11-6.英気
フィルはナシアと共に彼女の居住棟に戻った。
王宮の敷地内の外れ、古くて小さめの建物はいつも通り清潔かつ居心地よく保たれていて、応接室には明るい日差しが降り注いでいる。
そこでお茶を飲みながら二人でたわいのない話をした。
ナシアは本を愛したフィルの祖父の話を聞くのが好きなようで、今日は祖父がどうやってフィルの祖母を射止めたのか、という話をしていた。
彼女と過ごす時間の空気は穏やかで、少しずつ呼吸が楽になっていく。
「ナシュアナさま、フェルドリック殿下がお見えです」
そんな和やかな時間に終わりを告げたのは、ナシア付きの侍女のジェシーさんの少し緊張を孕んだ声だった。
フィルたちがナシアの護衛に来る時の恒例と化しつつある知らせを耳にして、フィルは何も考えないですむよう、意識を切り替えた。
「お兄さま、いらっしゃい」
「やあ、ナシュアナ、機嫌はどうだい?」
フェルドリックがこうして訪ねてくるだけじゃない。最近はナシアの口からも頻繁にフェルドリックの話が出てくるようになった。
(よかった、仲良くやれてるみたいだ)
礼をとった後、許可されて再びソファに座ったフィルは、同じテーブルを囲む兄妹を交互に見つめた。
「これ。読んでみたいと言っていただろう?」
「っ、うそ、本当に手に入れてくださったんですか……」
今もそうだ。ナシアに本を手渡したフェルドリックは、満面の笑みを向けた異母妹の頭を本当に自然な感じで撫で、一瞬顔全体を緩めて笑った。
(……アド爺さまにそっくり)
笑い方も仕草も彼の祖父とまったく同じことに気づいて、フィルはくすりと笑う。
それに目敏く気づいた彼が微妙に眉を寄せ、目を眇めた。が、ジェシーさんなど他の人がいる限り、話しかけてこないのもいつものことだ。
「……」
静かに目の前に置かれた茶のカップに手を伸ばす。
(そういえば、毎回こんな感じで目線であれこれ苛められては動揺しているのに、今日はいつもと違って平静でいられる……)
昨日からの動揺が落ち着いてきた証拠のような気がして、フィルは密かに胸を撫で下ろした。
ちなみに、それにこそフェルドリックがもっとも険しく眉根を寄せたのだが、生憎とフィルは気付けなかった。
「お兄さま、今日はお一人ですか?」
「そ。偶には息抜きしないと」
彼はナシアの前で猫を被るのもやめたようだ。
お茶とお菓子を配り終えたジェシーさんが部屋から退出すると同時に、フェルドリックは大きく息を吐き出し、ソファの背もたれに深く身を預けた。
(つまりロンデール副近衛騎士団長は入ってこない……)
フェルドリックの護衛でもある彼は、おそらく部屋の前で待機しているのだろうと悟って、思わず安堵した。
邪険にしては悪いとは思うけれど、朝のこともあって、ありがたいと思ってしまう。
身の危険を感じるというわけではないから、うまく説明できないのだが、彼と一緒にいると今日のように混乱することが多くて、今はそれが特にきつい。
「というわけでフィル、お茶」
「……手元にあるじゃないですか」
そのフェルドリックは、ジェシーさんがいなくなるや、すぐにこんなふうだ。
「もう飲んだ。新しいのが欲しい。何、フィルの分際で文句でもあるの?」
「……」
人が周囲にいる時とそうでない時の態度の落差が徹底していて、いっそ小気味がいい。
「でも……嫌いじゃないんだよね」
昔からそうだ、何を言われるかわからないし、真っ黒だから彼を怖いとは思うけど、嫌いじゃない。
抵抗空しく、彼の我がままどおりお茶を淹れることになったフィルは、応接室のすぐ脇にある小部屋で茶の準備をしながら、ふとそのことに思い至った。
『アル・ド・ザルアナックの孫になんか生まれたばっかりに何にも知らずに、言われるまま剣の訓練なんてして』
『女性、なのに、ねえ。着飾りもせず、恋も許されず、同年代の女の子とのおしゃべりもなく』
これまで散々なことを言われてきた。馬鹿だともしょっちゅう言われている。
(それなのに嫌いじゃないのは……)
『フィルの分際で』
(……そうか。彼は昔から『私』を『私』としてしか見てないからだ……)
性別そのものや出身そのものではなく、彼は性別や出身を抱えた『フィル』という存在が何を考え、どう行動するかを見ている。
女の身で着飾らないこと。剣を握ること。ザルアナックから追い出されるような選択をしたこと。彼はそれを『選んだ』ことを馬鹿にしたけれど、コレクト団長のように女だからという理由で、フィルの存在自体を否定したことはない。
ザルアの人々のように、ザルアナック伯爵家の人間だからといってフィルを肯定したこともなければ、勘当されてそうじゃなくなったというだけの理由で否定したりもしなかった。
茶葉の開く匂いに、フィルはカップを温めていた湯を捨てる。そして、そこに赤い液体をゆっくりと注ぎ始めた。
(私のやることを見て、フェルドリックが馬鹿だと言うならかまわない……ことはないけど、じゃあもっと頑張って、いずれ見返してやると思うだけで、少なくともそれで悲しくなることはない)
「……そういうことだったのか」
新しい発見に、普段なら有りえないことに、フェルドリックの存在がなんだか嬉しくなってくる。彼は私が私だということを思い出させてくれる。
「まだ? まずかったら承知しないよ、それぐらいしか取り得がないんだから」
「……」
方法は少し選んで欲しいと切実に思うけど。
* * *
「ナシアのエスコート? 今度の夜会でですか?」
「ナシュアナはいわずもがな、君も民衆に人気が出てきたみたいだから、この際利用してあげようかと」
茶のカップを優雅に持ち上げて口に運びながら、フェルドリックは傲慢に言い放った。
共にソファに腰掛けて、フェルドリックを左手、ナシアを右手に話をしていたフィルは、突然ふられた話題に首を傾げる。
「私でいいんですか」
ナシアのエスコートはもちろん構わないけれど、アーサーに恨まれそうな気がする。
「大丈夫、アーサーはジオール家の嫡男として出るから」
「う」
この人、いつものことながら、人の心の中を読めるんじゃ、とフィルは顔を引きつらせた。
「アレックスも出る」
「っ」
それから本当に何でもないことのように続けられた言葉に固まった。
アレックスが今日いないことをまったく訊いてこないと思っていたけど、と彼の金と緑の瞳を前に蒼褪める。
「ついでに、アレクサンドラ・カダル・ニステイスも出る」
「……」
フィルは血の気が引いた顔でフェルドリックを見つめた。
思い出さないように、考えないようにしているのに、彼は一体どこまで知っているのだろう……?
目の前から注がれるナシアの心配げな視線に気を回すゆとりがない。
目を眇めたフェルドリックが次に口にする言葉から逃げたくて、フィルは顔を伏せた。
そのフィルに不快そうに眉をしかめ、フェルドリックは右腕を持ち上げる。そして……、
「……っ」
ゴッと音を立ててフィルの額を小突いた。
「お、お兄さま……? フィ、フィル……?」
(……不覚、一生の不覚……)
剣士にとってこんな恥辱はない――これまでの動揺も怯えも全部忘れてフェルドリックを思いっきり睨めば、彼は口角を上げ、「君はそれぐらいでなくては」と笑った。
「そうやって顔を上げていろ」
「……」
傲然と言い放った、人離れして見える程美しい顔を凝視する。
彼はそのフィルを鼻で笑って立ち上がり、「じゃあ、一週間後」と言い残して踵を返した。
「……」
彼が悠々と扉の向こうに消えていくのを、フィルは額を押さえたまま呆然と見送った。
(……ひょっとして、今のって……)
「お兄さまってやっぱりフィルのこと気に入ってらっしゃるわよね」
いやでもあれで気に入ってるというのもどうなのかしら、とかなんとかブツブツ呟くナシアに確信する。
(そう、か、なんでだか知らないけど、やっぱり知ってるんだ、アレクとのこともアレックスのことも。で、あれはやっぱり元気づけてくれたんだ……)
意識しないまま、小さな笑いが口の端から漏れ出した。体の芯がまた少し温まったような気がする。
それから予感を持った――今日ここを出て行く時、私はここに入った時よりきっとずっと元気になっている。




