10-1.昔日
「力及びませんでしたことをお詫び申し上げます」
王都の外れのメッセン第四小隊長宅。
綺麗な白髪を丁寧に整えた六十くらいの華奢な夫人は、悲しみを顔に湛え、それでも凛とした姿で、無言の帰宅となった夫を出迎えた。
王国旗と騎士団旗に包まれた、ごく軽い棺が邸内に運び込まれ、目元を晴らした壮年の女性三人と男性三人、彼らの子供たちがその周りを囲む。年長の子供たちの目には涙が浮かんでいた。
コレクト団長が静かに謝罪と弔意を伝え、頭を下げた。フィルはポトマック副団長と第四小隊員たちの後ろで、ヘンリックとロデルセンと共に沈痛な思いでそれを聞いていた。
メッセン小隊長の娘と思しき二名の女性と子供たちが声を上げて泣き崩れる中、夫人は寂しそうに微笑み、無言のまま優しく棺を撫でる。その光景に胸が詰まった。
今日明日と親族で別れを惜しんでもらい、葬式は明後日、団葬となることが決まっている。
彼の最後を看取ったヘンリックとロデルセンが、遺言を伝えるために家族と共に別室へと入って行くのを見送り、その他の者は無言のまま居間に佇んでいた。
何かもっとできることがあったのではないか――。
フィルは両脇で拳を握り締める。
矢を射られて崩れるメッセン小隊長を遠目に認めて、慌てて駆けつけた。止血もあの状況で可能な限りしたつもりだけど、もっとできることがあったのではないか。
どうしてもそんなふうに考えてしまう。
きっと皆同じことを考えているのだろう。空気がとても重い。
夏の盛りを迎えた午後のカザレナの空は、そんな皆の心を映したかのように重たく、厚い雲に覆われている。悲しいくらいに薄暗い。
「少しお話をしてもいいかしら?」
帰り際、フィルは夫人に声をかけられて立ち止まった。驚きを隠せなくて、思わずポトマック副団長を見れば、彼も微かに困惑を顔に浮かべている。
無言のまま夫人と視線を交わしたポトマックが、フィルへと小さく頷く。
夫人に伴われ、緊張を覚えながらフィルは屋敷の裏庭に回った。
「本当にそっくりね」
庭に備えられたテーブルに腰掛け、茶を受け取った後、夫人にじっと顔を見つめられて、フィルは息を止めた。
(似ている、とは、やはり……)
「ご存知、でしたか」
呼気と共に絞り出すように応じたフィルに、夫人は沈んだ顔に微笑を浮かべた。
「昨年の入団試験の日に主人がね、子供みたいな顔をして、そりゃあ嬉しそうに帰ってきたの」
フィルの横の椅子に腰掛けた夫人はフィルを見ない。どこか遠く、薄暗い空へと目線を向けて……きっとメッセンを想っている。
祖母が亡くなった後、祖父が繰り返ししていたのと同じ顔だ。話をしていても、きっと目の前のフィルの存在は今彼女の頭から消えているのだろう。
「そっくりだったって本当に楽しそうに笑ったのよ。あの人、ザルアナックさまに心酔していたから」
夫人は「本当、男って変な生き物よね」と笑った。
どこからか湿り気を含んだ風が吹いて来て、庭の片隅に生えた背の高いひまわりを揺らす。夏の象徴の花も、曇り空の下のせいか、それとも家人の思いを汲み取ってか、しょんぼりしているように見えた。
「少し、ううん、かなり、ね。私、ザルアナックさまに嫉妬していたのよ。こっちは死ぬほど心配しながら、任務やら紛争やらが終わって主人が帰ってくるのを待っているのに、帰ってきた本人は『アルがどうしたこうしたすごかった』ばっかり」
だから、私、あなたのお爺さまのこと、あまり好きになれなかったの、と。
「……」
優しいのに悲しい空気に胸が震えた。
「私があの人と知り合った時、彼は既にザルアナックさまにベタ惚れ。そりゃあ、相手は英雄だし、仕方ないとは思うけど面白くなくて。やってられないと思う時だってあったのに、結局逃げられなかったのよねえ」
「……祖母もよく、『ライバルが多かったの』と、『相手が女性ではないから、太刀打ちできなかったのよ』と言っていました」
やっと声にしたフィルに夫人は微かに声を立てて笑った。
馴れ初めの話。
付き合っていた頃の話。
プロポーズと結婚した時の話。
それから子供が生まれた時の話。
その子供たちのおかげで、一緒に親になっていったという話。
子供が巣立っていって再び二人になってからの話。
フィルを見ないまま、夫人は話し続ける。それをフィルはただじっと聞いていた。
「あなたのおかげなのよね、主人がやっとザルアナックさま離れをしたの」
「?」
「あなたを引き取ることにしたから騎士団を辞める、領地に引っ込むとザルアナックさまがある日突然宣言なさったらしくて」
クスクスと笑いながら、夫人は湯気の立たなくなって久しい茶を一口、口に含んだ。
「建国王さまの苦情も騎士団の皆の動揺も、『何とかなるに決まっているだろう』って笑いながら、まったく無視。あの人ったら信じられないことに帰ってきて泣いたのよ」
と少し拗ねたように顔を顰めた。その顔が少女のようでフィルは目をみはる。
「同じように考えたのね、他の騎士の奥さんたちも不満が溜まっていて、皆で示し合わせて家出したの」
「え?」
「だって、結婚前からもしてからも、毎日『アル』の話よ? 挙げ句彼がいなくなるって聞いてそこまで動揺するなら、私がいなくなったらどれだけ動揺するか試してみたくならない? 結果次第では別れてやろうと思ったのよ」
言葉とは裏腹に彼女の顔は優しくて、その裏側の気持ちをこちらに如実に運んでくる。
彼女は今なお彼を深く愛している――。
「ある人たちは実家に戻って、ある人たちは独立した子供のところ、ちなみに私たちは皆で一緒に湖西地方の別荘を借りて」
全部で四十人くらいかしら、同じ日に一斉にいなくなったのよね、と。
(ひょっとして……)
「私を連れてザルアに行く時、祖母は一人だったと聞きましたが……」
「ふふふ、エレーニナさまには申し訳ないことをしてしまったわ。もういい年で幹部だった主人たちが一斉に休暇を取ったの。それでアルさまの退役が遅れたのよね」
四十、五十の幹部たちが、必死になって妻に謝りに各地へ散っていった……その様子を想像して、フィルは少しだけ笑ってしまった。
「本当はね、知っていたのよ、ちゃんと」
彼女は優しく苦笑する。
「私を愛してくれているって、ザルアナックさまへの憧れや忠誠とは全然違う気持ちだって……。でも、少し困らせてみたかったの……」
また風が吹いた。慰めるかのようにフィルと夫人の間を流れていって、夫人の横顔をその髪で隠す。
彼女の顔が見えなくなったことに救いを覚えた。今見てしまえばきっと話ができなくなってしまう。
「ご存知、だったと思います」
言う必要はないのだろうけれど。
何十年もの年月を、愛情とともに過ごした彼らのことだから、きっとお互いのその気持ちを知っていたのだろうけれど。
「……これが終わったら退役してって頼むつもりだったの」
風が収まって再び見えるようになった夫人の顔が、泣き笑いのように歪む。
同じように歪みそうになったのを必死に押しとどめて口を開く。
「きっと、それも」
それもメッセン小隊長は知っていたのだと思う。だって、多分それがフィルの、騎士にあるまじきあの行動をメッセン小隊長が最終的に受け入れた理由だ。
帰りたかったのだろう、この人の下へ。できれば生きて、それが駄目でもせめてその身だけでも彼女に会いたかったのではないか……。
「でも、あなたが大事だから、だから叶わないかもしれない未来ゆえに、あなたを泣かせたくなくて……」
だから、遠征の前に口にしなかったのだと、そう思う。
「そう、かしら……」
その呟きはおそらくフィルへの疑問ではない。だって、彼女はその答えすらきっと知っているのだから。
「はい」
それでも声に出して頷いたフィルに、夫人は笑いながら涙を零した。
「……優しい子ね。わかっていて言ってくれるのね」
「……っ」
わかっていても誰かに言って欲しい言葉。でも、本当はフィルではなく、他の誰からでもなく、その人本人から聞きたかったのであろう言葉。
その言葉をメッセン小隊長から直接彼女に聞かせてあげられないことが悲しい。その言葉をメッセン小隊長に言わせてあげられないことが、どうしようもなく悔しい。
庭を出て見上げた空は、相変わらず重苦しい曇天だった。時刻がわからないほど、雲が厚くて薄暗い。
「……」
さきほど見送りにわざわざ出てきてくれたメッセン小隊長の息子を振り返って頭を下げ、フィルは歩き出す。
『父の最後の我がままを叶えて下さってありがとう』
(なぜ生かしたまま連れ帰ってくれなかったのかって詰ってくれてもいいのに、その権利もあるはずなのに……)
すべてを見透かしているかのように微笑んでくれた、自分の父ぐらいの歳の彼の言葉に泣きそうになるのを必死に堪えて、通りの角を曲がった。
立ち止まって顔をあげると、頬に雨粒が当たる。
(二滴、三滴、四滴……)
ポツリ、ポツリと降っていたそれが、徐々にその感覚を狭めていく。
(十八、十九、二十、二十一……)
無心に二十四まで数えたところで、複数が同時に顔を濡らし始めて数えられなくなった。同時に意識を逸らしていることができなくなって、フィルは両眼から涙を溢れさせる。雫が雨に紛れて頬を伝っていく。
地面にぶつかる雨音が音を消してくれる。なら、少しだけ、今だけ――。
フィルは顔を歪めると、嗚咽に震える息を吐き出した。
『あの人が敬愛した人の孫のあなた。あなたも大事に生きなさいね』
(ちゃんとできているだろうか……? 次に胸を張って彼女に、いつか胸を張ってメッセン小隊長に会える……?)
「……」
きっと大事なことなのに、まだ答えが見つけられない。




