10-8.願い
「フィルはどうしたい?」
シャワーを浴び終わって、熱を冷まそうと開け放した窓の手前。アレックスと明日の休日について話し始めたフィルは、彼の問いに目を瞬かせる。
「何かしたいことはないか? 最近なんだか元気がないようだし」
「え、ええと、そん、なことは……」
アレックスの心配そうな視線に、ばれている、と思って正直ぎくりとした。
気にかかっているのは、この間王宮ですれ違った父のこと、そして、隠したままにしている自分のこと――貴族だったことと、でも父親に勘当されたということ。
ちゃんとアレックスに話をして向き合うべきなのに、彼から与えられる温もりに甘え、すべきことを見ないふりを『また』していた。
よりによって父本人にそう気付かされた瞬間、ひどく自分が情けなくなって、嫌悪した。これが卑怯でないのなら、一体何がそうだというのだろう? そして父がそんな私を嫌うのも蔑むのも無理はないと思った。
『つまり……家から出されたという今の身上を奴に告げていないというわけか。何を期待してのことだ? 貴族の娘としてのお前に価値など露ほどもない。さっさと忘れてしまえ』
(私との関係を隠したがっているあの人が、敢えて城で私に接触してまで、あんなセリフを口にしてきた理由はなんだろう……)
以前の『素性を知られるな』というものとは逆の意図――アレックスに話をしろと言っていたようにもとれる。だが、今更そんなことを恐れているのかという、ただの皮肉だったようにも感じる。
(だって、目障りになった時は容赦しないと、父などと呼ばれる謂われはないと……)
いつもだ。あの人の考えはいつもフィルにはわからない。しかも毎回聞き返せない……。
(……嫌われてることだけは確かだな)
今更だと思おうとするのに呼吸が圧迫された気がして、フィルは知らず顔を伏せる。その様子をアレックスが眉をひそめて見つめていることすら忘れて。
「今だって……。フィル、本当に大丈夫か?」
「あ、は、はい、ちょっと……ちょっと……あ、暑いだけ、なんです」
「確かにこっちの夏はフィルにはきついだろうな」
アレックスが自身を憂えるかのような顔で手を伸ばしてくる。
額に手のひらを当て、「体調を崩しているわけじゃないな」と言った後、フィルのまだ湿った前髪を丁寧に梳きあげる。
「……」
父の意図が黙っておけという方であってくれればいいというのは、目の前にいる彼に、そんな父との関係を知られたくないという願望なのだろうと思って、さらに情けなくなった。
「何かあるなら、本当になんでも聞くから。その、何か欲しい物、とかでもかまわないし……」
「え、あ、ええと、欲しい物、ですか?」
後半部分を少し言い難そうに口にしたアレックスに、話題が自分から逸れたことに安堵しつつフィルは眉を寄せる。
「ええと、」
さっき暑いと言ったんだから、とつじつまを合わせようと咄嗟に思い付きを口にする。
「「アイスクリーム」とか食べ物とは別に、だ」
言い当てられて目を丸くしたフィルに、アレックスは苦笑した。
「服でも家具でも武器でもいいし……あとは、その、例えば、指輪、とか……いらないか?」
「ゆびわ? ですか」
指輪ってなんでそんな話になるのだろう、と小さく首を傾けた。
よくわからないけど、祖母が「聞かれたことにはちゃんと答えなさい」と言っていたことを思い出した。
「ええと、指輪、もですが、装飾品全般、感覚が狂いますし、相手に気付かれやすくなるから苦手ですけど……」
そう、慣れない物を身につけると、剣を扱うのに狂いが出る。それが致命傷になる事だってある。しかも、ちゃらちゃらと音が立つと、尾行時に自分の存在がばれる相手に可能性が高いし、金属臭に敏感な生物も多い。
「アレックス?」
思ったまま答えれば、目の前の彼が形容しがたい顔をして、フィルはさらに首を傾げた。
(ええと……ああ、そうか、)
「明日買い物に行こうという話ですか? それならお茶が切れそうなので……」
「……お茶」
アレックスの顔が引きつったのを見てしゅんとなる。
「……駄目ですか」
「あー、違う、そうじゃない。……そうだな、明日、一緒に行こう」
そう言ってアレックスがいつものように笑ってくれたおかげで、なんとか笑ってみせることができた。
元気になるように、とアレックスが気にかけてくれているのがひどく嬉しくて、だからこそなんだか申し訳ない気分になった。
* * *
翌日、せっかくの休みは既に昼近く。
フィルはアレックスと共に、日陰を求めてカザレナの裏路地を歩いている。もっとも家屋の生み出すその影も大分短くなってしまっているのだけれど。
「大丈夫か、フィル?」
「誰のせいだと……昨日は心配してくれてたのに」
(って、しまった)
つい恨み言を言ってしまってから失敗を悟る。
「一応加減はするつもりだったんだが……だが、俺のせいばかりじゃないだろう」
アレックスが意味深に笑ったのを見て、真っ赤になってしまった。
そう、昨日の晩はアレックスに中々寝かせてもらえなかった。つまり、その、ええと、ずっと、その、ああいうこと、をしていたせいだ。
(しかも、朝は朝で出かけようって言ったのに……)
「っ」
「大丈夫、何かの時は必ず守るから」
こんなところを襲われたらまずい、と顔をしかめれば、直後に抱きしめられた。頭の中身を見透かしたかのような囁きが鼓膜に届く。
「……うー」
今度は羞恥で泣きたくなった。嬉しくないわけじゃないけど、人気が無くたって、公共の道の真ん中だ。勘弁して欲しい。
「……」
けれど、嬉しそうに幸せそうにアレックスが自分を見て微笑む、それにいつもやられてしまう。好きで好きで仕方がないのだと、それで気付いてしまう。
「フィル」
優しい目と柔らかさを滲ませた声で、アレックスが大きな手を差し出してくる。
(……いいのかな、私、男だと思われてるんだけど……)
そう思うのに、結局その手を握り返してしまう。
少しずつ、少しずつ、アレックスが自分に侵食してくる――それを怖いと思うのに、どこかで幸せだと感じている。こんなふうに甘えていては駄目だと思うのに、どうしても抗えない。
今だって、結局笑ってしまっている――。
馴染みの食堂で少し早めのお昼を食べ、アレックスのお母さんが気に入っているという高級そうなお店に寄ってお茶を買った。遠慮はしたけれど、結局アレックスに押し切られ、どっちも奢ってもらってしまった。
祖父母はお金や物を含め、誰かに何かをする/してもらうという行為は、実はとても難しいことだ、する方にも受ける方にもその瞬間のやり取りを越えた深い思慮がいる、と言っていた。
その言葉自体が難しいから、とりあえず「人に何かを簡単にもらっては駄目」と解釈しているのだが、アレックスにはつい甘えてしまう。受け取るのを待っている彼の顔が、ザルアでの夜、星空を指さして、フィルが同じ星を見つけるのを待っていたアレクにそっくりなせいだ。
(でも……やってもらうばっかりはよくない!)
それから芝生の広がる、王都でも大きめの公園の木陰でのんびりした後、一緒にお茶をした。今度はちゃんと奢ることができて、ちょっと得意になったのは内緒の話だ。
色々な場所で色んな人に声をかけられて、その度ごとにちょっと会話し、街中をうろつく。
強い暑気の中でもカザレナの人々はみんな元気で、つられて笑ってしまう。空は高く澄んでいて、白い雲が強い日差しに輝き、ひどく美しい。
そうして、芸術品や宝飾品を扱う店の立ち並ぶ通りに差し掛かった時だった。
(あの二人、親子かな……)
とある宝飾品店の窓越しに一組の男女が目に入った。
似た面立ちで、男性の方は四十くらい、女性はフィルと同じくらいに見えた。高級感のある店構えに相応しい、高価な大ガラスの向こうで、店員の差し出す箱を覗き込みながら会話している。
娘と思しき彼女が父親らしき彼を見上げて、手の内の物を見せて話しかける。彼はそれに苦笑を返して、それに娘の顔がむくれた。彼が笑いながら店員に何事かを告げる。店員が二人の前から消えるなり、彼女は彼に抱きつき、彼女を抱き留めた彼が幸福そうに微笑む。
「……」
温かくて優しい光景だった。
「フィル、何か気になるものでも……」
立ち止まったフィルに気付いて、アレックスが振り返る。
(あんなふう、なのかな、普通は……)
彼が顔を覗き込んでくるが、フィルはその二人から目が離せなかった。
『フツウジャナイ』
言われ慣れたはずのその言葉が、不意に耳に甦る。
「宝飾店……ひょっとして気に入った物、あったのか?」
アレックスの声の調子が少し変わった。
「え、あ……」
(――……コワイ)
彼の目線を受けて、夏の日差しの中だというのに指先が冷たくなっていく。
(私は『フツウジャナイ』。父にすら要らないと、価値がないと言われた。それをアレックスが知れば……?)
嫌われるかもしれない、と思いついて、蒼褪めた。
アレックスも両親とは仲がいいようだし、あんな親子関係が普通だとアレックスも思っているとしたら……。
「な、何でもないです」
慌てて否定したのに、アレックスは訝しみの視線を向けてきた。思わず息を殺す。
「アレクサンダー殿ではありませんか?」
(あ……)
そこに声をかけてきたのは、フィルが見ていたあの二人連れの男性のほうだった。
「ご無沙汰しております。ご活躍はかねがね」
「ああ、あなたが。剣技大会はお見事でした。それから先日の逆賊の件でも」
アレックスが紹介してくれたその人はノーベルブルク侯爵と言って、とても感じのいい人だった。
推測通り一緒にいた彼女は彼の娘で、とても可愛らしい人だった。父親の一歩後ろでアレックスと侯爵の会話を聞きながら、独特の視線でアレックスを見つめている。
「娘にねだられて、高い買い物に付き合っているのです」
「まあ、そんなことをアレクサンダーさまに告げ口するなんて酷いわ。元はといえば、お父さまがわたくしとの約束をすっぽかしたせいでしょう?」
会話の矛先と共にアレックスの視線がその娘に向いて、彼女は頬を染めながら父を詰る。けれどそれすらフィルには仲の良さの証に見えた。
(私が父さまと会話をしたのは何回あったかな……)
そう思ってから、苦笑いを零した。
正確には覚えていないけれど、数えられるのは確かだ。しかも思い出しても心が冷たくなるようなものばかり。
「娘が美しくなるのは父親としては喜ばしい限りですから、仕方がないのですが」
父親の言葉に、娘は耳まで赤くしてアレックスの反応を上目遣いにちらちらと窺う。
(かわいい)
フィルはその人を知らず見つめる。
綺麗で優雅なドレスに、丁寧に整えられた艶々の長い髪。華奢な全身。高い声でコロコロと笑いながら、楽しげに父親と会話する。
やっぱり妖精みたいだ、と思った。そして、あの様子はやっぱりアレックスのこと、好きなんだろうな、と。
その親子のやり取りを見ながら、微笑ましそうに会話をしているアレックスの横顔に視線をあてる。
(……アレックスは一体私の何がいいんだろう)
彼をたくさんの女性が好いているのは知っている。彼女たちがアレックスに告白をしているのも、それに近い誘いをしていることも。
でも、今のところアレックスがそれを受けたことはないようだ。一緒に出かけるのもキスをしてくれるのも夜を過ごしているのも、フィルだけ。
それを嬉しいと思う一方で疑問にも思う。
実の父親に要らないと言われた、それどころかおそらく憎しみに極近い感情をもたれている人間だ、自分は。
あんなふうに綺麗にはなれない。あんなふうに父親と話をすることすらできない。多くの娘が当たり前にできるだろうことができない。
そんな人間があんなふうに愛されている娘に比べて何がいいのだろう?
不安がじわじわと沁み出してくる。
(……こっちを向いてくれないかな)
知らず彼らと会話をしているアレックスを見つめてしまう。
(アレックス、こっちを、私を見て、私でいいと言って……)
「フィル、どうした?」
願いが通じたのか、アレックスの青い瞳がこちらを向いた。その瞬間、目元が優しく緩んだ。泣きたくなる。
「フィル?」
不思議そうな顔をしてアレックスの手を伸ばしてきた。知らぬ間に抑えていた呼吸が戻ってくる。
「……っ」
頬に触れる指の感触に我に返った。横を見れば、親子が怪訝そうな顔をしていた。
(――まずい)
「す、すみません、その、暑くてぼうっとしてしまって……」
同じ言い訳に気まずさを覚えつつ、後退ってアレックスの手を避ければ、目の前の彼の眉が寄った。逆にその向こうの父子の顔が綻ぶ。
「これは申し訳ない事をしました」
「あ、いえ、ここの暑さに私がまだ慣れていないだけなので……こ、高原育ちなので」
「ほお? どちらから?」
「あ、ええと、ザルア、です」
自分が侯爵と話す間も、視界の片隅に入るアレックスの表情は硬いまま変わらない。焦る。
「お父さま、では、お詫びにお茶でも……」
(う……)
フィルへの思いやりを口にした娘の目は、けれどアレックスに向いていて、フィルは心の中で呻き声を上げた。
「お気遣いありがとうございます」
父親が反応する前に、アレックスがフィルに向けていた表情を和らげ、彼女に礼を述べた。彼女の顔に嬉しさが浮かび、頬が赤く染まる。それにまた胸が軋んだ。
「ですが、お気持ちだけ。親子の水入らずを邪魔したくはありませんし、何より私たちにも約束があります」
微笑を浮かべたまま誘いを断ると、アレックスは落ち着いた声で侯爵親子に別れを告げた。
「行こう、フィル」
そして、フィルが戸惑う間もなく、手を取って歩き出した。慌てて親子へと会釈すると、フィルも半ば引っ張られるように彼に続く。
「……あの」
「……」
無言で半歩先を歩くアレックスの前で、人垣が割れる。
「えと、アレックス……?」
「……何だ?」
「その、手、が」
「ああ」
返事が返ってきて少しほっとできたが、道行く人が皆自分とアレックスの繋がれた手を見ているような気がして居たたまれない。
(う)
なのに、アレックスはさらに指を絡ませてきた。自分の頬が少しずつ赤らんでいくのがわかる。
「あ、あの、みんな見てます……」
「だから?」
アレックスがちらりとこちらを向いた。物言いたげな目線に心臓が痛いほど跳ねて、咄嗟に目を逸らした。
「ええと、私は男性だと……」
「俺は気にしない」
「え……」
(気にしない、って……)
絶句したフィルに、アレックスが向き直った。
「フィル、俺に触れられるのは、嫌か?」
「……へ?」
(あ、あれ……?)
まったく想定になかった言葉をかけられて、目を白黒させる。
ただ、アレックスがどこか苦しそうなのは確かで、急いで口を開いた。
「ち、違います、そうじゃなくて……あ、その、むしろ……嬉しい、です」
挙動不審になりながらも何とかそう返せば、アレックスは一転、子供のように破顔した。
「……」
(喜んでくれるんだ、私みたいなのの、そんなことで……)
目をみはった後、フィルは繋がれたままの手を思わず握りしめた。
(どうしよう、我がままも何かをやたらと欲しがるのもダメだと祖父母は言っていたけど……)
「その、欲しい物……物、じゃないんですけど、」
一瞬目を丸くしたアレックスは、また嬉しそうに笑ってくれる。
「なんだ? フィルの望みならなんだって叶える」
その青い目を見つめた。
ワタシガイイト、イッテ――。
フィルは浮かんできた言葉を飲み込む。
これは絶対に口にしてはいけない。隠し事をしたまま、そう望むのは卑怯だ。
「……」
フィルの言葉を待って幸せそうな顔をしているアレックスは、やはりどこかアレクに似ている。
フィルは自責と喜びの混ざった複雑な笑みを浮かべた。
いつか勇気は溜まるのだろうか? 彼が大事になればなるほど、話さなければいけないと思うようになるのに、同時に彼を失うのではないかと怖くなっていく。
(だから今、今ほんの少しだけ――)
「っ」
ぎゅっとアレックスに抱きつく。
一瞬固まったアレックスが、数秒の後に抱きしめ返してくれて、それに小さく安堵とも喜びともつかない声を漏らした。
「フィル、欲しい物は……?」
「……これ、です」
抱きしめる感触、抱きしめてもらう感触、耳元で囁かれる声、鼻腔に届く香り、伝わってくる体温、全部含めて――アレックスが欲しい。
「俺が嬉しいだけのような気がするんだが」
「じゃあ、それ、間違いです」
「……そうか」
フィルの答えに彼が笑い声を立てた。それにつられて、笑い声を零した。
通りの人たちが様々な表情で自分たちを見ている。だが、それがどうでもいいことに思えてくる。
(がんばろう。欲しいと望む、この人に相応しくなれるように)
そう決めて、フィルはアレックスの胸に額を押し付けて、願う。
(だから、いつか私の全部を知っても、そんな娘だと知っても、お願いだから……――嫌わないでほしい)




