8-21.話
「……ん」
意識が浮上してきた。薄目を明ければ、部屋には闇が満ちていた。射し込む三日月の明かりが、目の前のアレックスをぼんやりと照らしている。
「っ」
おそるおそる視線上げれば、彼と目が合った。同時に、生々しく触れ合っている肌の感触を自覚する。
一瞬で顔に血が集まって、フィルはアレックスの腕の中で顔を俯ける。視界の端に入る薄めの唇が笑いを湛えたのがわかって、余計に恥ずかしくなる。
「体は平気か」
「あ、はい」
(う。声、裏返った……)
恥ずかしさのあまり、フィルはアレックスの胸へと顔を埋め、布を隔てないその感触にまたもや己の失敗を悟った。
今度は音になった低い笑い声と共に、彼の大きな手がフィルの後ろ髪に触れた。緩やかに撫でられる。
続いて額に唇が落ち、それから髪の生え際に、目蓋に、次々キスが降る。その感触に息を吐き出せば、フィルの口からも小さな笑い声が漏れた。
(……?)
頭を撫でてくれていたアレックスの手が不意に止まった。背に回されている腕が微妙に硬くなった気がする。
「ええと、な、フィル、」
どこか困っているようなアレックスの声に、フィルは顔をあげた。
「こういうことをするのは嫌か……?」
いや、嫌だと言われてもそれはそれで困るんだが、と小さな呟きが聞こえた。
(それって……答えるのにけっこう勇気がいる質問、な気が……)
困ってしまってアレックスの表情をうかがおうと距離を取れば、少し不安そうにフィルを見ていた。
「い、いいえ……」
アレックスにはごく珍しい表情に、フィルは慌てて逡巡と羞恥を捨て、首を横に振った。
(恥ずかしいのは恥ずかしいけど……嫌じゃない)
彼に触れられると、身体が痺れるだけじゃない、心が嬉しくなる。
彼に触れられることが幸せで、泣きたくなる。彼が自分を欲してくれることに言いしれない陶酔を覚える。彼が自分ゆえに快感を覚えてくれていることが、ひどく嬉しい。
思い浮かんできたその思考のせいで、さらに恥ずかしくなった。視線から逃げるようにアレックスに顔を押し付ければ、その先の胸が大きく息を吐き出した。
「その、知っていると思う……いたいが、これはその、」
「?」
これまた珍しく歯切れの悪い、逡巡をたくさん含んだ声にフィルは眉を寄せる。
「夫婦がするような、というか、」
「む」
再度顔を見ようとすれば、気配を察したらしいアレックスに頭を押さえ込まれた。その体勢のまま、「つまりだ」とどこか諦めを含んだような声を聴いた。
「本来は子供を作るための行為、で……」
「はい」
「……」
「?」
「……フィル?」
腕の力が弱くなった。ようやくアレックスを見ることができて、フィルは顔を綻ばせる。
「わかっている……?」
アレックスの戸惑いを含んだ声に、ああ、そうだった、と頷いた。
「でも祖母が好きな人ともする行為だと。その場合はちゃんと避妊について考えなさいって」
「ひに……」
それが具体的にどんな行為か、はっきりとは聞いていなかったけど、体の仕組みと避妊については祖母から繰り返し繰り返し教えられた。
『自分と子供の人生がかかってくるの。男性は逃げられるけど――もちろんそんな男は最低よ、絶対に相手にしては駄目よ、むしろ八つ裂きにしてやりなさい――、女性はそうではない、リスクが高いの』
『そこまで全部考えて、心も体も大事にしてくれる人を探しなさい。そして、あなたもその人を大事にするのよ』
(今思うと結構過激……?)
言っていることは正しい気もするけど八つ裂きって、とフィルはしばし育ての祖母を偲ぶ。
それから、呆気にとられたような顔をしているアレックスを照れつつ見つめた。
「アレックスはちゃんとしてくださったでしょう」
「……今度、からも当然する」
「だったら大丈夫です」
この間は考えが回らなかったけれど、それでもアレックスがちゃんとしてくれて、安心できた。さっきもそう。大事にされている、そう思えたのが嬉しかった。
「……」
気恥ずかしくなってきて、それを隠そうとフィルはアレックスにぎゅっと抱きつく。彼の香りに全身を包まれて、ふわふわとした幸福感を覚えた。
頭上でくすっと笑う音がした。顔が自然と緩む。次いで穏やかに頭を撫でられ、フィルは優しいその動きに誘われるまま目を閉じた。
(寝た、か)
腕の中から響く呼吸が規則正しくなった。どうやら眠ったらしいと悟って、アレックスは苦笑を零した。本当に驚かされてばかり……いや、客観的に考えれば、完全に振り回されている。
アレックスは残っていた緊張を長い呼吸と共に吐き出すと、寝息を立てるフィルの頬をつつく。艶のある唇がむぅと動き、眉根はわずかに寄った。すぐに安らかな顔に戻る。
その様子にアレックスは目を細めると、彼女の額に今なお残る傷に視線を移し、そこにキスを落とした。
「……」
先ほど、嫌かという問いにフィルは首を横に振ってくれた。さらには好きな人とする行為だ、と――それでこれほどまでに浮き立っている自分は、客観的に考えれば、滑稽ですらあるかもしれない。
だが、アレックスにとっては、確かに人生で最も嬉しい瞬間の一つだった。
もう十年近く焦がれ続け、強く望んできた人だ。手にする資格を求めてずっと足搔いてきた。こうして一度触れてしまった以上、彼女を欲しないなんて不可能以外の何物でもない。
(それにしても本当に変わっている……)
今更と言えばそれこそ今更なのだが。
「祖母がそう言った、ねえ」
手触りのいい金の髪を梳きながら思わず呟き、例えば、とアレックスは自分の二人の祖母を思い浮かべた。彼女たちは娘にそんな話をしただろうか?
いわゆる貴族の貴婦人そのままの人たちだ、そんな話題自体絶対に避けて通っただろう、と即座に結論付ける。
「……愛されていたんだろうな」
フィルの祖母、エレーニナ・リラン・ザルアナックは、自分がずっとフィルに付いていられないこと、それゆえ色々教えてやれないことを知っていたのだろう。だから常識や照れより、フィルが必要とするだろう知識を教えることを優先した――。
まあ、噂で聞く分にも、一度会った限りの印象でも、彼女は随分変わった人だったが。
さらに言うなら、恋愛感情からそこに至るまでのことは何ひとつ教えていないのに、避妊だけは教え込んだことを偏っていると思わなくもないが。
「幸せに、という願いゆえなんだろうな」
――ならば、なおのこと、彼女を大切にしなくては。
腕の中で微笑を浮かべて眠るフィルに、アレックスはゆっくりと口付けを落とし、もう一度その身を抱き寄せた。
「……」
(ところで……今もう一度、というのはさすがにまずいだろうか……? だが、嫌じゃないと……ああ、でもさっきまだ少し痛いと……)
安心しきったような顔で自分の腕の中で寝ている姿は確かに可愛いのだが、とアレックスは苦悶を顔に浮かべる。こうなってもやはり拷問は続くのか、と。
素肌になった分、そしてその感触を知ってしまった分、過酷さは増している気がする。




