11-14.手
(なんでこんな時に、よりによってこの人に――)
「……」
フィルは顔を袖でざっとぬぐうと、唇を痛いほど噛みしめて、背後の声の主――父、ステファン・ド・ザルナアックを睨みつけた。
「……様はないな」
目の合った父親はフィルに向けて顔を歪ませる。この顔に幾度傷ついたことだろう。
(なんで、なんで、よりによってこんな時に……)
父の言葉と表情に、涙が再び溢れ出しそうになる。必死に食い止めようとするのに、うまくいかない。それどころかうまくいかないことが情けなくて、さらに泣けてきた。きっと今、自分の顔もこの上なく醜く歪んでいる。
「……そんなみっともない姿を晒すぐらいなら、もう一度チャンスをやるから戻れ。そうすれば、つりあいの取れる縁談を持ってきてやる――さっきのフォルデリーク家の次男でもかまわん」
父はそんなフィルから顔を背けてそう呟いた。
「……」
一瞬、自分はどうかしてしまったのかと思った。
(家に戻って……アレックス?)
思ってもみなかった言葉は、耳朶に、それから弱った心にそのまま響いてきた。
脳裏に先日祝福したリンの姿が蘇る。白い衣装に包まれて幸せそうに笑っていたリン。泣いて、怒って、ボロボロになって、それでも最愛の人を手に入れた彼女。
(戻れば、あんなふうに……)
「……」
凝視する先で、父は相変わらずひどく苦々しい顔をしていた。
再び込み上げてきた涙が視界を滲ませ、彼の姿が水の膜の向こうで揺れ始める。その瞳に懐かしい祖母と同じ色を見た気がして、フィルは一層顔を歪ませた。
「違う……」
(違う、そうじゃない――)
無意識のうちに、左腰の剣の感触を確かめる。
そうじゃないとわかっているのに、それじゃ駄目だとわかっているはずなのに、祖父の葬儀の後父と対峙した時のように、はっきりと嫌だと言えない。フェルドリックにそうじゃない方法で頑張ると言い返した時のように、思いきれない。それが情けなくて、ついに涙が零れた。
意思に関係なく込み上げてくる嗚咽を、父を睨み、歯を食いしばって抑えつけていると、やがて彼は無言のまま踵を返した。月明かりで生まれた影の遥か向こうへと、彼の足が遠ざかっていく。
(……ああ、きっと、また更に呆れられた)
今更なのに、今またこんなに悲しいのはなぜだろう――。
フィルは抑えていた分の涙を溢れさせながら、肩と膝を落とした。
* * *
どれくらい一人でそうしていたのだろう。
フィルはバルコニーに蹲って、見るとも無しに寒空に浮かぶ月を見上げていた。涙は既に止まった。考えることを放棄した。
フィルは北に変わらずある星を見つめ、なんとなくその周りを回る星の位置を計算する。そして、皮肉を感じて笑った。
ひどく長い時間をここで過ごしている気がするのに、さほど時間は経っていないらしい。
(……ナシア。そろそろ戻らないと彼女が心配するかも)
ただでさえ心配してくれていた、と小さな王女を思い出して立ち上がる。
「……」
誰かがまたバルコニーのガラス戸を開いた。フィルはそちらへと視線を向ける。
大丈夫、心も頭も凍らせた。だから、誰が来ても――父だろうとアレクサンドラだろうとアレックスだろうと、何事も無かったかのように笑って応じられる。
そうしてバルコニーに踏み入ってきた人物に向き直る。
「こんばんば、あなたも月をご覧に――」
続きの小部屋からの光を背から受け、その人の輪郭だけが輝いていた。
「――風邪をひいてしまうよ、フィル」
「……っ」
凍てつかせたはずの感情は簡単に融解した。泣き笑いを顔に浮かべる。
この人はいつもそうだ。フィルが泣いていても、泣いていると知られたくないと思っていることを知っているから、絶対にそうは言わない。
「ほら、ほっぺたが今にも凍りそうだ」
いつも通り微笑んで近づいてきた彼は、ごく側で立ち止まると、フィルの右頬を柔らかく摘んだ。
「何より僕自身こういう冷たい風が苦手でね、お嬢さん。こんな寒くて面白くも無い場所で風邪を引いてしまうより、うちに帰って温かいココアでも飲みながら、暖炉の前でおしゃべりしないかい?」
大げさに「おお、寒い」と身を震わせて、彼はフィルからかすかな笑いを引き出した。とても暖かい。こんな時は特に。
祖父が死んだ時も、騎士団に入るつもりだと密かに話した時も、穏やかに自分に寄り添ってくれた人――。
「……にいさま」
情けない響きだった。彼は困ったような顔をして、それからまた優しい微笑を見せてくれる。祖父も祖母も逝ってしまった今、フィルが家族だと思うことを許してくれるただ一人だ。
「さあ、行こう」
頭を緩やかに撫でられ、つい頷いてしまいそうになる。でも、フィルはあの家には帰れない。
先ほどの「戻れ」と言う父の言葉が頭をよぎって、再びじんわりと涙が滲んできた。考えないことにしたのだった、と慌てて頭を振る。
「兄さま、でも、」
「父さまはしばらくマーネック子爵の屋敷に泊まるらしいから、気にしなくていいよ。なんでも改築したてで、誰彼構わずに見せびらかしたがっているんだって」
と笑った彼は、それから、
「それにフィル、明日から二日間休みなんだろう?」
と言って、片目をつむって見せた。
なぜ知っているのか、と目をみはったフィルに、兄は「僕はこう見えて案外顔が広いんだよ」とおどけてみせる。
「いつも夏にそうしていたように、夜更かししながら、こっそり夜のお菓子を食べて、二人で話すのも悪くないだろう? たまには兄孝行しなさい」
そう続け、兄は綺麗な白い手で再び頭を撫でてくれた。
「……」
自分より高い位置にある兄の瞳を見つめたら、少しだけ笑うことができた。
綺麗な、綺麗な紫の瞳だ。フィルが欠片も覚えていない母の色と同じだと生前の祖母が懐かしそうに、寂しそうに話していた。
その瞳が自分を捉えているのが嬉しくて、今の自分から何一つ引き出そうとしない彼の気持ちがひどく幸せで、フィルは微笑んだまま涙を落とした。
兄は悲しそうな顔をして、ハンカチをポケットから取り出し、その頬をそっと拭ってくれる。
そして、にこりと笑うと、「お嬢さん、お手をどうぞ」とフィルをエスコートする際の昔からの決まり文句を口にした。
「ナシュアナ殿下の了解は得てあるから」
「え」
驚くフィルに、ラーナックは「言っただろう? 僕の顔は結構広いんだよ」と再び得意げな顔をして笑ってみせた。
「ついておいで」
兄に連れられて、静かに迎賓宮の奥部にある裏口へと向かう。
何度も角を曲がった後、兄に意識を吸い寄せられている門番たちの間をすり抜け、フィルはその扉をくぐった。
「……」
直後、背後を振り返った。迷路のような迎賓宮の内部は、灯火の光があってなお、奥は霞んで見えた。
(アレックス、今どうしているんだろう……)
そう思ってしまって、慌ててかぶりを振った。
急な階段を兄に手を握ってもらって降っていく。
「足元に気をつけるんだよ」
頷きながら、引かれている後ろ髪に気付かない振りをした。
その先の中央の噴水を中心とする円形の道に数台馬車が止まっていて、御者同士おしゃべりをしたり、馬の世話をしたりしている。そのうちの彼が待たせていたという一台に乗りこもうと、フィルはコーチのステップに足をかける。
「フィルっ」
「っ」
瞬間、一番焦がれていて、けれど、今一番聞きたくない声を耳にした。
(……どう、しよう)
振り返るべきか逡巡して固まったフィルの背を、兄がトン、と押す。それで自然と馬車の内部へと押しやられた。意識することなく腰を下ろした座席の上で、フィルは兄の厚意に感謝する。
すぐに兄が乗り込み、御者に出るよう指示する。彼の背後、窓向こうに、階段を駆け下りてきたアレックスが、こちらを見て立ち尽くしている姿が見えた。




