5.訪れ
「じゃあ、またね、ロギア爺」
「……次は春だな」
「うーん、もう雪降っちゃうかなあ……ぅわっ、っ、メルっ!」
「修行しておくことだ……次までに」
山小屋の前でロギア爺と別れのあいさつを交わしていたフィルは、唐突に現れたメルにいつものごとく驚かされた。屈辱に彼(彼女?)を睨みつければ、背後から姿を出したネルと一緒になってにやっと笑いかけられた。
(この顔はあれだ。小馬鹿にしているというやつだ。おのれ……)
「メル、ネル、来年こそ勝つからね……?」
真剣に宣言すれば、二対の金の瞳に楽しそうな色が浮かんだ。
「……くっ」
(目で馬鹿にした、絶対馬鹿にした、また馬鹿にした、来年絶対見返してやる……!)
ぶつぶつ言いながら山を下っていって……ふと引き寄せられるようにロギア爺を振り返った。
「?」
(いつもすぐに小屋に入っちゃうのに……)
珍しく見送ってくれているロギア爺と目が合って嬉しくなって、手を振って振り返してもらう。それでもっと嬉しくなって笑って……。
「……?」
それから、なぜだろう、体の芯が違和感に揺れた気がした。
「フィル、おかえり」
「……ただいま」
ティムがお前がいないとつまらないとぼやいていたぞ、という祖父の声に適当に返事をしながら、部屋に向かう。
「? フィル、どうかしたの?」
途中すれ違った祖母の言葉にフィルは首を傾げた。
(どうか、した……? どうかした、のは私、じゃない……)
「……」
ふと目線を向けた窓の向こうは、まだ夕方だというのにひどく暗い。フィルに誘われたのだろう、怪訝な顔をしていた祖母も顔を外に向けた。
「あら、雪だわ。もうそんな時期なのね」
(雪……)
花びらのような白い塊が、風に舞いながら降下してきた。
「冬、が来るね……」
この地に静寂がやってくる。世界が白と青に覆われて、草木も動物も静かに眠りにつく。そうして暖かくて優しい春を、夢の向こうでゆっくりゆっくり焦がれる。
ガラス越しに見あげた空を覆う真っ黒な雲から、白い欠片が二つ三つ四つ……ぞくぞくと舞い降りてくる。
小さくて手のひらに落ちればすぐに消えてなくなるそれが、もうすぐこの世界を埋めつくし、フィルをここに閉じ込め……――隔離する。
『次は春だな』
(春、次の……)
森に消えていくフィルを見ていたロギア爺。長い白髪と眉の間から覗いたコバルトブルーの瞳が午後の日に輝いた光景を思い出し、フィルは唇を引き結んだ。
(手を振り返してくれた、あの時のあの目……)
「……婆さま、もう一回出かけてくる」
「フィル?」
「半年くらい帰らないかも。あと、ちょっと食料もらってくね」
「半年……さすがにちょっと待ちなさい、フィル」
「ロギア爺のところだから心配いらないよ」
(何だったんだろう、あの感じは……)
何かに急かされるように部屋に飛び込み、大きなリュックを持ち出した。ターニャに怪訝な顔をされながら食料庫に駆け込むと、日持ちのしそうなものをざっと詰め、フィルは走って屋敷を出た。
夕刻を過ぎて、白の花びらはまるでナイフのような鋭さを持ち始めた。吹雪く風に布で覆われていない顔や首が切りつけられ、寒さと熱さを同時に脳へと運んでくる。
(こんな中、夜の森に入る……?)
絶対に危険だとわかる。してはいけないことだと知ってもいる。けれど、行かなくてはいけない、そんな気がした。
「メル……?」
逡巡の挙げ句、森に一歩足を踏み入れた瞬間、白い幕の向こうにすっと浮かび上がったのは黒い塊だった。メルだ。
「メル、なに?」
(様子がおかしい)
吐く息が凍りつく寒風と、吹き荒れる雪で視界が白に染まる中、身動ぎひとつ、瞬きすらしないで、メルのはずのそれはフィルに目を向けている。
目を向けているだけ――『見て』いるのかどうかもわからない、その無機質さに背筋に汗が伝った。
「……」
近寄るな、本能がそう告げる。そうでなければ殺される、そうわかる。
間合いを取ってじりじりと円を描くかのようにメルを迂回する。メルはゆっくりと首だけを動かしてそのフィルへと目を向け続ける。
「……」
――コワイ。
今までどれだけからかわれても感じたことのなかった威圧感に、息苦しくなってくる。
「っ!」
咄嗟に雪の中を転がって、後ろからの殺気をかわした。
「……ネル」
地に積もり始めた雪を散らしながら前方に着地したのは、やはり黒い、大きな魔物の姿。
確かに目が合ったのに、そこからいつものようにネルの思考が流れてこない。
そのネルがフィルへとゆっくりと向き直った。その横に音もなくメルが並び、行く先の道を遮る。
わずかな隙もないその空気と二匹の瞳に湛えられた冷たい光に、血の気が引いていく。
(……本気、なんだ……)
唐突に理解して、フィルは唇を噛み締めた。
それから杖代わりに手にしていた、自分の背丈よりわずかに短いだけの棒を二匹へと構えた。
「通して」
なら、なおのこと、私はこの向こうに行かなければならない。
* * *
「ロギア爺、来たよ」
「……どこまでも厄介な娘じゃな」
床に伏せったまま苦笑するロギア爺の顔は、囲炉裏の赤い炎に照らされていてなおわかるほどの土気色をしていた。室内に漂っているのは体の芯が冷たくなるような、今まで嗅いだことのない嫌な臭いだ。
「派手にやられたな」
白い眉毛が動いたのは顔を顰めたからだろう。
ボロボロになった服の下の大部分は、メルたちにやられて痣で青黒くなっているはずで、そうでないところも雪の寒さのせいできっと真っ赤だ。
「うん。でも……一回も噛んだり爪をつきたてたりしなかった」
そうされていたら間違いなく死んでいた。
髪に付いていた雪が炎の熱を受けて徐々に溶け、フィルの頬を濡らした。
「……」
フィルは無言で大きなリュックを下ろすと、ロギア爺の側に近づく。
「……切ったか」
「うん、しくじった」
唇が切れているのは、メルの前足で吹っ飛ばされたせいだ。からかっている時の比ではなかった。気配はゼロ、動きも目で追うことすらできない速さだった。
「古の神と信じて敬っている地域もあるくらいじゃからな……」
「うん……だって、優しい、よ」
勝てなかったのに、結局通してくれた。
二時間ほど粘ったけれど、全然歯が立たなくて、それでもここに行かなきゃいけない気がして、フィルは最後に彼らに背を向けて走り出した。吹雪で方向がわからないのにただ夢中で走っていて、途中何度も彼らに体当たりされた。そして……気付いたら小屋の前だった。
「フィル、帰れ」
外套を脱ぎ始めたフィルに、ロギア爺が飾らない言葉をかけてくる。ぶっきらぼうなのに、温かみが伝わってくるその声がとても好きだ。
「やだ」
リュックから寝袋をごそごそと取り出して、それをロギア爺のすぐ横に敷いた。
「大体今帰ったら寒くて死んじゃう」
卑怯だな、と思った。優しいロギア爺に付け込んでいる。
「我がままな娘じゃな」
呆れているのに優しく響くその声がとても好きだ。
フィルは逡巡の後、寝袋をロギア爺の寝具の上に引っ掛け直して、彼のすぐ横に潜り込んだ。
「……」
途端に室内に漂っているとの同じ臭いが、強く鼻をついた。嫌な臭いだと思うのに気にする気になれないことを不思議に思って、そして納得して……悲しくなった。
「温かいな」
「さっきまでメルとネルを相手に必死だったもの」
ロギア爺へとぴったりとくっつく。低い声で、大事なものを確かめるかのように言葉を選ぶ、その話し方がとても好きだ。
「外の雪はひどいか?」
「うん……雪男、出てきそうだ」
フィルの答えにロギア爺がゆっくり笑う。時間がそこだけ穏やかになる、その響きがとても好きだ。
「……温かいね」
「……そうか」
なのに、もうすぐそんな大好きな声を聞けなくなると何かが告げていた。




