11-15.影
「おお、痛い」
スペリオス・ロッド・フォルデリークは、唇から滲んだ血を親指で拭って眉をひそめた。穏やかで常に冷静沈着なあの弟が、あれほど逆上するとはさすがに思わなかった。
「そっちは大丈夫?」
真っ青な顔で震えている従妹に声を掛けたが、それすら耳に入らない様子で、彼女はブツブツと呟きながら震え続けている。
「あ、あんなのアレックスじゃないわ、優しかったのに……」
白い顔をして、誰に聞かせるというふうでもなく、呻く。
彼女が知っているアレックスは、我がままな彼女の願いを淡々と叶えてくれる、三つ年上の従兄。そして、長じて強く、誰よりも格好良くなって、王都中の女性の憧れとなった騎士なのだろう。
基本的に誰に対してもそっけない彼が、彼女の願いにだけは気を払ってくれる。それが彼女にとっては当たり前だったはずだ。
『フィルに何をした? 彼女はどこだ?』
まさかその同じ人物が、自分ではない女性を想って、神聖なる斎姫である自分を壁際に追い詰め、露骨な殺気を向けてくるとは予測していなかったに違いない。
(彼が君に優しかったのは、君が従妹だから、というだけなんだけどね)
サンドラ自身ではなく、彼女を気にかけていた、彼女の伯母でもある僕たちの母、そして誰より僕のためだった、とスぺリオスは視線を伏せる。
ただでさえ、アレクサンドラは今日機嫌が悪かった。
運命神カダの斎姫――幼い頃は次期斎姫――であるアレクサンドラを皆畏敬し、時には媚すら滲ませる。誰もがアレクサンドラの言いなり、そうして彼女の人生は進んできた。
だが、今回はそれが通用しない。
カダ神の宣託によって、アレクサンドラはアレックスの運命の相手は自分だと信じている。なのに、その神もアレクサンドラをもすべて無視して彼が見つめ、長く想い続けているただ一人がフィリシア・フェーナ・ザルアナックだった。
彼だけではない。護衛に指名したアレックスの所属する小隊のウェズとかいう隊長も、その部下も皆自分を蔑ろにしていると、彼女はこの一週間苛ついていた。
託宣だと、斎姫の願いだと言えば、なんでも聞き入れられた我がままが、彼らには通らない。そして、その彼らも何かとフィル・ディランこと、フィリシア・フェーナ・ザルアナックを気にかけている。
「なんなの、私が運命の相手でしょう? なぜあの子のためにそんなに必死になるのよ……?」
彼女のその呟きをここ最近、何度聞いただろう。
劇場の通用口の前、アレックスがあの子を見つめる視線に苛ついた、と彼女は言った。襲撃と血に怯える目の前の自分を忘れ、アレックスは一挙一動を見逃すまいとするかのようにあの子をひたむきに見ていた、それが許せない、と。
「アレックスを私のもとに取り戻そうとしているのに。それこそが正しいことだというのに……」
彼女はもう十七になった。斎姫である自分が、その運命神の預言を違えるわけにはいかないということなのだろう。しかも、相手であるはずのアレックスは、後ろ盾となる実家の権力を差し引いても申し分のない男になっていて、結婚するなら彼しかないと親共々必死になっている。
訊ねられるままスペリオスが話した、アレックスによるサンドラとの婚約破棄が彼とフィリシア・フェーナ・ザルアナックが出会った直後のことだったという事実。それもあの子のせいだと思い至ったらしいサンドラは、ますます彼女への憎しみを募らせていった。
『あの子が表に出てくる前に、アレックスは私のものだと公にすることにしたの。アレックスは優しいもの。私に恥をかかすようなことは絶対にしないわ』
『……アレックスもだけれど、あの子は納得するだろうか』
『彼の運命は私にあるのよ? 諦めざるを得ないわ。それに……私とあの子よ? どちらが魅力的か、比べるべくもないわ』
彼女への嘲笑を口にしたサンドラとその両親は、そのつもりで今日の夜会の護衛をアレックスに言いつけていた。だが、仕事であれば断れまいという彼らの目論みは、生憎とニステイス邸の騎士たちには通じなかった。
日中黙ってサンドラの予定に付き合っていたアレックスは、夕刻になって姿を消す。怒って騎士団の小隊長に問いただせば、「我が隊の人員管理は私の裁量のうちですが? 訳の分からない我がままに付き合って、ずっと働き詰めだった悲惨な隊員に休暇を与えることに何の問題が」と冷たくあしらわれたらしい。
代わりに呼ばれたスぺリオスは、馬車の中でサンドラが、アレックスが今頃会いに行っているだろうフィリシアへの呪詛を吐き出すのをひたすら聞き続けた。
彼女の予想に反して夜会会場に現れたアレックスだったが、ここでも彼女にはまったく関心を見せず、王女のエスコートとして出てきたフィリシア・フェーナ・ザルアナックをひたむきに目で追っていた。
さらには、会場の誰もがあの子を見ていたことも彼女の不機嫌に拍車をかけた。自分は滅多に俗世に出ない神聖なる斎姫だというのに、ほとんど注目されることが無かった、と。男か女かもわからないようなあんな人間のせいで、運命の神を冒涜するあれのせいで、この私が、と。
『アレックスを取り戻すだけでは飽き足らないのよ。ボロボロに傷つけてやりたいの、二度と近づく気にならないように』
プライドをひどく傷つけられた彼女は、仲睦まじく踊るふたりを見ながら、そう口にした。そして、確かにこちらに向けられているのに、どこを見ているかわからない目で、『お願い、スぺリオス』と微笑む。
『……あの子は、』
スぺリオスは請われるままに口を開いた。
一瞬だけあの子に良く似た紫の瞳が思い浮かんだけれど、それには気付かないふりをした。もうどうでもいい、そう思ってしまった。
『あの子はおそらく君を昔のアレックスと勘違いするよ。あの子は夏の日にザルアで出会った彼を女の子だと思い込んでいるらしいから』
直後にサンドラの瞳に浮かんだのは、残酷な狂喜だった。それすら美しいと感じた自分にスぺリオスは笑いを零すしかなかった。
後はあの子の素性に気付いているだろう、ロンデール家の嫡男を餌にアレックスの気を逸らし、その隙にあの子をサンドラに与えて……――。
「あれでさすがに終わったと思ったんだけどな……」
なのに、アレックスはまだ足掻いている。
「……フィリシア・フェーナ・ザルアナックよ、彼女が悪いんだわ。全部彼女のせい」
アレックスにつかまれて薄く鬱血した左腕の内側をこちらに晒しながら、サンドラが憑かれたかのように言葉を発している。
「そうよ、彼女がいなくなればいいのだわ。大丈夫よ、アレックスの運命の相手は私だもの……」
呟いてアレクサンドラは笑い出す。
「……」
スペリオスはそれを無表情に見つめた後、口元に乾いた笑いを湛えた。




