの間思い描いていた未来だ。今更無くすなんて有り得ない。
「……そうはっきり言われると、意地悪したくなるなあ」
今度はラーナックが眉をひそめ、複雑そうに唸った。
「やっぱり今日は会わせない。僕のエゴで君がここに来たこともフィルには伝えない。アレクサンダー・エル・フォルデリーク、せいぜいフィルを奪えるよう、努力することだよ」




