2.傍ら
雪男改めロギア爺は、ザルアの山脈の深い『迷い森』の更に向こう、その森すらも途切れる高山で暮らしている。
そんなロギア爺の小屋に行こうとして、遭難したことも魔物に追いかけられたことも一度や二度じゃない。だから、ご飯と寝袋と剣は必ず持っていく。
真っ白の髪と髭と眉で顔がほとんど見えないロギア爺の年はよくわからない。聞いたら『忘れた』と言っていた。
髭はいつから剃ってないのか? それもわからないって。
「ロギア爺ーっ」
「……一人で来るのは危ないと言っているじゃろう」
ロギア爺はあんまり笑わない。笑っても髭と眉毛に隠れてあんまりわからない。
ぶっきらぼうだけど、でも温かい。最初の頃は来るなと言っていたけれど、諦めたんだって。
目が合って『また来たか』と言ってくれるようになった時はすっごく嬉しかった。
『わしがいない時は勝手に小屋に入っとれ』
そう言われた時はなんだか得意になった。
ロギア爺の暮らす山小屋の周りは、素敵なものでいっぱい。
怖い魔物までいるのはちょっと困るけど、晴れた日に麓を見れば、緑の絨毯の向こうにザルアの湖がキラキラ輝く。涼しい風の吹いてくる後ろを振り返れば、夏でもてっぺんの雪が溶けない山が青く見える。高い山にしか咲かない花に、いっつも森の中にいるフィルですらほとんどお目にかかったことのないような珍しい動物もたくさん。
「山の中にいるのはやっぱり楽しいから?」
「……まあな」
「そうだよね、私もここ、好きだな」
ロギア爺はあんまり街を好きじゃなくて、買出しにだって滅多に行かないらしい。だから、食べ物は自分で調達するんだって。
「それっ、教えてっ」
渋るロギア爺を説き伏せて、そんな彼の得意な弓を教えてもらった。
「ロギア爺、冒険のお話して」
ロギア爺は冒険をいっぱいしたらしい。
竜にグリフィス、ヒュドラ、他にもいっぱいの魔物たちに出会った話や隣国にある魔女の森を抜けた話、南の海で見たことのない巨大な生物に船をひっくり返された話、大人の五倍はある大きな鳥に攫われて雛の餌になりかかった時の話。
ロギア爺はそういうのを槍で凌いできたんだって。
「それも教えてっ」
「そんなに武器ばかり習って何をする気だ……」
顔を顰めたロギア爺をやはり説き伏せて槍を習った。
「ネル、メル、ロギア爺どこにいるか知ってる?」
ロギア爺の小屋には昔彼が拾って育てたという不思議な生き物、ネルとメルが現れる。
黒のような緑のような毛皮を持つ、豹に似た体形をした生き物で、馬より大きい。ここだけの話、実は魔物だそうだ。
頭が良くてこっちの話すことがわかるみたいだし、フィルも彼ら(彼女ら?)の言いたいことがわかる。
その彼ら(彼女ら?)と最初に会ったのは、ロギア爺の小屋に行くようになって五回目くらいの時だった。
ネルにあっさり後ろから間合いに入られて、その気配に振り向きつつ剣を抜こうとした瞬間、利き手を剣の柄ごとメルに押さえられて地面に引き倒された。
自分の優に十倍はある、見たこともない、けれど綺麗な生き物に馬乗りになられた時はさすがに蒼褪めた。
「こ、今度こそ肉決定……」
(でも、生はやだ……どうせ食べられるんなら、焼かれるか煮られるかしたい……)
そう思ったから、「……た、食べるの? お、美味しくないかもよ……?」とワルアガキというのをしてみた。
その時だ。
『こんなまずそうなもの誰が食うか』
彼ら(彼女ら?)は必死のフィルを思いっきり小馬鹿にした。
「ひどい……」
自分で美味しくないと言ったくせに、あっさり認められて傷ついた。
そして、彼ら(彼女ら?)はひょいと体の上からどく。
(センザイイチグウってやつだ!)
凹んでいる場合じゃないと思って逃げ出そうとしたのに、
「いてっ」
メルに尻尾でべしっと頭を叩かれて失敗。
その後も逃げ出そうとするごとに足を引っ掛けられるわ、ぱっくり開けた口で噛み付くようなまねをされて脅されるわ、で失敗。
まるで連行されるかのようにロギア爺の小屋に連れて行かれた。
あれはひどく情けなかった。しばらく立ち直れなかった。もっと修行しようと思った。
ちなみに、「食べられるかと思った……」と涙目で零したフィルに、決定打をくれたのはロギア爺だった。
「そんなに悪食じゃない」
……ちょっとひどいと思った。
ネルはロギア爺には触らせるのに、フィルには絶対に触らせてくれない。そのくせ彼(彼女?)は気配を消してこちらに近づき、その大きな足でいきなり背をトンと押したりする。毎回毎回心臓に悪いし、かなり悔しい。
メルは触らせてくれるけど、触り方が悪いと長い尻尾でべしっと頭を叩いてくる。しかも、いきなり木の上から人の目の前に飛び降りてきたりして、その度に心臓が縮み上がる。
もし二匹が私を食べようと思えば絶対に一瞬だ、と思って、その度に情けなくなった。修行が足りないらしい。
ちなみに、二匹との勝負に負けた時は、何かを差し出さないといつもまでも苛められる。
彼ら(彼女ら?)が好むのは、フィルの好きな焼き菓子、フィルの好きな鳥肉、フィルの好きなキノコのシチュー、フィルの好きな鱒のパイ、フィルの好きな…………ん?
とにかくフィルが焼き菓子よりまずそうに見えていることは確定のようだ。嬉しいけど嬉しくない。
そんな感じでフィルは、月に二、三回、色々持ってロギア爺の小屋に泊まりに行くようになった。
持ってきたお茶を一緒に飲んで、焼き菓子を一緒に食べて、ネルとメルにフィルの分はたまに(爺さま、ごめんなさい。ミエっていうのを張りました。大抵『いつも』です。がんばります……)食べられて、ロギア爺に弓か槍を習って、一緒に材料の調達に行って並んでご飯を作って一緒に食べる。それから火を囲んで色んな話をしてもらって、ロギア爺の側で寝袋を敷いて寝る。
その時間はフィルにとって大事な、大事なお楽しみだった。
初めて雪男ことロギア爺を見かけてから一年後ぐらいだったと思う。
「山守のロギア爺のところに行こう」
生まれて初めてできた『友達』のアレクをロギア爺に会わせたくて、誘ったら頷いてくれて本当に嬉しかった。「ロギア……?」と呟いてアレクは首を傾げていたけど、アレクはきっともっとザルアが好きになると思った。
「ロギア爺ーっ、ねえ、友達できたよっ、アレクっていうの、連れてきたよーっ」
「はじめまし……」
そうして山小屋に連れて行ったアレクを見て、ロギア爺は顔をくしゃくしゃに緩めて笑った。挨拶の途中で頭をわしわしと撫でられたアレクが固まって、目をまん丸くしたのが面白くて、フィルも笑った。
いつものように、でもその時はアレクも一緒に賑やかに食事を作って食べる。その後、炉端で火を囲んで二人一緒にロギア爺の『最後の竜』や『ザルアの悪魔』の話を聞いた。
アレクが目をキラキラさせて楽しそうに聞いていたのも、ロギア爺が長い眉の向こうで、コバルトブルーの目を細めてずっと笑ってくれているのも嬉しかった。
その夜はロギア爺とアレクと並んで寝た。幸せすぎた。
アレクといるのもロギア爺といるのも特別だけど、二人が揃ったらもっともっとすごい時間になった。
その後もアレクと一緒にロギア爺の所に行った。
最初は出てこなかったメルもネルもそのうち出てくるようになって、彼ら(彼女ら?)を見たアレクはぱっくり口を開けていた。美人が台無しで、ちょっともったいないと思った。
ちなみに、ネルとメルはアレクをからかわなかった。それどころかフィルから取り上げた焼き菓子をアレクにあげていた。さすがアレク。優しい美人はシュゾクの壁を越えるらしい。
それにしても……つまりは『美味しそう: フィル<焼き菓子<アレク……』。
なんてことだ、ともちょっと思ったけど、気持ちはわかる、とも思った。だから、アレクが彼ら(彼女ら?)に食べられそうにならなくて、こっそり安心した。
「よかった、アレクが食べられなくて」
ほっとしながらそう言ったフィルに、ロギア爺は言った。
「あっちなら腹を壊さないかもしれんがな」
……ちょっとひどいことを言われているような気がした。
フィルの幼少期を語るなら、ロギア爺とのそんな思い出のあれこれが必ず入ってくる。
爺さまや婆さまみたいな家族じゃないけど、同じくらい大切な人。
アレクのような親友じゃないけど、同じくらいとってもとっても大好きな人。
色々話をして、してもらって、色々教えてもらって、色々な発見を報告して、月に四、五日ほど一緒の時間を過ごす、とっても特別な人。
フィルが大好きなザルアの、すっごく大事な一部――それがロギア爺だった。




