3.交差
「ゆ、雪男とはあなたのことだったのか」
そう言いながら腹を抱えて笑い続ける目の前の男は、ロギアの昔馴染みのアルだ。
英雄に祭り上げて政治に利用しようとする輩からロギアを隔絶するために、わざわざ何もないこの僻地を領地に選んだ男。そう言うと、この男は「私もエレンも田舎が好きなんだ」と笑うのだが。
「落とし穴に落とされそうになった。結局自分が嵌っておったが」
そう告げれば、彼は「それはエレンにも教えてやらないと……!」とついに涙まで流し始めた。
変わった娘だとは思っていたが、今納得した。
「おかしな娘に育ったのはおまえのせいか……」
そこで彼はようやく笑いを止め、顔を引きつらせた。
「責任は四分の一だ。あとの四分の一はエレン、残りはフィル自身の素質だ、絶対」
久しぶりに彼の訪れを受けているのは、人の気配一つない森の奥のさらに奥、古い山小屋だ。
本来魔物と彼しか訪れないはずのこの場所にここ最近現れるようになったのは、七つになったばかりという彼の孫だ。焼き菓子と茶を持って、身の丈に不釣合いな剣を片手に、一人森を抜けてフラフラやってくる。
遭難しても魔物に遭遇しても来るなと言っても、口を尖らせるだけで決してやめないあたりの強情さは、きっと彼の妻に似たのだろう。
「なんにせよここに来るのはやめさせることじゃ」
今更人に関わりたいとは思えない。
「ロギア……」
彼が顔を曇らせるが、考えを改める気にはなれなかった。
最後のドラゴンを屠り、ロギアが英雄として祭り上げられたことで、いつの間にか離れていってしまった元妻と、英雄の息子と呼ばれて若くして戦に駆り出され、命を散らした三人の息子たち。その子供の多くも似たような運命を辿り、そうでない者はそれを利用して褒められたものではない人生を送っている。自分ゆえに若者の未来に暗雲をもたらすのはもうたくさんだ。
「諦めてくれ」
だが、人の物思いをまるっきり無視した軽さで、「悪いなあ」と言いながらアルは頭を掻いた。それについ眉根を寄せた。
「アル」
「基本的にあれの人間関係に触る気はないんだ。自分でさせようと思って。迷惑なら迷惑だと本人に言ってやってくれ」
「……まだ七つじゃろう」
「気にしなくていい。まあ、どうせ言うことなんて聞かないだろうし」
「それが保護者の台詞か……」
「いやあもう、強情で強情で」
呆れ返るロギアに彼は楽しそうに笑う。
「危ないじゃろう」
「危ないと言ってやめる性格なら、剣を習わせたりはしなかったかなあ」
「……」
「まあ、せいぜい強くなるように協力してやってくれ」
そう笑って、あのおかしな娘の保護者は山小屋を後にした。
「よう、ネルにメル。元気だったか? うちの孫が来てるだろ? せいぜい遊んでやってくれ」
そして、小屋の外にいた魔物に陽気に手を振る。
「もうやっておる」
それに彼はまた楽しそうに笑って、軽い足取りで山道を下っていった。その後ろ姿を見送り、ロギアは溜め息をついた。
さすが保護者というべきか、アルの言った通り、どれだけそっけなくしてもそのおかしな娘は気にしないようだった。
「ロギア爺ーっ」
「……一人で来るのは危ないと言っておるじゃろう」
毎回上機嫌で人の名を呼びながら山道を駆け上がってくる。
半ば呆れながら、「また来たか」と溜め息をつけば、それにすら子供は「うん、また来た」と嬉しそうに笑う。どうしようもなく前向きで、それで更に呆れた。
いつだったかはロギアが不在の時に山小屋に来て、勝手に中に入ってはいけないと律儀に軒下で待っていた。
朝戻ってきた時には、凍えないようにするためだったのだろう、ネルとメルがそれを挟んで寝ていた。
「う、うーん……うぅ、おもい゛……」
押しつぶされて呻き声を上げつつも寝ている神経にこそ呆れた。
「わしがおらん時は勝手に小屋に入っとれ」
苦肉の策で告げた言葉に、「許可が出たっ」とその子供が勝手な解釈をする頃には、疲れて物を言う気がなくなっていた。
変わった娘はそれ以降も変わっていた。
弓を教えろと頼み込み、槍が習いたいと頭を下げ、子供が怖がる魔物の話を好む。
森で培ったのだろう勘は極め付きに良く働くようだったし、武器と自らの体を操る圧倒的な才能に舌を巻いたことは、一度や二度ではない。
ネルとメルにからかわれて、いつも顔を引きつらせている割に興味があって仕方がないらしい。二匹をつけ回しては余計からかわれて、いつも情けない顔をして帰っていく。
「むぅ、ついに美味しくなったのかと思ったのに……」
ある日娘が左腕を抑えながら、メルにやられたと呻いた。見ればそこにはロギアとお揃いの十字の深い傷。
「味見してやっぱりまずかったって言うほうが失礼だ」
ぶつぶつ言いながら、傷に包帯を巻く娘につい口元が緩んだ。娘がこの界隈の森に入る度に二匹が後をつけていることは知っていたが、と。
「まじないのようなものじゃ、それがあると森で危険な目に遭いにくくなる。弱い魔物であれば寄ってこなくなるぞ」
「そうなの?」
へえ、と言いながら娘が見つめるその傷は、昔神とまで呼ばれて恐れられた魔物レメントの加護の証だ。危険な状況になれば、かの種族がその者を保護してくれるという、ひと昔前までは多くの人間が何をしてでも欲した誓約。それゆえ幼いレメントが狙われ、それゆえにかの種族は人を忌み嫌うようになった。
「ムジュンってこういうことか……。ネルとメル以上の危険なんてないのに……むぎゅっ」
だが、背後に忍び寄っていた二匹に押しつぶされた娘には、きっとそんな説明は要らないのだろう。
人嫌いの魔物に奇妙な気に入られ方をした娘。
持ってきた焼き菓子と茶を囲んで話し、共に食材を採りに森に入って、一緒に料理を作り、夕餉にする。その後娘は当たり前のようにロギアの横で寝入る。
来るなと言われてもしつこく付き纏ったり、駄目だというのに強情に弓と槍を教えろと主張した以外、そして、その言動の奇抜さの割に、娘には分別があった。
本当に危ないことはしないし、こちらの置かれた状況や心情を子供なりに推し量ろうとする。こちらの空気を読んで、それに応じて自分の言動を決めている。
すべて深く考えている訳ではないようなのが、救いだった。
娘でもなければ孫娘でもない、八十も年の離れた、友人と呼ぶには奇妙な娘。
望んだ孤独の中に、突如割り入ってきた勝手な存在。
資格がないと、遠ざけていた他者の体温と、自分に向けられる打算のない笑顔。
長く忘れていた、子供の笑い声と眩しいまでの未来の輝き。
ロギアはいつからか娘の訪れを歓迎するようになり、いつからか共に笑うようになり、いつからかその幸を願うようになった。
おかしな、おかしな、だが大切な娘の名はフィルといった。
友達がいないと言っていたフィルが、ある初夏の日、一際上機嫌に小屋にやって来た。
「ロギア爺、ねえ、友達できたよっ、アレクっていうの、連れてきたよっ」
背後に姿形のいい、小さな子どもの姿。あまり外に慣れていないのだろう、色白でここまでの山登りに大分疲れているようだったその子は、息を切らしつつもロギアを見て挨拶を口にした。
「はじめまし……」
その横でフィルがあまりに嬉しそうに笑うので、気付いたら、ロギアはその友達の頭を撫でていた。
その子供は、フィルとは別次元で聡い子だった。
自分をあの「ウィル・ロギア」と知っている。だが、フィルのためかロギアのためか、それをおくびにも出さない優しい子だった。
フィルが張り合っている生き物たちが、古に神と呼ばれた幻の生き物だと知っている。そこまで知っていれば、かの種族がたった一匹で一国を滅ぼしたこともある存在だと知っているのだろうに、怯えることもない。そして、人を嫌う二匹のためにか、敬意を払いつつちゃんと距離を保っていて、それを察したらしいネルとメルもその子を気に入ったようだった。
フィルの最初の友達がそんな子であることにロギアもつられて上機嫌になった。
もう長く語ったことのなかった『最後の竜』の話や『ザルアの悪魔』の話を語れば、二人は頬を上気させ、目を輝かせる。
それにロギアの方が楽しませてもらったことを、彼らはきっと知らないだろう。
その後も何度かやってきたその『彼』とフィルの間に生じていた幼い恋。それに幸多からんことをロギアが祈ったことも、彼らはきっと一生知ることはない。
先を持つ彼ら。そして、終焉が近づいている自分。
最後の最後にその人生が交わったことを心から感謝し、同時に……心から呪った。




