9-2.背
「厳しい戦いになるんでしょうか……」
明日の朝一番で、フィルたちはハフトリー辺境伯の領地プレビカに向けて出発することが決まった。
タンタールにおける、魔物使いによる王太子フェルドリック襲撃の直後、ハフトリー辺境伯は警護隊の動きを察知した。叛心がばれたと見るや、彼は自らの居城で篭城を始める。堀に面した高い壁で覆われたその城は堅固さで知られる上、内に井戸や家畜を有し、備蓄も多いらしく、今に至るまでプレビカの警護隊と睨み合っているらしい。
これ以上長引けば、国の威信を損なうとのカザック国王の判断により、その制圧に騎士団の第一中隊、つまり第一から第四小隊と第二十小隊が派遣されることになったというわけだ。
総指揮はフェルドリック王太子。狙われているのになんでわざわざ、と思ったが、逃げも隠れもしないという姿勢を見せる、つまりはこれも国威のためだそうだ。本気で逃げられないんだな、とフェルドリックに同情を覚えている。
ハフトリーの制圧に成功した後は、共謀者の探索と制圧に入るらしく、場合によってはプレビカなどの警護隊を兵とした大規模な戦闘となる見込みだ。
「いや、その心配はおそらくない」
アレックスが自室の扉を開いて入室を促してくれた。これから出発の為の荷造りを行わなくてはいけない。
「っ」
扉が閉まるなり、背後から彼の両腕が回されて、抱き込まれるような形になった。頬に黒髪が触れ、首に吐息がかかる。背中越しに温かい熱が伝わってくる。
何回されても慣れなくて、緊張して固まってしまうフィルを、後ろのアレックスが忍び笑っている気配がする。
「いい加減慣れないか」
「む、無理、です……」
その声に赤面してしまうのも最近の日常だ。
「もう何か月もこんなふうにしているのに?」
「……変、ですか?」
好きな人だからこそ緊張してしまう。ついでに、アレックスはオッズ曰くの『色気』(ヘンリックに言わせると『あれは色気どころかもう公害じゃ?』らしい)なる妙な空気を出すことがあって、それにあてられるたびになぜか動きを封じられる。
「かわいいよ。フィルならなんだっていいんだし」
「っ」
斜め後ろからこめかみにキスを落とされて、「さっさと準備をしてしまおう」という声と共に背中の熱が離れた。
「……」
何もなかったかのように、荷づくりを始めたアレックスの後ろ姿を見ていると、真っ赤になって固まる自分が馬鹿にしか思えなくなってきて、フィルは肩を落とした。
なんせああいう台詞は本当にやめて欲しい。側で聞いている分には平気だったけど、自分が対象になるのは本当に困る。
(いつか全身の血管に限界が来て死ぬかも……)
最近そう真剣に悩んでいる。
嵩張る様な物資は隊全体で輸送されるから、荷造りと言っても個人的なものばかりになる。手順よくまとめて、フィルは床の上で溜め息をついた。
「フィル、どうした?」
同様に準備を終えたアレックスがそんなフィルを振り返った。
「その、ちょっと緊張しているのかも」
初めての遠征だ。自分の腕一つで大抵のことが何とかなる王都の警護や、グリフィスの退治とは訳が違う。プレビカでは『騎士』である以上、フィルも将校として兵の一部を率いなくてはならなくなる可能性だってある。
「かけるのが自分の命一つではない、という状況は初めてなので……」
将校を育てるための教育を、この一年徹底して受けてきたのはこういう時のためだと理解している。だが、自分の肩にかかるのが人の命だと思うと、そしてその責任の大きさを思うと、気が重くなる。
「……っ」
準備した荷を前に沈み込んだフィルへとアレックスの腕が伸びた。彼の横、ベッドの上へと誘われる。
「大丈夫だ」
じぃっとその青い瞳を見つめる。
いつもと同じ、落ち着いたその色にフィルは少しだけ息を吐き出した。
「自分の心配もしなくてはいけないのですけどね……」
アレックスの肩に額を押し当ててそう呟く。
経験の浅い騎士達は、大きな遠征での死亡率がやはり高いと言う。死なないまでも心身に傷を負って団を去る者を含めると、遠征の後にその人数が半減することも珍しくないと聞いた。
派遣規模も大きく、被害も大きかったという二年前のクイナ王国との国境紛争では、その通りのことが現に起こって、例えばアレックスたち四十八期生は現在十四名しか残っていない。
「派遣が決まった同期たちはみんな真っ青になっていましたし」
ヘンリックは思い残すことのないように、とメアリーに告白しに行った。そんなことしたら絶対怒られるからやめておけと言ったのだけれど。
今頃その通りになっているだろう親友の冥福をフィルは思わず祈る。
「やるべきことをやればいい。フィルならできるだろう?」
静かな声と共に、頭を優しく撫でられる。
(……アレックスが一緒にいてくれる)
不安が引いていく。
戦略によって小隊はバラバラに分けられることがあるが、その基本単位である二人組みは常に一緒だ。それでバランスが取れるように組んであるらしいが、フィルはアレックスがいると無敵な気分になれる。今だってそうだ。
「はい」
大丈夫――そう感じてフィルは、大きく息を吸い込むと顔を上げた。
それから、アレックスと雑談を交わしつつ剣の手入れをして、いつも携帯している他の武器――ナイフや短刀、鉛礫――を整えて、衣服や籠手、ブーツなどのあちこちに仕込んで準備は終了した。
しばらく楽しめなくなるからお茶でも、と思って声をかけようとしたところで、アレックスに抱き寄せられた。
「アレックス……?」
心臓の音が徐々に早まっていく。
「フィル」
覚えのある艶を含んだ声に、息を止めた。
「したい」
全身がビクリと震える。理性や羞恥に関係なしに体の芯が反応し始める――それが怖い。
一月ほど前、タンタール近くの森で初めてアレックスと結ばれて、二度目はここに戻ってきてから。それから可能な時は毎日、その回数すらわからなくなるくらいに彼を受け入れた。次の朝、動けなくなっていることやその前の晩のことを覚えていないことは珍しくない。
「フィル、全身でフィルを感じたい」
「っ」
熱を含んで耳元で囁かれる声に、顔がかあっと熱くなるのが分かった。
「……嫌か?」
少し不安そうに言われて、慌てて首を横に振った。
「その、身体が、」
(どうしよう、こんなことを言ったら嫌われるだろうか? だって……これこそ変なのかもしれない)
視線を揺らしつつ、フィルは身を縮める。
「ええと、おかしくなっていっている、気がするんです。その、触られると嬉しいのに、怖いんです、自分の物じゃなくなるみたいで……」
必死の思いでそう言ったのに……、
「……そうか」
アレックスは目をみはった後、本当に幸せそうに微笑んだ。
「フィルが俺に馴染んでいっている、それだけの話だ」
額を突き合わせた状態でそう囁かれ、唇が自分のそれに重なった。
そして、その晩も意識を失うまでアレックスに翻弄される羽目に陥った。
* * *
(欲しい――)
一度覚えてしまったフィルの体の感触は、アレックスを麻薬のように蝕んだ。
触れたい。この体の下に組み敷いて、淫らに啼かせたい。
彼女を視界に入れる度、そんな風に感じてしまう。
完全に嵌ってしまった。
八年間ずっと焦がれてきて、一緒にいれるようになることを望んできた彼女。去年の秋には再び彼女に恋をして、「すべてが欲しい」とそれ以来望み続けた。
タンタールでやっと彼女を手に入れてようやく落ち着けるかと思ったら、予想に反して余計落ち着かなくなった。その衝動のままに、毎晩、休みの日には日中すら彼女を抱いている。
それなのに、まだ欲しいと思う。
フィルに月のものが来た日にはそれすらかまわないと思い、泣きそうになりながら拒絶されてかなり堪えた。結構淡白なほうだと思っていたから、自分がこんなだなんて今まで考えたこともなかった。
「したい」
抱きしめてそう告げるたびにフィルが戸惑うのがわかるのに、それでも止められない。視界に彼女が入るだけで欲情してしまう。傍らから漂ってくる彼女の香りにいたっては媚薬としか思えない。
はやくフィルにも同じように思って欲しい。はやく彼女の身体に自分を覚えこませたい――その欲望のままに彼女が感じる場所や言葉、触れ方、加減を、焼き切れそうな理性を必死に保たせながら探る。そうして自分なしではいられないようにする。
「おかしくなっていっている、気がするんです。その、触られると嬉しいのに、怖いんです、自分の物じゃなくなるみたいで……」
真っ赤になって泣きそうになりながらフィルが発した言葉に、どれだけアレックスが歓喜したか、フィルは知らない。それがどれだけアレックスを煽るかなんて、きっとフィルは考えてもいない。
「フィルが俺に馴染んでいっている、それだけの話だ」
緩んでしまった顔をキスすることで隠して、その晩も彼女に自身を刻み付けた。フィルが何度も限界に達して意識を失ったように寝てしまうまで。
その後はいつもそうするように体を清めてやって、生まれたままの姿のフィルを腕の中に抱き、あどけない寝顔のあちこちにキスを落とす。
「……かわいいよなあ」
時折その顔がふよっと緩むのがかわいい。それで擦り寄ってくるのも嬉しい。
時折微かに目を開いて、ふわっと微笑むのは格別に。その後に「アレックス」とただ名を呼んでくれるのは、形容できないくらいに。
我ながら『壊れている』と思って、苦笑してしまうのだが。
「……」
ふと明日からの遠征を思う。
フィルに告げたとおり、今回の戦闘は厳しいものにはならないだろう。ハフトリーが孤立している以上、共謀者がいたとしても、複雑な連携はしにくいはずだ。規模もおそらく国軍とは比較にならない。
(だから、いつかの国境紛争のようにはならないとは思うが……)
あの時、指揮を任されるような中堅以上の騎士でさえ死亡する苦境の中で、アレックスの同期やその前後の期生たちはその半数近くが死亡、または深刻な怪我を負った。かろうじて無事に生還した者も、それを遠因に騎士団を去ったし、アレックス自身、あの時の情景に夜うなされる事は少なくなかった。
土埃に混ざって立ち込める血の臭い、間近で響く、肉と骨の絶たれる音と断末魔。まだ生きている者の呻き声が、押し寄せてくる馬蹄に押しつぶされる瞬間の絶望。目の前で事切れていく見知った仲間たち。若い兵士が恋人の名を呟きながら事切れていく様。指揮官の死亡により恐慌状態となった集団の心理。把握しきれない敵の存在に周囲に蔓延っていった殺気と狂気――。
あの時、アレックスと同じ部隊にいたほとんどの騎士が死亡し、敵の只中に残された時――絶対に生きて帰ってフィルにもう一度会いたい、と思った。囚われそうになった恐怖を振りきって、状況を好転させることができたのは、その執念ゆえだったとしか言いようがない。
「……んー」
そう思わせた彼女が今、腕の中で寝惚け声を出した。
「……」
ずっとあんな戦場にもう一度出ることを怖いと思っていたのに、なぜだろう、自分の傍らにフィルがいると思うと、今度は大丈夫と思える。
戦闘の場面で、たとえ見えていなくても彼女の気配は感じられる。その動きはいつもアレックスに綺麗に合っていて、まずいと思うような瞬間には必ず彼女の手が入った。少々危ない賭けでも彼女がいるからできる、そんな場面も少なくない。
偶然か必然か、自分が何一つ憂えることなく動ける、安心して背を預けられる相手、それが長年想い続けてきた彼女――。
「……守れるように、と思っているんだが」
思わず片目を眇めて、その頬をつつく。
「うー」
彼女が微かに眉を寄せた。アレックスの指から逃げるように、胸に顔を押し付けてくる。それから満足したように笑って、再び規則正しい寝息を立て始めた。
「……」
知らず微笑みながら彼女を抱きしめた。
九年前、アレックスを必死に庇ってくれたフィルは、離れている間も今も変わらずアレックスを守ってくれている。それを少し悔しいと思うのに、幸福にも思う。
「今度は俺もフィルを守らないとな……」
そう決意を新たにすると、今も鮮明にある額の傷に唇を落とした。




