11-11.足音
軽やかな音楽が流れ始めた。
会場の中央では、黒地に金銀の刺繍が施された、騎士の正装姿のフィルと、緑色の鮮やかなドレスを身にまとったナシュアナ王女が、周りからの注意を一身に集めている。
フィルが優雅な所作で、ナシュアナ王女を踊りに誘った。
ぎくしゃくと応じた王女は、最初こそ緊張しているようだったが、男性陣が目をみはるほど軽妙なフィルの踊りと巧みなリード、そして目が合う度ににこっと笑う彼女の表情にだろう、すぐに空気を和らげた。
王女が失敗しそうになれば、抱き上げでもしているかのように彼女の体を支え、甘やかに微笑みながら何事かを話しかけ、王女から笑顔と笑い声を引き出す。
完璧なステップと、身体に羽でも生えているのではないかという軽快さで、舞うように踊る様は、妖精が二人そこで遊んでいるようにすら見えた。彼女たちに向けられる視線が次第に種類を変えていく。
(計算しているわけではないのだろうが……)
楽しげに笑いながら躍る彼女たちにつられるように、周囲から笑みとため息が生まれるのを見て、アレックスは安堵と憂いを交互に顔に浮かべた。
「結構すんなりと女の子だと受け入れられそうだね」
フィルを見つめていたアレックスの元に、グラスを手にしたフェルドリックがやってきた。
「殿下はご存知でしたか……」
「当然でしょう」
微笑むフェルドリックに、アーサーは情けない顔した。生真面目な彼のことだ、気付かず、あまつさえフィルとナシュアナ王女の仲の良さに嫉妬していた自分を悔やんでいるのだろう。
「だけどこれから大変だよ、アレックス」
フェルドリックはアレックスの肩を叩き、熱心にフィルを見つめるアンドリュー・バロック・ロンデールへと顎をしゃくった。
「……そのようだな」
知らずきつい視線になったアレックスに、ロンデールも気付いたらしい。同じ視線を返される。
しかも、彼だけではない。フィルを上から下まで眺め回している連中がいる。
「平民だと火遊びの対象として見る奴らもいるからね――まあ、遊ぶつもりで近づいたら焼き殺されるだろうけど」
フェルドリックはくくっと笑ったが、さすがにそんな気分にはなれなくて、アレックスは顔を歪めた。
「年頃の女性陣にも怖い顔をしているのがいる。上の我が妹君といい……まあ、フィルはああいう視線こそ気にしないのだろうけど」
楽しそうに言って、フェルドリックはグラスに口をつけると、自分へ寄ってこようとする者たちを目線と作り笑顔で制した。そして、アレックスの肩を押してアーサーからも距離をとる。
「手出しはさせない」
会話を聞かれる範囲に人がいないことを確認した上でそう返すと、「それは疑っていない。先日のウイルセン伯爵の失脚も、ヒルディスというより君のせいだろう」と、フェルドリックは揶揄を含んだ視線を向けてきた。「あれだけアルに似ていれば、疑うやつも出てくるからね」と付け加える。
(把握されているのか)
ただ肩をすくめてみせれば、彼は半眼を向けてきた。
「白を切る意味ある? フィルの周囲を嗅ぎまわっていたやつばかりこれまで三人。いくらヒルディスがステファンと親しいといったって、そこまで把握しているわけがない」
鼻を鳴らした後、フェルドリックは顔から呆れとからかいを消した。
「だから、君がフィルのためならなんだってするということも、必要とあれば、他者を容赦なく切り捨てられる性格だということも良く知っている――相手があれでない限りはね」
そう言いながら、彼はアレクサンドラたちを顎でさした。
「あれは相手が悪い。今回の巡り合わせといい、特に君にとって鬼門だろうに」
そして、彼らしくない緊張を帯びた低い声で続けた。
「大体――彼女についているスペリオスが昔と同じだと、なぜ言い切れる」
「……」
返す言葉に詰まって、アレックスはフェルドリックと同じ方向に顔を向けた。
サンドラの傍らに立つ兄のスぺリオス。三つほど年の離れた彼は、アレックスが従順にしていた幼少時も、それをやめてからも変わらず可愛がってくれた。
王宮に出る時は他者からの害がこないように常に気を配ってくれたし、騎士団に入ってからは、それに伴って生じる貴族間の厄介事にアレックスが巻き込まれないよう、方々に手を回してくれていると聞いた。
今もアレックスと目が合うなり、彼は小さく笑った。彼があの笑い顔を向ける人間はひどく限られている。
(あのスぺリオスが……?)
「……」
その可能性も考えなくては、と思うのに、眉根が寄った。
「なんせ当面の問題――自分に都合のいい解釈で神を語って人を操る“神聖なる”ニステイスの斎姫さまが何か言いたげな顔をしているよ」
横でフェルドリックが毒と棘のある言葉を吐き出した。フェルドリックは昔からニステイス家を嫌っている。
「フィルのためであれば……」
たとえ相手がサンドラであっても……――。
言葉を途中でのみ込み、アレックスは再び兄に視線を向けて、顔を歪めた。
「長い初恋だもんね、そのために人生変えたぐらいだし。けどというか、だからこそというか警戒しなよ。例の件、確かに色々ありそうだ……ああ、終わったみたい」
うまいよねえ、にっこり微笑み合って二人の世界を作り上げて、誰も声が掛けられないようにしているんだから、とフェルドリックは満足そうに笑った。
「ナシュアナもかなり使える人間になってきた」
これまでの反動か、彼の母である正后の意向か、最近の彼は表立って異母妹の彼女の世話を焼くようになった。彼自身かわいがってもいる。そのくせ敢えてひどく聞こえる言葉を口にする偏屈さに思わずため息をついた。
「さて、アレックス、何より本命に逃げられないようにね。逃げられたら逃げられたで面白そうだけど、ニステイスが大きな顔をするのは気に入らないから」
そんなフェルドリックから微妙な応援を受けて、アレックスは苦笑する。
アレックスを気にかけているのか、フィルを気にかけているのか。昔から掴み難い性格ではあるが、ことフィルが絡むとフェルドリックは一層わかりにくくなる。
(俺自身が冷静でいられないせいもあるのだろうが……)
「アーサー」
少し息を弾ませたナシュアナ王女が可愛らしく、古い自分の騎士を踊りに呼んだ。
新しい騎士フィルが王女の手を引いて彼に近づき、彼女の小さな手をアーサーへと差し出す。
そうしてナシュアナから離れたフィルに、他の誰が動くよりも早く向き合い、アレックスは膝を落とした。ざわめきが大きくなる。
「ア、アレックス?」
驚きに見開かれる緑の瞳を見上げ、その手をとって自分へと引き寄せた。
「フィル・ディラン嬢、この距離をさらに詰めることをお許しいただきたい」
「っ、え、あの、そ、そんなことをする必要は、」
先ほどまでの自信に満ちた表情が嘘のように動揺し、フィルは頬を染めていく。
(……こういうところは変わらないな)
思わず微笑めば、彼女は困ったような顔で「……はい」と口にした後、はにかむような笑みを見せてくれた。
「……」
心臓が跳ねた。どうしようもなくかわいいが、他の人間がいる場でそんな顔をして欲しくはない。
* * *
先ほどから変わって、艶のある調べが広間に流れ始めた。それに合わせて、アレックスはフィルを抱き寄せ、踊りへと誘う。他者の視線に彼女を晒すことすら惜しい。自分だけものにしておきたいと思ってしまう。
「あ、あの、ア、アレックス」
よほど親密でなければありえない距離の近さに、こういう機会に慣れていないだろうフィルはまた頬を赤らめている。
「どうした、フィル」
「っ」
彼女がこの距離が適切なものなのかどうか逡巡していることを知りながら、アレックスは彼女へと顔を寄せた。
一つにはそうしないではいられないから。
去年再会してから彼女から離れたことはなかった。半年前にタンタールの森の猟師小屋で彼女を抱いてから、彼女に触れない日もなかった。久しぶりの彼女の感触に、心と身体のすべてがその身を離すことを拒否する。
もう一つは、彼女を自分のものだと知らしめること。それからその逆も……。
どういった心境の変化かは未だにわからないが、フィルが女性だと周囲に明かした今、これまで以上に敵は増えるだろうから。
緩やかな曲調にあわせて、静かに足を運び、踊りの呼吸を合わせていく。慎重に他者から距離を取って、アレックスはようやく彼女への謝罪を口にした。
「フィル、本当に悪かった。嫌な思いをさせた」
「……違います。アレックスのせいではありません」
腕の中の体が一瞬震えた。視線を伏せたまま、小声を返してくる。
「私のせいです。側に、アレックスの側に本当にいてもいいのかと……色々、その、私は色々隠していることがあるので……」
「だから女性だと?」
そう訊き返すと、フィルはコクリと頷いた。微妙に強張った顔に強い緊張が見える。
「アレックスにも皆にもちゃんと知ってもらって、その上でアレックスの……そ、側にいられたらと……」
「っ」
顔が見えなくなった。代わりに視界に入る、髪の間からのぞく耳の赤み、震える金の睫毛。何より消えそうなほど小さな音で囁かれた言葉の意味――生じた衝動のまま、アレックスは額をフィルの額に突き合わせる。
「あ、あああの」
焦りを露に距離を取ろうとする彼女を、それでも解放してやる気にはなれなかった。
思うままにその唇を貪って、連れ去り、めちゃくちゃに抱いてしまいたい。
部屋の中で二人きり、腕の中にフィルを囲ってゆっくりと話をする。そうして彼女と生まれたままの姿で、原始的な欲求と共に抱き合う。
ほんの十日前までは当たり前だったこと、それにこんなに焦がれてしまう。
「そ、それで、アレックスにも話したいこと、が、」
「――フィル、俺はフィルがいい」
言葉を遮って、湧き上がる思いを声に乗せた。
「……え」
頬を上気させたままフィルが視線を上げ、至近で見つめ合う。
「他の誰でもない、フィルに俺の側にいて欲しい」
「アレックス……」
逸らさないで欲しいと願う時には決して自分から逸らされない深緑の瞳がひどく愛しい。
もうすぐ周囲を遠ざけてくれていた曲が終わる。




