10-6.認識
「フィル、これは?」
「? イゾナの幼虫に似ていますけど……ちょっと違いますね。アレックス、知ってます?」
「黒青蝶の四齢幼虫だな。イゾナに似ているが、こっちは棘先が青い」
「すごいわ、アレクサンダー、そんなことまで知っているのね」
勉学の時間を終えたナシュアナ第二王女を王宮図書館に迎えに行った帰り。フィルと彼女は、庭園に立ち寄っておしゃべりに興じている。
先の剣技大会でフィルと共に可憐な歌声を披露したナシュアナは、一気に国民に知られるようになった。ほぼ同時に、それまで身を隠すようにしていたのをやめ、様々な場所に王女として顔を出し、他者と交流するようになったという。
加えて、これまで慎重に距離を取っていた王后陛下も、最近では表立ってナシュアナと接するようになった。王后陛下が幼くして亡くなった自分の娘とナシュアナを重ねていることはなんとなく知っていたが、先日の反乱で内戦後も権力を保っていた貴族達の旗色が一気に悪くなったことで、遠慮がいらなくなったのだろう。
フェルドリックも彼女との交流を顕著に深めている。「第二夫人とその娘のセルナディアを追いつめるために使える」からだそうだ。そんなひどい物言いの裏で、王女に必要な教育から物品、身の安全、人材、すべてに気を配っているのが、いかにも彼らしい。
そうして注目を浴びるようになるにつれ、彼女の人となりが広く知られ始める。控えめではあるが、善良で優しい性質の彼女に、当然ながら人々は好意の視線を向けるようになり、彼女の立場は王宮の内外で飛躍的に上昇した。
きっかけを作った形になったフィルのほうも噂になっている。
そういう性格なのだろうが、元々王都民に親しまれていたところに、あの剣技大会。加えて、先の反乱で国民に大人気のフェルドリックを救ったとあって、今や時の人と化しつつある。
フェルドリックの信頼を得ているという噂の騎士(フィルは顔を真っ青にして、フェルドリックは顔を引きつらせて否定するだろうが、フェルドリックを見る限りおそらく事実だ)が、そんなナシュアナ王女と近しい――かくしてフィルとナシュアナは、今王宮内で注目の的となっている。
となると、手のひらを返して彼女らに近寄ろうとする者が増えてきていて、今もそこかしこで彼女らの様子をうかがっている者たちがたくさんいるのだが……。
「……」
アレックスの視線の先、ナシュアナが今指を伸ばし、つかもうとしているのは、青黒い棘に全身を覆った、真緑の蝶の幼虫。
「わ、ナシア、それはちょっと待って」
ここでフィルが、そんなものを捕ってはいけない、などと言うと期待してはいけない。
「その棘、毒があったらいけないから」とハンカチを差し出し、それを受け取った王女が、「フィル、優しいのね」などと頬を染める。
そのフィルの手の内には、親指サイズの大きな紫色の芋虫、赤黒い斑点付き(いまいち種類不明)。
庭の向こうに視線を向ければ、これまでセルナディア第一王女にべったりだった子爵家の娘が父親に背を押され、だがその彼女は半泣きで首を振ってフィルたちに近寄ることを拒んでいる。
「ねえ、アレクサンダー、これって飼育できるのかしら?」
「バラの葉を与えてやれば、脱皮後五日ほどで蛹になって、半月ほど後に羽化するかと」
アレックスの説明に顔を輝かせた王女とは対照的に、彼女付きの侍女の顔が蒼くなった。微妙に悪いことをした気分になる。
「庭師のコッド爺さんに怒られるかな、害虫増やすなって」と言いつつ、こっそりバラの葉を引き千切るフィル。
「前も怒られたのよね」と言いながら、くすくす笑ってそれを受け取る王女は、「持っていて」とアレックスにハンカチごとその幼虫を手渡してきた。
「……」
(……共犯決定、だ)
アレックスは白いハンカチの中でもぞもぞと蠢く芋虫を前にため息をつく。
「何やってんの?」
「あ、お兄さま」
かけられた声に振り向けば、フェルドリックと彼の執務補佐官フォースン・ゼ・ルバルゼ、そして、その護衛のアンドリュー・バロック・ロンデールがいた。
フィルに視線を走らせているロンデールに苦々しい感情が広がり、表情が自然と硬くなる。
グリフィス退治の際、皆から遅れて、タンタールの砦にたどり着いた夜のことだ。フェルドリックの姿を確認しようとその部屋に入った自分たち――正確にはフィルを見て、彼は明らかな安堵を顔に浮かべた。
その後、グリフィスに襲われた村の生き残りである姉妹を、要塞の警備隊長が別所へやろうとした時、少女たちがぐずってフィルにしがみついた。困った顔をしながら二人の頭を撫でるフィルを、彼は憧憬するような目で見つめる。
フェルドリックが警備隊長を宥める間も彼はちらちらとフィルに視線を向け、それに苛立ちと不安を覚えた。
決定打は、少女の一人がフィルに『お姉ちゃん、眠い』と言って、フィルが慌てて退室していった後だ。
『……女性、なのですか?』
戸惑いを露にそう呟いた警備隊長に、『そう見えるか?』と淡々と返したフェルドリックと、ただ苦笑を漏らしただけだったウェズ小隊長。だが、ロンデールが反応したのは無言を通したアレックスに、だった。『……ご存知でしたか』と。それと共に向けられた彼の瞳には、これまでとは違って明らかな敵意があった。
それからは警戒に警戒を重ねた。カザレナに戻るまでの間、アレックスは極力フィルの側を離れないようにしたし、許す限りの牽制も怠らなかった。しかもフィル自身が彼を避けていたせいで、その後彼らが二人きりになる機会はなかったはずだ。
だが、それでも彼はずっと目でフィルを追っていた。そして、彼女の横にいるアレックスへと彼が事ある毎に向けてきた視線――あれは憎悪だった。
今彼が見せているのもフィルを望む目だ。
(彼女をそんな目で見ていいのは俺だけだ)
そんな内心を感じ取っただろう、アレックスを見るなり、ロンデールも表情を凍らせた。
思わず目を眇める。厄介な相手がこれで完全に敵になった。
渦中の彼女へと目を向ければ、盛大に顔を引きつらせて三人、いや、正確にはフェルドリックを見ていた。思わず安堵する。
「ぅわ、ちょっと、それ持って近寄らないでよ。てか、フィルがおかしいのはどうしようもないとして、アレックスまで何してるのさ?」
「おかしい……どうしようもない……」
フィルの情けない声を無視して、フェルドリックがフィルとアレックスが持つ芋虫に顔を歪めた。そういえばこいつ、こういうもの駄目だったな、と思い出す。
「お兄さま、この子、成長したら青色に光る大きな蝶になるのですって」
「……成長してから見ればいいだろうに」
一理ある。
「ナシュアナ、いいかい、あまりフィルに影響されると、あんなふうに取り返しのつかないことになるよ」
膝をかがめて、妹に真面目にそう諭しているフェルドリックの顔にまた少し表情が緩んだ。
打算を抱えて異母妹に近づいたのだろうに、思ったよりその妹に懐かれた彼の性根は、実は悪くない。それゆえこうして本物の兄の顔になっていく。
兄妹の向こうでは、「取り返しがつかない」呼ばわりされたフィルが、仕返しのために芋虫をフェルドリックの頭の上に置きたいという誘惑と戦っている。
「……」
能天気というかなんというか、結局することにしたらしい。そろっと動いて、フィルは芋虫をフェルドリックの頭上へと差し伸べた。
仕返しされるのがわかっていてなぜフィルは敢えて危険を冒そうとするのか、それが相変わらず不思議ではある。
「フィル・ディランっ!!」
「ぅわ」
だが、そこに響いた、しゃがれ声にフィルはぎくりと体を震わせると、手にしていたバラの葉をポケットに突っ込み、持っていた幼虫をフェルドリックの頭上から茂みへと戻した。
それを見たナシュアナ王女が同じことをしようとして、ドレスにポケットがないのに気付き、慌ててバラの葉を後ろ手にする。
「えーと、こ、こんにちは、コッド爺さん」
振り返った先に、顔を真っ赤にさせた庭師の老人の姿。怒りのためだろう、フィル以外は目に入っていない様子だ。
共犯であることを見つからないうちに、アレックスも手にしていた幼虫を密かに茂みに元に戻した。
「っ、こんにちは、ではないっ。ちょっとこっちに来い、お前はほんっとうに毎回毎回毎回っ」
そう言ってフィルの首根っこを引っつかむと、老庭師は王太子と王女の目の前から彼女を連れ去っていった。
「この間は木に登って枝を折りよるし」
「だって、子供がリボンを風に飛ばされたって……」
「だからって登ることはなかろうがっ、言えばとってやるわっ」
「えー、お年寄りにそんなことをさせるのは……」
「誰が登るかっ、道具があるわっ」
「へえ、そんなのあるんだ」
「いつだったかのオレンジもじゃっ」
「へ? いや、確かにもらいましたけど、最後には腐らせるだけだから好きに食べていいって言ったじゃないですか」
「お前が余計な事を教えたせいで、子供たちが真似して片っ端からオレンジをもぎよったっ、おかげで皆丸裸じゃっ。料理長だけじゃないぞ、貴族の親連中にまで、なんでか儂が文句を言われとる!」
「え゛? そ、そんなこと言われても……」
そうして遠くの花壇の前で、フィルは彼に叱られ始めた。
「噂には聞いていましたけど、随分と面白い人ですね。それにしても芋虫……置いてみて欲しかった」
そう感心したように呟いたのは、フェルドリックの執務補佐官だ。アレックスとはあまり面識がないが、かなりやり手の文官だという。彼の仕事の出来の良さに目をつけたフェルドリックが、下級官吏だった彼を引き上げたそうだ。
「馬鹿なんだよ……てか、芋虫って何?」
フェルドリックの疲れたような声に、少しだけ笑った。彼は確かにフィルを気に入っている。
「私が行くと……コッドは気まずくなるわよね。うーん、フィルを助けてくれない、アレクサンダー?」
フィルを見ながら困ったようにナシュアナ王女が呟いた。
助けてもいいが、ロンデールの前からフィルがいなくなったのは有難いし、フィルだってフェルドリックと庭師の老人の小言を比べれば、小言の方がましと言うだろう。
だが、返事をする前に、ロンデールが二人の方へと動き出した。アレックスは眉をひそめる。
(やはりあの程度では退いてくれないか……。ならば……)
「大丈夫。そろそろです」
「え? あ……」
老人の渋い顔が苦笑に代わった。次第に笑い始め、最後にはゲラゲラと声を立てる。自分より高い所にあるフィルの頭をぐりぐりと撫でて、フィルも一緒になって笑う。
「……アレクサンダー、すごいわね」
感心したように呟くナシュアナ王女と、呆れの視線をよこすフェルドリック。面白そうな顔をしたフォースン、そして……刺すような目を向けてきたロンデール。
「ずっと見ていますから」
その全員に微笑んだ後、アレックスはロンデールを正面から見つめ返した。
「ナシア、バラの葉、奥の庭のなら採っていいって。株が弱っていて捨てる予定なんですって」
「まあ、すごいわ」
「うん、でも羽化した蝶は庭に放すなって」
「……それはそうね」
走り戻ってきたフィルがナシュアナに声をかけた。金色の髪についた葉の切れ端を払ってやれば、彼女はアレックスを見て幸せそうに微笑む。
そのやりとりにフェルドリックがまたもため息をつき、ナシュアナが顔を赤らめた。両者に気付かないまま、フィルはもう一度彼女に向き直る。
(……やはり十二歳以下)
思わず内心で嘆く。
「あとこれはとっておき! そのバラをどけた後、好きな花植えていいって。ナシア、前、花畑作ってみたいって言ってませんでした?」
「っ、本当に? すごいわっ!」
感激の声を上げて抱きついたナシュアナを、フィルは笑いながら抱えあげる。
「……どんな花をお植えになるのですか?」
「そうね……」
ロンデールがナシュアナに話しかけ、彼女を抱えるフィルと自然に近づいた。
(……これだけ距離の違いを見せてやっても諦める気がないということか)
隠す気もなくなって、アレックスはあからさまに眉根を寄せる。
「楽しくなってきそうだね」
「……」
にこやかに笑うフェルドリックを思わず睨めば、その後ろで気の毒そうな視線を送ってきているフォースンと目が合った。
自分が行かなかった場所に入ってくれた人物は、悪い人間ではないらしいと判断して、また息を吐き出す。
ロンデールを前に顔を強張らせていたフィルは、それでも彼の巧みな話術のせいなのだろう、王女と彼の会話の合間に笑顔を見せ始めた。
「……」
胸が軋んだ。フィルは知らない。その彼が自分の婚約者として世間に取り沙汰されていることを。そして、既に自分の素性を知っていて、自分に恋をし始めていることを。
(それを知った時、フィルはどうするのだろう――)
不安が全身に広がっていく。彼もきっと悪い人間じゃない。だからこそ余計気になってしまう。
「ねえ、いなくなって欲しい?」
「……覚えてろよ、リック」
フェルドリックが動けばロンデールはフィルから離れざるを得ない。そうと知っていて人の悪い笑みを浮かべる彼に不機嫌を露わにすれば、彼は悪びれる様子もなくくつりと笑った。横でフォースンが目を丸くする。
人が集まってきた。応じて、フェルドリックの顔に『王太子』の仮面が貼りつく。
「じゃあ、ナシュアナ、また」
去っていくフェルドリックにフォースンが、そしてロンデールが続く。だが、すれ違いざま、彼はアレックスへと視線を向けてきた。
「――いつまでも側にいられると思わないでもらおう」
返す視線も苛烈になる。
「生憎と彼女の横はこの先も私のものだ――お前の出る幕など永久にない」
お互いを横目で睨みつつ、距離が遠ざかっていった。
「アレックス、行きましょう」
「アレクサンダー、あの、お願いしていい?」
ロンデールからようやく意識を離して振り向いた先――フィルと王女は大きなスコップを持って上機嫌。
「……」
近づいて来ていた者たちが、そこかしこで再び固まっている。
彼らの様子に首を傾げた彼女は、「ああ、これ、コッド爺さんに借りたんです」となぜか得意げに、スコップを指差した。
(そうじゃないんだが……)
「……花壇、掘り返すのか」
はい、と応じるフィルはやはり上機嫌。
(そう、だな、土いじりがしたいと言っていたものな……)
『メツナと青林檎とあと山桃! 栗もいいなあ』
自分の庭があったら植えるのだと言っていたものは、全部食べ物だった。
『でもフィル、それみんな実がなるまで何年もかかるよ』
『そうなの? じゃあ、余計楽しいね、いつなるかってずっとワクワクしていられる』
(昔からだ、いつだって人の気なんて知らないんだ、フィルは)
思わず苦笑する。
「……?」
何かを感じ取ったのか、フィルがじっとアレックスを見つめてきた。きめの細かい、白い頬に手を伸ばし、親指の腹を桜色の下唇においた。
「絶対に放さない」
そのまま見つめながら、抱き寄せて口づけようか、と考える。
幼い王女が側で、「アレクサンダーっ、フィルっ」と焦っていなければ実行してしまうのだが。
「? 離れませんけど?」
そんなアレックスに、フィルは不思議そうに首を傾げた。思わず吹き出して笑えば、つられてか、フィルも笑い声を漏らす。
十二歳の王女が「フィル……」と呆れている時点で、本当は笑い事じゃないはずなのだが、それでも、俺を見て君が笑う――これが嬉しい以外のなんだというのだろう?
願わくはずっと、ずっと、その横に。




