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そして君は前を向く  作者: ユキノト
第11章 咫尺天涯
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11-10.怯えと衝撃

 磨かれた白大理石で作られた、緩い段差の階段。夜会会場である迎賓宮に向けて、十段ごとに設けられたその踊り場の両脇には、赤々と篝火が焚かれていた。二十を超える煌びやかな炎から生まれる光が、磨かれて鏡のようになった石に照り返され、階段全体が闇の中に淡く浮かび上がっている。

 そんな人造の光の中を、着飾った人々がやはり作り物めいた顔で笑いながら奥へと上って行く。彼らの行く先には重厚な石柱がそそり立ち、背後にそれにふさわしい巨大な入り口扉がある。周辺には幾人もの近衛騎士がまるで置物のように直立していた。


「……」

 勝手知ったるその場所を、アレックスは階段の最下部から眺める。

(……ここまで緊張したことはこれまで何回あっただろう)

 いつの間にか呼吸を押さえてしまっていることに気付いて、気を紛らわそうとアレックスはぎこちなく自嘲した。


 劇場での襲撃以来、アレックスはフィルと顔を合わせていない。

 その日不在だった父に代わって、兄スペリオスが騎士団へと連絡を入れてきたのは、あの日の早朝のことだ。どうしても話がしたいと言うから何事かと実家に帰ってみれば、青い顔をした従妹のアレクサンドラ・カダル・ニステイスがいて、先日から何者かに狙われていると言う。個人でどうこうする話でもなければ、できる話でもないと判断して、正式に騎士団か近衛騎士団に報告するよう彼女を諭し、兄にもそう告げた。

 そして、遅れながらもリンとジェットの結婚パーティに参加するべく、家を出ようとしたのだが、サンドラと兄に付き合いがあってどうしてもいかねばならないその日の観劇にだけ付き合って欲しいと懇願されてしまった。兄の心境を考えると断ることもできなくて、結局付き合ったのだが……。


 事実、アレクサンドラは襲撃を受け、それを排除した後の劇場通用口の前。一体あれは何の偶然だったのだろう、そこにフィルがいた。

 彼女の顔にはなんの表情もなかった。正義感と庇護欲が強く、人懐っこくて、女性に特に親切な彼女には珍しく、アレックスと共にいるアレクサンドラをただただ見つめていた。疑問を覚えて声をかけ、側に行こうとしたのに、彼女はその前に消えてしまう。

 フィルらしくない表情と空気、行動――今思えば、アレックスも動揺していたのかもしれない。上手く思考がまとまらないまま、やってきた他の騎士たちに話しかけられるままただ目の前の問題を処理していた。


 サンドラをニステイス伯爵家に送っていき、そこで見た、駆け付けてきた兄の表情、怯えて泣きながら頼んでくるサンドラ、ニステイス家の懇願――すべて無視して、一度宿舎に戻ってフィルと話をすべきだったと気付いたのは、翌朝のことだった。

 サンドラの護衛について正式な要請を受けたという騎士団第一小隊が、朝も早いうちにニステイス家の門扉を叩いた。その中にフィルの姿がなくて……。

 焦って事情を訊ねたアレックスに小隊の仲間は苦虫を噛み潰したような顔をし、出迎えに出たニステイス家当主夫妻をひどく冷めた顔で眺めた。

 そうしてアレックスは事情と自分の甘さを悟り、失態を呪った――とっくに片付いたと思っていた、サンドラとの婚約とニステイス家への婿入りの話は、伯爵夫妻の中では片付いていなくて、その苛立ちと恨みがフィルへと向けられた。


 忌々しいことに、夫妻は周到にコレクト騎士団長に手をまわしていたようで、命が下ってしまった今、弁明に行くことすら難しい。

 フィルの性格を考えれば当然なのかもしれないが、彼女がこちらに来る気配もなく、第一小隊を訪れてニステイス家にやってくる誰に彼女の事を訊いても、皆言葉を濁す。

 一昨日やってきたヘンリックを何とか捕まえて、ようやく聞き出した内容は最悪だった。

『ひどく落ち込んでいましたよ。色々考え込んでもいるみたいです』

『うかうかしていると、誰かに掻っさらわれるか、もしくは勝手にどっか行っちゃうかしちゃうと思いますよ』

 ――あれは一体どういう意味だったのだろう。


(俺ではない相手がいると既に考え始めているということだろうか、俺はもう必要ないと……)

 アレックスは眉間をぐっと寄せる。まさか、と思う一方で、それを否定しきれない自分がいて、あれ以来ひどく呼吸が苦しい。

 足が竦む。

 あの大扉の向こうにフィルがいる。だが、離れていたこの八日の間に彼女の中で何かが起きている。

(もし、フィルが俺を見て笑わなかったら? 避けたら? いらない、と言ったら……?)

「……っ」

 知らず握り締めてしまった手は、じんわりと湿っていた。浅くなっていく呼吸を意識して通常に戻し、なんとか最初の段に足をかける。

 とにかくフィルに会いたい。会って抱きしめたい。拒絶されたら許してくれるまで、何度でも何をしてでも許しを乞おう。だが――、

「……絶対に放さない」

 絶対に腕の外に出してやらない。今更離れるなんてできるはずがないのだから。



 * * *



 腹の底に響くような重低音が響いた。開かれた大扉の向こうから、華やかな光と音楽が漏れてくる。

 アレックスは扉をくぐるなり、着飾った人々で溢れる空間に目を走らせ、ひたすらフィルを探した。だが、彼女は見当たらず、会いたいという願望に相反して安堵を覚える。極刑の宣告を先延ばしにされたような気すらする。

(……そういえば、ナシュアナ王女のエスコートをするという話だった)

 最後の到着になって当たり前だと今更気付いた自分に失笑を漏らし、アレックスは会場へと踏み出した。


(サンドラ……)

 ふと視線を感じてその元を辿れば、今回の元凶となった従妹が会場の端から不安げにこちらを見ている。

 幼い頃からアレックスの実家に出入りしていた彼女とは、これまで多くの時間を共有してきた。兄弟がいないこともあってか、彼女は兄やアレックスを慕って何かと頼ってきたし、フィルや兄、フェルドリックを除けば、アレックスにとって他の誰より近しい存在と言っていいだろう。兄のスぺリオスもあわせて、実の兄妹に間違われることも少なくなかったし、実際アレックスにとって彼女はある意味特別な女性だ。

(……スペリオス)

 アレックスはその彼女の脇に立つ兄に目を向けた。


「アレックス殿っ」

 ナシュアナ第二王女の護衛として面識のできたアーサー・ベル・ジオールが、足早に近寄ってくる。それどころではない気分のところに、突然声高に名を呼ばれ、思わず眉をひそめた。ここで彼以外に捕まるよりも数段ましではあるのだが。

「あれはどういうことだ!?」

 今そんな謎賭けのような問答をしている余裕はない。彼から距離をとろうと試みる。

「フィル殿だっ」

 だが、次に発せられた言葉に息を飲み、逆にアーサーに詰め寄った。

「フィル、フィルがどうかしたのか」

 細めの瞳が見開かれた。彼が再び口を開くまでの時間を、時が止まってしまったのではないかと思うほど、ひどく長く感じる。

「……知らないのか?」

 アーサーの困惑に満ちた呟きと、会場奥に生じたざわめきが、同時にアレックスの耳に届いた。


「まあ……」

「あれはあの方ですわよね」

「なんと……」

「でも考えてみれば……」

 人々の視線を辿り、アレックスは息を止めた。

「フィ、ル……?」

 王族しか出入りを許されていない奥の飾り扉をくぐり、フィルがナシュアナ王女と共に会場に降りてくる。

 アーサーの肩を掴んでいた腕から力が抜け、ずり落ちた。


 彼女はいつものように騎士団の正装を身にまとっていた。緩く波打つ濃い目の金の髪も、同色のまつげの間から覗く緑の双瞳もいつもどおりで、長く伸びた四肢の動きも変わらず優雅だった。エスコート相手である傍らの王女を見る視線にも変化はなく、蕩けそうに甘い。

(どういうこと、だ……)

 違っていたのは本当に些細なことだったのに、それゆえに彼女を取り巻く雰囲気は一変してしまっていた――艶やかに香り立つような、『女性』の存在感。

「……知らなかったのか」

 困惑を含んだアーサーの声に、答えを返す余裕はなかった。

「……」

 身体が震え始めた。フィルに何が起きたのだろう、起きているのだろう。


 王女に微笑んでいたフィルの視線が、ふとアレックスに向いた。目が合った瞬間、彼女の顔から微笑が消える。

「……」

 その時間こそ、永遠のようだった。嫌な想像が次から次へと湧いてきて、地の底へと落ちていく気がする。

『うかうかしていると、誰かに掻っさらわれるか、もしくは勝手にどっか行っちゃうかしちゃうと思いますよ』

 ヘンリックの言葉がまた脳内に響いて、呼吸が止まる。

 続いて急速に広がっていく痛みに、全身が悲鳴をあげた瞬間――だが、見つめる先の顔に照れたような笑みが広がった。

「っ」

 声を出しそうになったのを、左手を口にやってなんとか押さえる。

「お、おい、大丈夫か」

 よろめいて思わずアーサーに寄りかかってしまったというのに、その間もフィルから目を離せない。

 凝視していると居心地が悪くなったのか、少しずつ彼女の顔が赤らんでいく。


「アーサー、アレクサンダー」

 歩み寄ってきたナシュアナ王女が自分たちを呼んだ。

「何か言いたいことがあって?」

 次いで王女はアレックスを見上げてくる。だが、そうと分かっていながら、それでも意識を彼女から逸らすことができない。

「い、や、その、私は、」

「フィル」

 アーサーの動揺に満ちた声を背景にフィルへと一歩近づき、払いのけられないことを切に祈りながら、上気した頬へと手を伸ばした。

 何を言おう? 嫌な思いさせてごめん、とか、サンドラのことを誤解しないで欲しい、とか。

 自分をじっと見つめ返してくれる、深く澄んだ緑の瞳へと、さらに距離を詰める。

 何を訊こう? 離れていた間どうしていたのか、とか、なぜ男のように装うことをやめてしまったのか、とか。

「アレックス……」

 桜色に染まった柔らかい頬に指が触れた。瞳に拒絶の色がないことに安堵するのと同時に、指先から伝わってきた熱と、彼女の声で呼ばれた自分の名に、別の衝動に駆られた。

「っ」

 抱きしめたい――謝罪より質問より何より先に。


 彼女を抱き寄せるべく、腰へと別の腕を伸ばす。

「駄目です。フィルは私のエスコートなのですから」

 だが、そんな目論見は、間に割って入ったナシュアナ王女の存在にあえなく崩れ去った。

 王女はフィルに伸ばしていたアレックスの腕を自分へと引くと、顔を寄せてくる。

「アレクサンダー、フィルを泣かせた罰です。フィルと最初に踊る権利はあげません」

 そう囁きながら、小さな王女はにこりと笑みを零した。


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