6.声
「ロギア爺」
「……」
吹雪の音が止んだ明け方。ゆっくりゆっくり紡ぐように話をしていたロギア爺が黙り込んだ。
「……ねえ、朝だよ」
「……」
オレンジ色の明るい日差しが、一つだけある小さな窓から差し込む。徐々に強くなっていく朝日と反比例するかのように、傍らにあった温かみが少しずつ消えていく。
「きっと外は真っ白だね……」
「……」
曙光が髭だらけの顔を照らし出した。それなのに瞼が開かない。綺麗なコバルトブルーの瞳が見えない。
「雪、きっとこのまま溶けないよ。だから今年は冬の間中、ずっとロギア爺のところにいるからね」
「……」
我がままな娘だ、と呆れたようにまた言ってほしい。あの声がまた聞きたい。
「お茶、淹れようか? ロギア爺の好きな焼き菓子、あるよ」
「……」
横の温かみが減ったことを気のせいだと思いたくて、小さく震え始めた体をさらに彼に寄せる。そうすればきっとまた温まる。
「夜更かしさせちゃったから、眠い、のかな……」
「……」
穏やかなその顔を見つめるうちに、ぽたりと布団に滴が落ちて、染みを作った。
この意味をきっと知っている。ただ認めてしまったら……――。
ぎぃっという音と共に、冷たい空気が小屋に流れ込んできた。
「……」
朝日が直接顔に当たって、フィルは目を細めた。黒い影が二つ、その光の中に見える。
「メル、ネル……」
明かりに慣れた目が影の主達の瞳を捉えた瞬間、落ちる滴の量が増した。
昨日同様二匹の瞳には、感情が全く浮かんでいない。でも、感情がなくなったわけじゃない、そう見せているだけだ、と悟ってしまった。
ネルがフィルの傍らのロギア爺へと音もなく近づく。その顔を覗き込み、額に額を押し当てた。その次にメルが同じことをする。それから二匹はロギア爺の横に伏せて、その顔をひたすらに見つめた。
儀式のようなそれをフィルはただ見ていた。その異常さと丁寧さの意味、そして二匹から伝わってくる悲しみの意味を考えたくなかった。
どれくらいの時間そうしていただろう。二匹はゆっくりとした動作で、ロギア爺の腕を咥えると体を引き起こした。
「っ」
フィルは息をのむと、咄嗟にロギア爺に縋りついて、髭もじゃの大きな頭を胸に抱え込んだ。
「……やだ」
そしてボロボロと泣きながら、掠れた声でそう告げた。二匹の視線が自分の後頭部に集中しているのを感じる。
「やだ、連れてかないで」
だって大好きなんだ。ロギア爺がいなくなるなんていやだ。
「お願い、お願いだから……もう少ししたら、起きるから……」
「……っ」
しばらくフィルを見ていたメルが、フィルとロギア爺の間に顔を差し込んだ。その鼻先を使ってぐしゃぐしゃになってしまっているフィルの顔をロギア爺の顔から引き離す。直後に綺麗な緑色の舌がゆっくりと頬に当たった。フィルの涙でぐしゃぐしゃになった顔を舐め始める。
ネルの尾がフィルの腹部あたりに回って、やはり体をロギア爺から引き離した。その尾の先がゆっくりと頭を撫でる。
「っ」
いつもいつもフィルをからかって遊ぶばかりの彼らが見せる、労わるかのような仕草。フィルよりずっと長く生きている二匹がフィルに向ける、痛ましいものを見る目。なにより彼らの内から流れ込んでくる感情。
「っ、ネルっ、メル……っ」
ボロボロと泣きながら二匹に縋り付けば、体が嗚咽に震え出した。力いっぱい抱きつき、耳元で大声を上げて泣き出してしまったというのに、初めて二匹がフィルのしたいように触れさせてくれる――それが悲しかった。
* * *
泣き腫らして真っ赤になっているだろう目に、西日が差し込んできた。
「……やっぱり連れて行くの?」
山小屋の前で、ロギア爺の大きな体を背に載せたネルにそう話しかければ、二匹はじぃっとフィルを見つめ返してきた。
「……うん、わかってるけど、ちょっと寂しいんだ」
でも、ロギア爺が望んだこと、なのだろうから――。
「ロギア爺、大好きだったよ。もっとちゃんと言ってれば良かったな……伝わってた、かなあ……」
ネルの上のロギア爺に近づいて、その頬を指で撫で、何度も引っ張った髭に触れる。
痛いじゃろうが、という声が今にも唇から漏れてきそうな気がするのに、それがないことにまた胸がつまった。
「また……またどこかで会おうね」
それを隠そうと髭だらけの頬にキスを落として、無理に笑った。そうしないとロギア爺が心配するような気がした。
だから……声が震えてしまったことに彼が気付いていないといい。
「……」
それから改めてメルとネルを見つめる。
「……お別れ、なんだね」
二匹を前にフィルは確かめるように声を絞り出す。きっともう会えない、そんな気がする。
「一回ぐらい、びっくりさせたかったな。いっつもいっつもからかわれるばっかりだったもの。勝ち逃げってずるいよ……」
涙声になったけれど、でも滴が落ちないように目に力を入れた。
今フィルが泣けば、本当は優しいネルとメルは、またここを離れられなくなるのだろう。
本当はそうしたい。行かないでと泣いて、二匹がそうしてくれるなら、みっともなくたってかまわない。けど……そうしたらきっと二匹は困るのだろう。
「元気、でね。いつかばったり森で見つけたら、今度は絶対私が脅かすからね」
しばらくフィルをじぃっと見た後、メルとネルはにやりと笑った。小馬鹿にしているようなあの顔だ。
「無理、じゃな、もん……」
いつもと同じその顔が優しくて、声が詰まった。
暮れていく日の光の中で、彼らはフィルに尾を向けた。
ゆっくりゆっくり、葬送は山脈の奥に向かって少しずつ進んでいく。
その姿は段々小さくなっていって点となり、最後に赤い光に輝く山肌に掻き消えた。
「……っ」
ロギア爺とメルとネル――一時たりと逃すまいと彼らを姿が見えなくなるまで見つめて、それすら失われたことにフィルはまたボロボロと涙を零す。
ところどころに昨日の雪の名残を留めたまま朱に輝く山肌が、水の幕の向こうで揺れている。
「っ、ロ、ギ、爺……、ロ、アじ……い……っ、」
一緒にいれて楽しかった、大好きだった、ありがとう、具合が悪かったのに気付かなくてごめんなさい、心配しないで……、色々伝えたいことがあるのに言葉を続かない。
「っ、ロギア爺ーっ!」
特別な、髭だらけの優しい老人。出せる限りに叫んだ、その人の名が山の間にこだました。
「……っ」
空と山に吸い込まれるように消えていくその音に、応えが返ってくることはもうないと否応なく悟らされる。
「ロギア、じ……」
嗚咽とともに後悔が溢れ出す。
(もっとちゃんと色々伝えておけばよかったのに、もっと返したいことがたくさんあったのに、なんで、なんでうまくやれなかったんだろう……)
いつだって温かい空気に満ちていた、フィルの背後にある山小屋。
深い深い山の奥、古くて暗い森を抜けた先。
家族しかいなかったフィルに、他人なのにたくさんの温かみをくれた、優しい人のいた場所。そこに今は誰もいない。
そして……この先もう二度と、あの優しい空気が満ちることはないのだろう。




